『ふたり酒』

『ふたり酒』

「この人と出逢えて本当に良かった!」。
そんな方とは、極力ふたりきりでお会いして、
会場にこだわり、美味しい酒肴を共にして、
熱く語り合い、充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは

極力ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

8月12日(水)。

今日の私の『ふたり酒』のお相手は、

プロ野球・広島東洋カープ

新井貴浩監督。

 

 

このブログ2回目。

新井監督(以下監督)が

東京遠征の時にする

恒例の『ふたり酒』。

毎年、積もる話を熱く語り合う。

 

今日はその前に、

監督からの招待で

神宮球場の広島東洋カープ対

東京ヤクルトスワローズの

ナイトゲームを観戦。

 

結果はワンサイドゲームの完封負け。
(0対12)
今日の私と監督の『ふたり酒』を知る
和田一浩氏(べんちゃん)から
試合中にラインが。
「厳しい」
私の返信は、
「あとで監督に会ったら
 なんて声をかけたら…」
べんちゃん
「笑って忘れるしかないですね」
 
試合後、
先に店で待つ私の前に現れた監督は、
間髪入れず
「すみません。
 見苦しい試合をお見せして…、
 横浜高校より弱い (苦笑)」
「こういう日は、
 笑って忘れるしかないね。
 さぁ呑もう!」

そんな言葉のやり取りから

今日の『ふたり酒』は始まった。

 

今日の会場は、

ちょうど1年前の

『ふたり酒』の会場。

 

「 兜(かぶと) 麻布十番店 」

東京都港区麻布十番3-2-12

シンシア麻布十番B!F

📞 03(6809)6029

 

地下鉄南北線

「麻布十番」駅1番出口 徒歩1分

 

    兜 麻布十番店

   

【佐賀牛一頭買い】

まるで焼肉店とは思えない

スタイリッシュ&

ラグジュアリーな店内で

極上の焼肉が楽しめる。

店内は全て個室で

プライベートな空間。

超希少部位を

14種類以上とり揃えた

佐賀牛専門店。

肉の質も極上である。

 

監督業4年目。

現在最下位に沈むチーム、

更に選手による

「ゾンビたばこ」の不祥事から

世間を騒がせ、

シーズン当初から頭を

抱え続ける監督。

グランド内外で

その心労は尽きない。

今日はそれらの話題は

出すまいと

心して臨んだ私だったが

監督の方からそれらを

熱く語り出した。

「私に言っているうちは

 私で止まっているから大丈夫、

 今日は発散して(笑)」

残念ながらそれらの内容は

差し障りがあるので、

ここに綴ることは出来ないが

少なくとも監督は、

この半年間、相当悩み

フロントに進言し続けた事だけは

彼の名誉のために

言っておきたい。

そんなストレスたっぷりの

現在の監督に私は、

彼にとって、

悪い話と良い話の両方を

しようと予め考えていた。

まず、第一弾として

過去の苦い出来事を

敢て思い出させ(笑)

「その時に比べれば…」と思わせ

その後、第二弾として

良い話で彼の気持ちを

明るく盛り上げ、

今日の『ふたり酒』を締める。

それが現在の監督のストレスを

少しでも緩和する最善の方法では?

そんな事を考え

同じ血液型(AB型)として(笑)

過去の私をだぶらせた。

 

早速…。

「これまでの野球人生で

 最も辛かったことは?」

「阪神タイガースの4番時代です。

 あの時代は本当に辛かったです。

 大阪の土地でタイガースの4番、

 打てない時にはまるで

 犯罪者扱い…。

 外出もままならなかったです。

 経験したものでなければ

 わかりません。

 あの時に比べれば何があっても」

どうやら私の作戦の

まず第一弾は成功したようだ。

 

明日の天気は大雨予報、

ノーゲームの可能性大、

気が付けば6時間、

互いにビールとハイボール

合わせてジョッキーで

11杯づつ(笑)

盛り上がってきた頃に

遊び心で私から監督に

恒例の質問。

「 監督が現役時代、

 同時期にプレーした選手の

 ベストナインは?」

 

題して

「新井貴浩監督が選ぶ

 ベストナイン」

投 手:上原 浩治

捕 手:阿部 慎之助

一塁手:小笠原 道大

二塁手:菊池 涼介

三塁手:村田 修一

遊撃手:宮本 慎也

左翼手:金本 知憲

中堅手:柳田 悠岐

右翼手:高橋 由伸

 

これまでのこのブログでこの質題、

誰よりも一つ一つのポジションの

選出に時間を要していた。

その選出された選手、

かつて同じ質問をした面々と

ほぼ同世代にも関わらず

ここまでそれぞれの

選出メンバーが異なるのは

とても興味深い。

価値観の違いか?

 

そしてこのブログに

新たな企画が。

それはこのブログがきっかけで、

こんにちすっかり

親しくさせていただき、

連絡を取り合う

NPB山本 勉 公式記録員。

 

その山本記録員に私は

「 一般的には公開されず、

 本人も意外と知らない記録を

 何かご提供いただけませんか?」

そんな私のお願いに

快く貴重な時間を割いて

山本記録員は自ら記録を考案、

そのデータを調査してくれた。

 

その記録とは?

そしてそれを本人に質問。

果たしてその答えは?

題して、

NPB公式記録員山本勉が調査した

「これがあなたの記録だ!」

その第1回目。

本日の新井貴浩監督。

現役時代の新井選手と言えば

言わずと知れた

本塁打王も獲得した「スラッガー」。

一方でその守備力は?

広島東洋カープ入団から

しばらくは「三塁手」、

その後、「一塁手」へコンバート。

移籍した阪神タイガース時代、

復帰したカープ時代は

主に「一塁手」として

出場していた。

歴代のセ・リーグ三塁手で

同ポジションで1000試合以上

出場している選手は、

いったいどの位いると

思っているだろうか?

新井監督、

「200人ぐらいですか?」

いいえ、たったの11人です。

偶然にも一塁手も11人。

意外と少ないものである。

つまりレギュラーを獲得し、

それを長年守り続ける事が

いかに大変かという事である。

 

新井選手は三塁手としても

一塁手としても1000試合以上

出場しており、

それぞれの11人の中の1人。

では、その守備率は

何位にランクされているか?

本人に想像してもらうと…。

まずは三塁手で、

「 どんけつ、11位ですね。

 間違いないです(笑)」       」

残念でした。

まだ下に1人います。

10位です(笑)

山本記録員から送られてきた

そのデータは。


【セ・リーグ三塁手守備率】

(1000試合以上=11人)

 

順位  選手名  守備率 失策

1    角  富士夫    0.975    81

 2        宮崎  敏郎         0.97          72

 3        長嶋  茂雄  0.965  261
 4          原    辰徳      0.964     106
 5        掛布  雅之      0.963     163
 6        三宅  秀史  0.963  127
 7        村田  修一  0.958      181
 8        衣笠  祥雄         0.955      176
 9        江藤 智    0.953      147
10       新井  貴浩         0.95        139
11       田代  富雄  0.948      137
 
では、一塁手としてはどうだろうか?

本人曰く

「 一塁の方は、

 ちょっと自信があります。

 7位か8位くらいですか?」          」

 

ところが!

その答えはなんと!

 

【セ・リーグ一塁手守備率】
(1000試合以上=11人)
順位 選手名  守備率 失策  
  1    新井  貴浩    0.996       35
  2       落合  博満   0.995      44
  3       松原 誠        0.994       86
  4         王 貞治      0.994     165
  5       藤井 弘     0.994       77
  6       小早川 毅彦   0.994       56
  7       衣笠   祥雄     0.993        62
  8       川上  哲治   0.993        76
  9       遠井  吾郎   0.993        86
10      駒田  徳広   0.993         97
11      谷沢  健一   0.992         88

*川上哲治はセ・リーグ成績のみ

因みに三塁手、一塁手、
その両方で1000試合以上
出場しているのは、
歴代で同じカープ球団の
衣笠祥雄と新井貴浩の
たった2人だけ。
これは凄いことである。

そして山本記録員から
このデータと共に
添えられて来たメッセージ。
「 新井さんといえば、

打撃が売りで守備はちょっと…の

イメージではないでしょうか。

私も正直、

三塁手としては同感ですが、

一塁の守備は上手い部類に入ると

思っていました。

今回、「セ・リーグで1000試合以上」

 一塁と三塁を守った選手の

 守備率ランキングを作りました。

 対象者は一塁、三塁ともに

 11人いました。

 新井さん、確かに三塁手としては

 守備率.950で11人中10位でした。

 しかし、一塁手としては守備率.996。

 王さんや落合さんの上に立ち、

 堂々のリーグ1位です!

 ご本人、こんな好数字を残したと

 実感されているのでしょうか?

 阪神時代の2008年には一塁手として、

 守備で秀でた選手に与えられる

「三井ゴールデン・グラブ賞」を受賞。

この年、一塁手として91試合に

出場し失策はわずか「1」。

守備率.9988は、

1993年に小早川毅彦さん(広島)

が作った

守備率.9986を15年ぶりに更新して

「セ・リーグの一塁手最高守備率」

でした。

(この記録は2018年にロペス(DB)

一塁手が守備率10割を作るまで

10年間セ・リーグ記録でした)」

 

という事で、

一塁手としては

山本記録員お墨付きの

名手の中の名手。

 

かつて私は新井選手から

この三塁手用のグラブを

いただいている。

 

 

このデータからすると、

このグラブをファーストミットに

交換してもらえないもの

だろうか(笑)

監督、いかがでしょう?

 

いづれにしても

このような興味深いデータを

調査してくれた

山本勉記録員に

心からお礼を申し上げたい。

 

そしてこれを知った

この日の新井貴浩監督が

現在チームが抱える

様々な問題をひと時でも忘れ

ご機嫌だったことは

言うまでもない。

「 明日、カープの選手たちに

 いや、野球をやっている

 2人の息子たちに

(大学4年生と2年生)

 自慢しますよ!」

 

今回も又、「最後の1杯」

と言ったはずの

ウイスキーハイボールが

そこから更に3杯、

翌日の電話も再びこの話題、

監督の喜びを物語っていた。

翌日のナイトゲームは、

天気予報通り雨天中止となり、

私はほっとした…。

2日後、

このデータ資料を息子たちに

見せたという。

「 子供に見せたら驚いていましたが

 どこか誇らしそうにしていて

 父親としての面目が立ちました

 (笑)

 山本さんに宜しくお伝えください」

 

すっかり落ち込んでいた監督に

こうして第二弾の方策も成功、

この上ない「ボランテア」が出来た

(笑)

来季も監督という立場で

再びこの『ふたり酒』が出来る事を

切に望む私である。

 

激動の阪神タイガース4番時代

 

 
広島東洋カープへ復帰後
通算2000本安打達成で
「名球会」入り



そして引退。
感謝の気持ちを込めて関係者に贈った
記念クオカード 
 
       



 
 
           
           
           
           
           
           
           
           
           
           
 

 

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは

極力ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

8月1日(土)。

今日の私の『ふたり酒』のお相手は、

齋藤一江さん。

 

 

齋藤一江さん?

知る人ぞ知る

旧姓「 米川 一江 」。

大相撲、

第46代 横綱 朝潮(朝汐)こと

五代目高砂浦五郎親方の

長女である。

 

五代目の高砂浦五郎親方は

先代から引き継いだ弟子

大関 前の山、関脇 高見山や富士桜

そして自らが手塩にかけた

大関 朝潮や小錦、関脇 水戸泉ら

多くの関取を育てた名門

高砂部屋の名伯楽。

そして私に取っても

多大な影響を与えてくださった

方である。

 

現役時代は濃い胸毛と

太い眉毛で人気を博し、

当時は一に朝潮、二に長嶋、

三に三島由紀夫と、

胸毛の濃い著名人を謳うフレーズが

聞かれた。

私が小学校へ入学する時の引退だから

既にご存知ない方が多いと思うので、

まずは改めて、

その輝かしいプロフィールを

ご覧いただきたい。

 

出典:第46代横綱朝潮太郎記念館

   パンフレット

 

高砂親方は(以下親方)

私の父とは同い年という事もあって、

ふたりは昵懇のお付き合いを

していた。

それはプライベートで海外へ

ゴルフ旅行にご一緒するほど。

その父の繋がりから

有難い事に私は若い時分から

親方ご夫妻に、

「若旦那」と呼ばれ、

とても可愛がっていただいた。

結婚披露宴では

「乾杯の音頭」を取っていただき、

親方が相撲協会執行部の理事で

巡業部長時代に

海外巡業へ行けば

お土産を買って来て下さったり。

私が焼酎を飲み始めたと知れば

親方の故郷「鹿児島県・徳之島」から

黒糖焼酎をダンボール1箱。

「グレープフルーツで割ると

 美味しいぞ」

別便でグレープフルーツまで

1箱送って下さった。

それはいただき物のみならず

部屋のお祝い事などの招待状は、

父とは別に、

私宛にも送って下さるという

当時の相撲界では

考えられない配慮を

していただいた。

 

そして何と言っても

父が社長時代、

年に2回開催していた

弊社のゴルフ会には、

(於:紫カントリーすみれコース)

万障繰り合わせて

必ず参加くださり、

しかもその時には、

親方の強い意向で

親方と私は必ず同組でラウンド。

女将さん(米川啓子夫人)曰く

「親方の趣味ゴルフを

 晩年一番一緒にしたのは

 若旦那よ」

恐れ多くも天下の横綱と…、

私の大きな自慢である。

1日ご一諸しているラウンド中には、

色々な話をしてくれた。

ある時には

「若旦那の生まれは何年? 干支は?」

「私は昭和31年3月14日、

 さる年です」

「へぇ~、ワシが初優勝した時の

 場所中だよ。

 さる年?

 一江(長女)と一緒じゃないか。

 色々偶然だな(笑)」

 

【 注 意 】

親方は幕内優勝5回のうち、

4回が3月大阪場所で、

あまりに大阪場所に強い事から

当時「大阪太郎」と言われた。

(四股名:朝潮太郎

その最初の優勝の昭和31年3月に

私が生まれている。

 

ゴルフ会での

忘れられないエピソードがある。

それはラウンド後の大浴場で。

私が親方に、

「親方、背中ごっつぁんです!」

親方の毛むくじゃらな背中を

タオルで洗い流そうとしたら、

「やめてくれ!」

私からすると敬意を持って、

親方の背中を流したかったが

そんな私の気持ちとは裏腹に

逃げる親方。

石鹸の付いたタオルを持って

追いかける私。

これには風呂場にいた

見知らぬ人たちも大笑い。

現役時代とは違い、

もう人には背中を流させない

天下の横綱も既に世方(よかた)

だった。

(世方:相撲界の隠語で「一般人」の意)

 

又、このブログで何回も

綴っている元水戸泉の

錦戸親方とのありがたいご縁を

作って下さったのも親方。

「若旦那、

 こいつと兄弟の付き合いを

 してやってくれ!」

そんな親方の一言から

水戸泉と私の「兄弟分」の

付き合いが始まり、

46年が経過した。

 

親方がお亡くなりになった後、

前出の女将さんとの会話の中で、

時に私が親方から聞いた話の内容を

言うと…。

「そんなことまで

 若旦那に言ってたの!」

このように私の人生に

多大な影響を与えて下さった親方。

 

【 想い出の品 】

 

ちょうど60年前、

親方に(当時は前名の振分親方)

書いていただいたサイン。

一般的に使われていた四股名「朝潮」

ではなく一時期改名した「朝汐」で

書かれた親方、

何かこだわりがあったのか?

とても達筆な親方だった。

 

「深紅の横綱のミニチュア」

 

角界には横綱経験者が

無事、還暦を迎えると

特製の赤い綱を締めて

国技館で土俵入りをするという

習わしがある。

第45代横綱の初代若乃花が

その披露をした時、

「来年はワシの番だ!」

自身の還暦土俵入りを

それは楽しみにしていた親方。

その後、軽い脳梗塞で倒れても

この土俵入りに向けて

肉体に鞭をうち

ジョギングなどで

毎朝体を動かしていた。

だが、無念にも59歳直前で

この世を去ってしまった。

37年前、

女将さんはそんな親方の

無念を晴らすべく、

親方の1周忌法要の会に

この「深紅の横綱のミニチュア」

を参会者の人数分作成して、

当日の引出物にした。

 

どれもこれも想い出深い

私の宝物である。

 

そんな親方が目に入れても

痛くなかったのが、

今日の『ふたり酒』のお相手、

長女の一江さん。

(以下一江ちゃん)

ご本人曰く

「目に入れてもではなく、

 目に入っていた」(笑)

一江ちゃんの話は、

当時ゴルフのラウンド中にも

親方から沢山聞かされていた。

その親方を偲びながら

一江ちゃんと、

時に『ふたり酒』をする。

いつも私が勝手に

会場を決めてしまうので、

今回は一江ちゃんにと思い、

「親方の思い出の食事処、

 どこかない?」

「父の思い出のお店は

 全て閉店してしまいました」

無理もない、

親方がお亡くなりになって、

38年…。

では、せめて親方が

最も好物だった食べ物屋さんでと、

一江ちゃんにお伺いを立てると

即答で

「天ぷらです!」

 

このブログ『ふたり酒』でも

これまで何回か会場になっている

私の中で「天婦羅なら『初穂』」。

早速、予約の連絡を入れると

私のいつもの指定席は

既に塞がっていたが(笑)

何とか2席確保。

 

「てんぷら初穂」

東京都港区赤坂3-15-12-3F

地下鉄千代田線「赤坂駅」徒歩3分

地下鉄銀座線・丸ノ内線

 「赤坂見附駅」徒歩5分

 

ホテルオークラや

キャピトル東急ホテル他

40年間天ぷらひと筋に生きる

富山 三喜男 オーナー料理長

 

「太白(たいはく)」一番搾りの

ごま油100%を一度だけの使用で、

本来持つ素材の本当の美味しさを

引き出すことに強いこだわりを持つ

「ザ・職人」。

ホテル時代、

専門店の料理長時代、

そしてオーナーとして経営する現在、

私とは30年以上のお付き合い。

 

    今日の逸品

 

「お芋(紅黄金)の天婦羅」

実はこれ「裏メニュー」。

低温の別鍋で20分かけて

薄い衣で揚げる絶品。

一江ちゃんに是非食べてもらいたいと、

大将に事前リクエスト。

 

今日の一江ちゃんとの

『ふたり酒』。

実は、あまりスマートな

質問ではないので、

これまで躊躇して

聞いた事がなかった話がある。

それは、

「幼少時から思春期も

 力士が大勢いる

 男所帯の相撲部屋と

 同じ屋根の下。

 違和感はなかった?」

「生活そのものでしたし、

 特にはなかったです。

   ただ、お相撲さんは

 口が悪いので、

 お友達をうちに

 連れて来るのは

 嫌でしたね(笑)」

更に私は、

「お相撲さんと結婚して

 六代目の継承なんて

 考えた事はなかった?

 親方や女将さんは

 どう思っていたんだろう?」

(注)

 昔から相撲部屋は

 女の子が生まれたら

 お赤飯を炊くと言われたほど、

 親方の娘さんと地位ある力士、

    あるいは将来を嘱望された

    力士と結婚をさせて

 部屋を継承する事が

 望ましいとされていた。

「私もそうでしたが、

 父も母もそれは、

 全くなかったです。」

「そうだったんだ…。

 話は変わるけど

 私は一江ちゃんというと

 35年前、一江ちゃんが

 結婚した時のあの出来事、

 一番の思い出かな。」

 

それは女将さんが、

「一江を鳶の木遣りで

 柳橋の実家から

 (嫁に)出したい。

 社長、鳶のお知り合い

 いませんか?」

鳶とは「鳶職人」のことで、

建設業において高所での作業を

専門とする職人。

江戸時代には町火消しを兼ね、

彼らが祝い事の際に歌う

「木遣り歌」は

日本独特の文化の一つ。

更に女将さんは、

「末広がり」で2列八人づつ

16人の鳶で

お願いしたいと言う。

同業の古参鳶に言わせると

「 ハッピ姿の鳶16人、

  そしてその木遣り、

  それは壮観です!

       中々見られません 」

そんな依頼ではあったが、

私の地元の鳶「栄町」は

我が家と親子三代のお付き合いで、

現在の頭(かしら)は、

私と幼なじみの

1級先輩だった事から

その頭が全て段取りをしてくれた。

2列のそれぞれ先導の鳶は、

両家の家紋と両家名入りの

提灯を持つ。

そんな女将さんのこだわりの

お手伝いをさせていただいた事が

今も忘れられない。

当時既に

お亡くなりになっていた親方にも

見ていただきたかった…。

 

そんな一江ちゃんとの

今日の『ふたり酒』。

今回も近況報告や

想い出話など、

楽しいひと時だった。

そして今も尚、

私が相撲界に関する事で迷った時、

いつも適切なアドバイスを

してくださる女将さん。

米川啓子さん)

現在は長野県の茅野にお住まい、

遠く離れていても

変らぬ50年のお付き合い。

また親方の橋渡しから

46年の付き合いが続く

元水戸泉の錦戸親方

天国の親方は、

この3人と私のお付き合いを

きっと喜んで

いただいていると思う。

 

私の人生に多大な影響を

与えてくださった親方との

繋がりを作ってくれた

父に感謝をしたい。

 

【 こぼれ話  ① 】

3年前の2023年11月4日。

親方の故郷「徳之島(鹿児島県)」に

「第46代横綱朝潮太郎記念館」

開館した。

 

 

 

記念館には親方の現役時代の写真や

貴重な遺品の数々が展示されている。

 

横綱時代の「三つ揃えの化粧廻し」、

「太刀」や「明け荷」

 

優勝の副賞トロフィーなど

 

「闘牛の島」でも有名な徳之島。

その島をあげて行われた

この開館式に出席するため、

女将さんの米川啓子さん始め

ご長男の一成さん、

そして長女一江ちゃん、

親方の末の弟・忠夫さん、

親方の甥っ子・力也さんら

身内ばかり5人の中に

唯一他人の私に

声を掛けて下さった。

 

開館記念式典へ参加した面々で

 於:徳之島闘牛場

 

親方は生前父に

「社長、一度徳之島へ

   ご一緒しましょう」

だが、とうとうそれは

実現しなかった。

父が訪れることが

出来なかった徳之島に

今回私が足を踏み入れてしまい、

ちょっと申し訳ない気持ちに

なった…。

 

青い海原の美しい島「徳之島」

 

記念館の横には、

現役時代の横綱・朝潮の銅像が聳え立つ。

 

その銅像の前で、

親方の目に入っていた(笑)

本日の『ふたり酒』のお相手

一江ちゃんこと齋藤一江さん。

 

【 こぼれ話  ② 】

一昨年、

親方がとても大切にしていた遺品を

錦戸親方と私に

女将さん(米川啓子さん)が下さった。

 

それは、

「歴代横綱の手形とサイン」。

親方が歴代の横綱たちに依頼、

それを表装して掛け軸にしたもの。

錦戸親方には、

「 第42代鏡里 から第60代双羽黒まで」

因みに親方が作成されたこの時点で、

2人の元横綱が亡くなっていて

(43代・吉葉山  51代・玉の海)

この中には欠けている。

 

 

私には

「第38代 照国から第55代 北の湖まで」

やはり3人の元横綱が亡くなっていて

(39代・前田山 40代・東富士

 51代・玉の海)

この中には欠けている。

 

 

特に第45代横綱の初代若乃花は、

引退後、手形やサインは

まずしない方だったそうで、

女将さん曰く

「親方が頼んで特に書いてもらった」

そんな貴重な品。

 

手塩にかけて育てた水戸泉と

息子の様に可愛がっていただいた私、

親方が「兄弟分」として

結び付けてくれた2人に、

このような実に貴重なお宝、

しかも2つ1セットの物を

女将さんがふたりに、

分けて下さった。

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは

極力ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

【 メモリアル 編 】

既にお亡くなりになったり

体調不良などの諸事情から

こんにちでは、

残念ながら『ふたり酒』が

できない方もいる。

ゆえにその方々は、

これまでこのブログに

登場することはなかった。

しかし私にとって、

かつての大切な『ふたり酒』の

お相手。

私の人生を豊かにしてくれた

ひとり。

そこで、そんな方々も

【 メモリアル編 】として

ここに書き残しておきたい。

 

おかげさまで、

このブログ『ふたり酒』は

今回が記念すべき第50回目

「この節目の時には、この方」

既に私の中では決めていた。

 

7月17日(金)記。

メモリアル(3)

それは、

濱本 英輔 氏

 

19年前、濱本 英輔 氏ご夫妻に

私たち夫婦の27回目の結婚記念日を

千葉マリンスタジアムVIPル-ムで

祝っていただいた。

 

(写真左より)

・濱本 英輔 氏

・リア・ディゾン

    この日始球式を務めた

  ロッテ「リッチフル-ツ

  チョコレ-ト」の

  イメ-ジキャラクタ-。
  当時「グラビア界の黒船」

  と言われていた。

・私、そして家内

・濱本 みよ子 夫人

 

( 数々の要職を歴任され、

 これまで色々な肩書を持つ

 濱本 英輔 氏。

 今回のブログで

 それらの肩書の中から

 どの肩書で表現させて

 いただいたら良いものか?

 そんな事を悩みながら、

 平素お呼びしている

 「濱本さん」で

 表現させていただく

 ことにした )

 

現在体調を崩され、

外出も控えていらっしゃる濱本さん。

今年の1月9日、

病院へお見舞いにお伺いして以来、

お会いはしていないが、

電話でのやり取りは

つい最近もさせていただいた。

その濱本さんとの出逢い、

そしてこれまでの『ふたり酒』、

又、こんにちまでの数々の恩義を

ここに綴り、

改めて衷心より

感謝を申し上げたいと思う。

 

今月の7月3日、

90歳「卒寿」を迎えられた

濱本英輔さんのプロフィールを

改めて紹介させていただく。

 

兵庫県出身の濱本さんは、

1961年東京大学法学部を卒業、

同年大蔵省に入省。

大臣官房審議官、主税局長を経て

1993年、

第26代 国税庁長官に就任。

退官後は、

全国労働金庫協会理事長、

日本損害保険協会副会長、

北海道東北開発公庫総裁、

日本政策投資銀行副総裁を経て

2003年ロッテ副社長に就任、

2004年から2006年まで

千葉ロッテマリーンズの

球団社長を務められた。

2014年には、

『瑞宝重光章』を受章している。

 

この輝かしい経歴を持つ

濱本さんとの出逢いは、

濱本さんが千葉ロッテマリーンズの

球団社長をお務めになっていた

2005年12月2日。

今から21年前の事である。

この年は千葉ロッテマリーンズが

31年ぶりの日本一に輝いた年で

この時の日本シリーズの M V P

今江敏晃選手の結婚披露宴の席。

( 元東北楽天

  ゴールデンイーグルス監督 )

その披露宴には私のみならず、

家内も招かれ、

そのお隣りにいらしたのが

濱本英輔球団社長(当時)、

いや、濱本社長のお隣りが我々

という表現が適切であろう

(苦笑)

その披露宴で今江選手から

祝辞を頼まれた私が

そのスピ-チを終えると、

お隣りの濱本さんの方から、

「うちの球団のコ-チ、選手を

 随分かわいがっていただいている

 ようですね」

とおっしゃっていただいた。

私の方と言えば、

濱本さんのこれまでの経歴は

球団社長に就任された時の

メディアの報道で知っていたので、

どのように接したら良いものかと、

披露宴の開始早々から

お隣を意識して緊張していた。

そんな私に初対面とは思えぬほど

気を使ってくださり、

色々と話しかけてくれた。

それから半年が経過、

忘れもしない2006年6月14日、

見知らぬ電話番号から私の携帯電話に

着信があった。

「私、千葉ロッテマリーンズの

    濱本と申しますが、

 覚えていらっしゃいますで

 しょうか?

 昨年の12月、今江君の結婚式で

 …。」

私からすると、

「濱本」とおっしゃった段階で

もちろん分かっていたので、

濱本さんの言葉をさえぎり、

「その節は大変失礼いたしました 」

聞けば、

日頃私がロッテ球団のコーチや

選手を可愛がっている事から

是非、お礼をしたいので

私たち夫婦を野球観戦に

招待したいとおっしゃる。

余談だが、

私の携帯電話番号を

なぜご存知だったのか?

いったい誰から

お聞きになったのだろうか?

未だ聞いた事はない…。

そしてこの年を皮切りに

毎年ご夫妻で我々夫婦を

千葉マリンスタジアムVIPル-ムに

(現ZOZOマリン)

招待下さった。

 

2006年8月4日。

初めてのご招待で、

当時の監督ボビー・バレンタインと、

監督室で記念撮影。

 

VIPル-ムのお料理は

フルコース、

帰りにはお土産までいただき、

自宅までのハイヤーも。

「上げ膳据え膳」とは

まさにこんな事をいうのだろう。

家内は年に一度のこの日を

とても楽しみにしていた。

特に気さくな奥様、

みよ子夫人との会話を。

( みよ子夫人は

    上皇后美智子様とは

 従妹関係 )

以来、野球観戦のみならず

ある時、

私と西村徳文ヘッドコーチ

(後の監督)との仲を知ると、

濱本ご夫妻と共に我々夫婦4人、

6人での会食の機会を

度々作ってくださった。

 

2009年西村徳文監督 就任祝い

 

2010年 西村徳文監督率いる

千葉ロッテマリーンズが 

日本一に輝いたお祝い。

於:東京俱楽部

 

そしてその後、

いつの日からか

濱本さんとふたりきりの

『ふたり酒』が始まった。

その恒例の会場は、

濱本さんが会員の

【(社)東京倶楽部】

 

 

東京倶楽部は明治の初めに、

不平等条約の改正を目指した

欧化政策の一環として、

1884年(明治17年)、

明治天皇のお考えに沿って、

時の外務卿・井上馨の発案により

英国に範をとった

ジェントルマンズ・クラブとして

設立。

国際親善の増進と会員相互の親睦、

知識の交換を図ることを目的とし,

この目的は自由闊達な精神と共に

今日まで引き継がれている。
東京倶楽部の創立時メンバーには、

政・官・財各界の有力者や

外国の大公使、

駐日代表などが名を連ねていた。

昭和においても戦前戦後を通じ、

多くの指導的立場の人々が

当倶楽部のメンバーに含まれており、

そうした状況は今日まで

変わりなく続いている。
現在は港区六本木一丁目に

移転。
当倶楽部の歴代名誉総裁には、

親王殿下を戴いており、

現在は常陸宮正仁親王殿下が

就任されている。

会員数は日本人と外国人

限られた方限定の600名。

(東京倶楽部公式ホームページより)

www.tokyoclub.or.jp 

 

噂には聞いていたこの倶楽部、

生涯入る事はないだろうと

思っていたが…。

ドレスコードはもちろん、

手荷物はポーチといえども

全て受付で預けるという

徹底した倶楽部で、

会食中のマナー等々

初めてご招待いただいた時には

さすがに緊張した。

 

濱本さんとの『ふたり酒』は、

時に昼間。

とにかく多忙な方なので、

昼夜問わず、

空いた時間があると

お誘いをしてくれた。

私にとって、

その日がとても待ち遠しく

至福の時間だった。

『ふたり酒』ならではの

ふたりきりだから出来る会話、

実に充実したひと時だった。

濱本さんは私の仕事に関する事を

お尋ねになったり、

家内亡き後は、

私の日常生活まで

心配して下さったり、

私の体調に関しても、

5年ほど前に

原因不明の目まいや

両腕痛が続いた時には、

何度もお見舞いの

連絡をいただき、

名医まで紹介して下さった。

(濱本さんは順天堂大学病院の

 理事も歴任)

「政界財界」に関する秘話も含め

毎回、多岐にわたる

「目から鱗」の話のオンパレード。

さすがに元国税庁長官、

ある意味、日本国を

動かしてきた方。

毎回、勉強になる

『ふたり酒』だった。

中でも出逢いのきっかけとなった

プロ野球に関して、

かつて1リーグにしようと

オーナー側が水面下で動いた

2004年の

「プロ野球再編問題」。

その時の中心人物は

ジャイアンツのナベツネこと

渡辺恒雄氏

西武の堤義明氏、

そしてこの濱本英輔さんの3人。

(オリックスの宮内義彦氏

 近鉄との合併問題の時には

 絡んだとのこと)

その時の密談の内容を

もう既に時効だからと、

リアルに教えてくださる。

元国税庁長官、

いわば「お上(かみ)」。

天下のナベツネさんや

堤さんといえども「財界人」。

どうやら日本の社会は

「お上」の方が強いようだ(笑)

これだけの社会的地位が

お有りになり、

私とは何ら利害関係もない

濱本英輔さん。

穏やかで

(仕事の顔は違うと思うが)、

人の話をしっかりとお聞きになってから

ご自分の考えを述べられる。

とにかく聞き上手な方。

そしてユ-モアにも富み、

周りの誰に対しても平等に

気を使われる。

奥様も奥様で、

ご主人のフォロ-をされながら

周りに気を使われる…。

私ごときがこのような表現で

申し上げる事は大変失礼だが、

人間いくつになっても

どんな立場になっても、

「謙虚さ」を失ってはいけない。

これだけの方が

これだけ謙虚なのだから…。

まだ足りぬ私は、

「鏡」にさせていただいている。

 

濱本さんご夫妻といると、

いつも「安らぎ」と

「充実感」を感じると

亡き家内がよく言っていた。

その家内の事で、

忘れられない想い出がある。

それは家内が亡くなった後、

当時の担当医の一連の診察や

手術後の対応に、

どうしても納得がいかなかった私は、

病院と担当医を相手に

「医療裁判」を決心した。

そこでまず濱本さんに相談。

濱本さんは医療裁判に長けた

敏腕弁護士を紹介してくれた。

その後の経緯は割愛するが、

残念ながら途中で「証拠不十分」、

勝ち目は…、

家内が生き返るわけでなしと、

私の判断で訴訟から手を引いた。

だが濱本さんは、

「 萩原さん、

    本当にそれで良いのですか?」

最後の最後まで

背中を押してくれた。

又、家内のお通夜の席では、

早々にご夫妻で

弔問へ来ていただきお焼香、

通常であれば誰もがその後、

「お清めの席」へと移動する。

(東京の慣習)

ところが濱本さんご夫妻は、

お焼香後、

弔問客が列をなす

両側に並べられた

既に誰も腰掛けていない椅子の

最前列に腰掛け、

住職がお経をあげている約1時間、

最後までその席で

合掌して下さっていた。

この慣習にとらわれない

心のこもった行動に

私は驚きと共に至極感動をした。

数々の要職に就き

ご多忙の濱本さんだが、

1年後の1周忌の法要にまで

出席くださった。

 

このように私にとって、

「人生の師」と仰ぐ濱本英輔さん。

現在は残念ながらかつてのような

『ふたり酒』は難しい。

しかしこれまでの濱本さんとの

『ふたり酒』は、

多種方面にわたり

学ばせていただいてきた。

母が残してくれた言葉、

「いくつになっても

 目上の人には

 可愛がられないといけない」

私に取って、

そんな濱本英輔さんには、

まだまだ長生きして、

色々学ばせていただきたいと

心の底から願っている。

 

父が残してくれた言葉、

「まだ足りぬ

 学べ学べとあの世まで」

 

【 こぼれ話 】

 


TOP写真にある

今から19年前の

2007年4月13日、

我々夫婦の結婚記念日。

濱本英輔ご夫妻から

ご招待いただいたこの日、

こんな嬉しい出来事があった。

 

球場に着き、

VIPル-ムに案内されると

濱本さんの秘書の女性が

「西村コ-チと和田選手から

 花束が届いております」

『祝・結婚27周年』の立派な

花束(TOP写真)を渡された。

(ロッテのこの日の対戦相手は

 西武ライオンズで

 当時、和田一浩選手が在籍)

更に私達の結婚記念日と知った

(おそらく濱本さんが秘書を通じて

 皆さんに伝えた?)
瀬戸山隆三球団社長始め、

狭間球団代表補佐らが次々と

お祝いに入室。

節目の記念日でもないのに、

家内も私もさすがに

テレを隠せなくなってしまった

(笑)

そしてゲームは

12対1の大差でロッテの勝ち。
試合後に私達を待っていたのは、

このゲームの「ウイニングボ-ル」
(写真)

「記念にお持ちください」と、

西村徳文ヘッドコ-チ(当時)

がプレゼントしてくれた。
最終回守備についた

マリ-ンズの全選手に

その旨を話して

最後のボ-ルを

キィ-プしてくれたらしい。
更に帰り際、

関係者玄関でバッタリ会った

敵チームのべんちゃんこと

和田一浩選手が

「 西村さんと試合前に打合せをして

 うち(西武ライオンズ)が

 勝った場合には僕がボ-ルを

 キィ-プすることに、

 なっていたんですよ。

 試合はロッテが勝って僕が打つ

(この日和田選手は2安打)。
 いつも萩原さんが言う

 最高のシチュエ-ション

 でしたね(笑)」

 

横でそのやり取りを聞いて、

感激のあまり、

涙していた家内の姿が

今も尚、

私の脳裏に深く刻まれている。

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは極力

ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

【 メモリアル 編 】

既にお亡くなりになったり

体調不良などの諸事情から

こんにちでは、

残念ながら『ふたり酒』が

できない方もいる。

ゆえにその方々は、

これまでこのブログに

登場することはなかった。

しかし私にとっては、

かつての大切な『ふたり酒』の

お相手。

私の人生を豊かにしてくれた

一人。

そこで、そんな方々も

ここに書き残しておきたい。

 

前章の故高山 アナが

紹介してくれた

「信じられない方」とは、

私の長年の憧れ、

あの伝説の名ギタリスト

元ダウンタウンブギウギバンドの

和田 静男 氏だった。

 

7月9日(木)記。

メモリアル(2)

和田 静男 氏

 

 

現在、和田 静男 氏は,

アルツハイマー病と戦っている。

アルコールをこよなく愛し、

これまで散々私としてきた

『ふたり酒』

だが、今は残念ながら

私からのお誘いは…。

 

この和田氏を綴る前に

私がこんにち接している、

あるいはお付き合いを

させていただいている方々の

90%以上、

つまりほとんどの方は、

私がかつてプロダクションに所属して

ギタリストとして

音楽活動をしていたことなど

全くご存知ないと思う(笑)

 

( 私のラストステージ )

1976年7月20日 於:目黒区民センター

『 カスタム  サマーステップコンサート 』

右端のギタリストが私

 

リードギターとヴォーカル担当

 

今からちょうど50年前。

このステージを最後に、

私が家業を継がなくてはならない為、

このバンドは惜しまれながら

解散した。

( 他のメンバー3人は

  それぞれ別のバンドで活躍、

  出世頭はベーシストの

      長島 進(写真左端)。

   彼はあのJーWALK

   創設期の メンバーで

  数々のヒット曲を出した )

私は全てを辞めるにあたり、

未練を残したくなかったので、

それは大切にしていたエレキギターを

泣きの涙で手放した。

幸い、杉田二郎さんが

引き取ってくれて、

その後、数々の日の当たる舞台で

音を出してくれた事が

せめてもの慰めだった。

当時、バンドの楽曲は、

ほとんど私が作曲。

このバンド活動は、

我が青春の全てと言っても

けして過言ではない。

心半ばで辞めた無念もあり、

これまで当時のことを

人に話したり、

カラオケで歌を歌う事さえ…。

躊躇してきた。

その時代に、

同じギタリストとして

私が最も尊敬し、憧れていたのが

和田 静男氏だった。

 

ある日、

高山アナとの『ふたり酒』で

ふだんは人に言わない

私の過去の芸能活動に関する

話をした事があった。

今思えば、それは高山アナが

その世界にいたからだと思う。

私がかつてギタリストだった事を

知った高山アナは驚きながら

「 当時、同じギタリストとして

 一番影響を受けた人は誰ですか?」

「海外では、

 エリック・クラプトン

 日本では

 ダウンタウンブギウギバンドにいた

 和田静男です。

 和田静男は他のギタリストのように

 エフェクターなどの機材は

 一切使わず、

 ギター直結アンプ主義の

 あの音色、その潔さが

 最高でした。

 私も現役時代それに憧れ、

 それらの機材は一切

 使いませんでした。」

 

【 注 意 】……

・ J-WALK(後のJAYWALK)

1981年デビューした

当時6人編成のロックバンド。

ヒット曲に、

「JUST BECAUSE」

「何も言えなくて…夏」

「君にいて欲しい」等

 

・ 杉田二郎

フォーク歌手で、

シンガー・ソングライター。

「はしだのりひことシューベルツ」

でリードギターとヴォーカルを担当、

その後結成した「ジローズ」で

「戦争を知らない子供たち」が

 大ヒット。

 ソロ転身後のヒット曲には、

「男どうし」「ANAK(息子)」

などがある。

 

エリック クラプトン

イギリス出身の

シンガーソングライター、

ギタリストで、

史上最も重要で影響力のある

ギタリストの1人とされる。

ヤードバーズ、クリーム、

ブラインド・フェイスを経て

ソロキャリアに乗り出した。

 

・ 「ダウンタウンブギウギバンド」

  (以下、DTBWB)

 日本のロックバンドで、

 1973年に宇崎竜童氏を中心に

 結成、同年12月メジャーデビュー。

 日本語のロックブームを

決定付けたバンドで、

そのトレードマークは

ツナギのユニフォームだった。

ヒット曲には「スモーキング・ブギ」

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」

「知らず知らずのうちに」

「身も心も」、「サクセス」他多数。

特に「港のヨーコ…」で出演した

第26回 NHK紅白歌合戦、

それは紅白歌合戦の歴史を

塗り替える初のロックバンドの

出演だった。

和田静男氏はこのDTBWBの

リードギターとヴォーカルを担当。

 

・  「エフェクター」

ギターとアンプの間を繋ぐ機材で

ギターから出力される音に

加工を加え、表現豊かな

サウンドを作り出す効果がある。

こんにちでは、ほとんどの

ギタリストが使用している。

…………

 

私が好きだったギタリストの

名前を聞いた高山アナは、

それはそれは驚き、

「ええっ!和田静男ですか?

 それは驚いた!

 奴は私の弟分ですよ。

 現在は六本木の

 元グループサウンズの

(以下GS)

 ゴールデンカップスにいた

 ディーブ平尾の店で

 ギター弾いてますよ。

 紹介します。

 今から行きましょう!」

 

それは全く信じられない

夢のような話だった。

ちなみに私の娘は「大谷翔平」と

「嵐」の大ファンだが(笑)

まるでその娘が、

今から彼らに会わせると

言われたようなもの。

私からすると

天と地がひっくり返るほどの

衝撃だった。

その時の『ふたり酒』の場から

六本木は車で約45分、

かつて私が所属していた

プロダクションも六本木で、

何気に縁も感じた。

その六本木の交差点のほど近く

その店の名はまさに

『ゴールデンカップ』

いわゆるライブハウス。

そもそもGSの影響で

11歳でエレキギターを始めた私。

GSを語らせたら

他の追随を許さない(笑)

週末ともあって店内は、

オーナーのゴールデンカップスの

元ヴォーカル・ディーブ平尾氏、

同じカップスの元ドラマー、

マモルマヌ―氏、

ジャガーズの元ギタリスト

沖津久幸氏らもいて、

店内はごった返していた。

お目当ての和田静男氏は

ステージ真っ最中。

 

高山アナのところへ、

彼らみんなが敬意を払って

挨拶に来る。

私がそれを理解できたのは、

高山アナは、

かつて日本テレビ系で

毎週木曜日に放映されていた

「グループサウンズヒット10」

というファンが選んだ曲を

GSがスタジオで演奏する番組の

司会者。

(私もこの番組は見ていたが、

 当時私は小学6年生、

 しかもこの番組、

 3ケ月で放映が打ち切りに

 なったとの事もあり

 番組の司会者が

 高山アナだったとは

 失礼ながら覚えて

 いなかった)

そんな番組の影響もあって、

GSの面々誰もが

高山アナに一目置いていた。

 

この日紹介された私の憧れ

和田静男氏とは以来、

とても親しくさせていただいた。

この頃、前述のように

私にとって艱難辛苦、

激動の時代。

高山アナと、あるいは一人でも、

週末の六本木のこの店で

和田氏のギターを聞くことが

私の最高の息抜きだった。

以来、和田氏は我が家に

家族全員で食事にみえたり、

私の開催イベントに

何度も出演してもらったりと、

昵懇のお付き合いになった。

和田氏との『ふたり酒』は、

東京では私の会社付近「湯島」で、

彼の地元横浜では「関内」界隈で。

そしていつも2軒目は

和田氏がギターを弾ける店へ

行くことが多かった。

それは私のリクエストからで、

和田氏はいつも快く、

ノーギャラで(笑)

あのしびれるような音色のギターを

私に聞かせてくれた。

長年、憧れていたギタリストと

まさか、

こんなお付き合いになるとは

夢にも思わなかった。

 

76歳になった現在の和田氏は、

アルツハイマー病が進み、

先日の電話では

35年のお付き合いの私の事さえ

おぼつかない。

ところが、

奥様が現場に付き添いで行き

今でもステージに立つというから

このプロ根性は恐るべし。

「歌とギター」

それは彼の人生そのもので

彼のヒット曲ではないが、

「身も心も♪」

身体の奥隅々まで、

それがしみ込み

自然に歌えて、

自然に弾けるのだろう。

ただ私はそんな彼の

現在のステージを

見に行く勇気はない…。

 

彼も又、

私の人生を豊かにしてくれた

『ふたり酒』の相手だった。

 

この私の憧れの人を

紹介してくれた今は亡き

高山 栄アナウンサーには

心底感謝をしている。

 

【 こぼれ話 】

 

 

2013年7月7日。

和田氏と私の縁結び

故高山 栄アナの地元

「赤羽」のライブハウスで、

私は、

「高山 栄 追悼・

 和田 静男スペシャルライブ」

主催した。

和田氏は、このライブに

「SIZ&BAYSIDE BLUESBAND」

正規のフルメンバー5人で

出演してくれた。

この時のライブのタイトル

「華と魂」(はなとたましい)

これは元DTBWBのリーダー

宇崎竜童氏が和田氏のギターを

「和田のギターにはがある。

 がこめられている」

このライブにこんな推薦文を

寄せてくれた事から

私はそれをタイトルにした。

 

(余談の中の余談ですが…。)

 

この日、

恥ずかしながら37年ぶりで

ステージに立たせてもらいました

ウインク

 

「この人と出逢えて

   本当に良かった!」
そんな方とは極力

ふたりきりでお会いして、
会場にもこだわり、

美味しいお酒と肴を共にして、
熱く語り合い、

充実した時間を楽しんでいます。
そんな方とのエピソードを
『ふたり酒』と題して綴っています。

お付き合いください。

 

【 メモリアル 編 】

既にお亡くなりになったり

体調不良などの諸事情から

こんにちでは、

残念ながら『ふたり酒』が

できない方もいる。

ゆえにその方々は、

これまでこのブログに

登場することはなかった。

しかし私にとっては、

かつての大切な『ふたり酒』の

お相手。

私の人生を豊かにしてくれた

一人。

そこで、そんな方々も

ここに書き残しておきたい。

 

私がそれを強く意識したのは、

前章の緒方喜治アナを

綴っている時に

私が生涯忘れることのできない

高山 栄 アナウンサーが

強く脳裏に浮かんだからだ。

 

そこでそのような方々を

時に【メモリアル編】と題して

ここに綴っておきたい。

 

7月2日(木)記。

メモリアル(1)

高山 栄 アナ

 

  『萩原杯チャリテイゴルフ』

  2000年4月23日 SUN.

  於:ウイングフィールドゴルフ倶楽部

  表彰式 兼 懇親会で

  司会 : 高山 栄 アナ

 

その出会いは今から37年前、

1989年11月14日。
そのシーズン限りで現役を引退した

プロ野球・読売ジャイアンツの

中畑 清さんが新宿の歌舞伎町に

焼肉屋をオープンした。

私はそのグランドオープン前の

レセプションに招待を受けた。

そこで同じテーブルにいたのが、

高山 栄アナウンサーで、

話をすれば偶然にも

住まいが駅一つだけ離れた近所、

そんな事から話が弾み、

互いの電話番号を交換、

後に年齢の垣根(19歳差)を超えた

昵懇の間柄になった。

 

そのお付き合いが始まるきっかけ、

それはブログ

(45)「山本 勉記録員」

その時にも見られた

「その行動は普通ない」

そんな私のアクションが

きっかけだった。

初対面の時に、

電話番号を交換したといっても

私が最初に高山アナに電話をしたのは

それから約1年後。

しかも当時はまだ携帯電話など

普及もしていない時代、

つまり固定電話。

家の誰が受話器を取るかわからない

状態で。

 

1990年9月1日、

私はトキワの3代目社長に就任、

そして先代の父が会長に就任した。

そのお披露目を兼ねた

会社創業60周年記念パーティを

開催する事になり、

その打ち合わせを父と始めた。

父は自分の友人である

フジテレビの露木 茂アナに

(フジテレビエグゼクティブアナウンサー)

司会をお願いしようという。

露木アナにはこの10年前、

私の結婚式の司会を

していただいていた。

当時、同族会社にありがちな

お家騒動から専務である叔父が独立、

急遽34歳の若さで

三代目を継いだ私。

先代である父との関係は

けして良好とは言えなかった。

そんな事から

父の言いなりになるのが

とても嫌で、

生意気盛りの私は

ことごとく反発。

当てもないくせに、

「今回の司会者は僕の方で

 決めさせてほしい」

そんな宣言をしたものの…

困った私は、

1年前に出逢った

高山アナを頼って連絡。

電話先の高山アナといえば、

私を覚えていてくれたか?

その程度の反応だった。

その時のやり取りは割愛するが、

その後地元の喫茶店でお逢いして

事のあらましを話し、

1991年1月12日

ホテルニューオータニで

株式会社トキワ 創業60周年

 会長・社長就任パーティ」

を開催、

その時の司会をお願いした事が

高山アナとのお付き合いの始まりで

その後、昵懇の関係になっていく。

 

ここでその高山栄アナの

プロフィールを紹介させていただく。

 

1937年1月27日、

東京で出生した高山 栄アナは

幼少時代から児童劇団「銀の波」に

入団、

1948年映画の子役

(上原謙の子供時代役)として

デビュ-。

その後ラジオ東京放送劇団

(後のTBS)にテレビ俳優の

1期生として入社、

テレビ創成期の様々なドラマに出演。

後にラジオの活動が中心となる。

硬質で澄んだ優しい語り口調が特徴で

1963年にTBS系列で放映された

アニメ「エイトマン」の主人公

東 八郎 役、「サンセット77」では

クーキー 役で、一躍有名に。

その TBSを退社後、

創設されたばかりの芸能事務所

「オフィス・トゥー・ワン」の

所属タレントの草分けとして

声優の他、テレビのナレーション、

ラジオパーソナリティとして活躍。

1973年~1975年には

ニッポン放送でモ-ニングワイド

『 高山 栄ショ- 』の

キャスタ-を勤めた。
当時はまだ個人名の冠が付いた

番組名は大変珍しく、話題を呼んだ。
そしてスポ-ツキャスタ-としての

デビュ-は、TBSラジオの

「プロ野球エキサイトナイタ-」。

そのスタジオキャスタ-として

13年の長きに渡り担当、

 又、東京12チャンネルの

人気グルメ番組

「地球まるかじり」のナレ-タ-では

全国各地のグルメ料理を紹介した。
40年以上のアナウンサ-歴で培った

その発声法は業界でも大変定評があり、

『 北区つかこうへい劇団 』の

発声主任講師としても活躍、
つかこうへい先生に

「 日本一の発声講師 」とまで

言わせた。

 

前述の会社の創業60周年を兼ねた

会長・社長就任パーティの

司会を皮切りに、

その後は私が主催する

チャリテイゴルフ大会や

各種パーティの司会は常に高山アナ。

出逢いから10年後の

会社創業70周年記念のパーティも

務めてもらった。

司会者として名実共に

トップクラスの高山アナではあったが、

その間には自身も

「アナウンサ―人生で初めて」

1996年6月18日の

上野寛永寺 輪王殿に於ける

700名もの弔問客に

来ていただいた父の本葬までも

司会をお願した。

しかもこの葬儀後には…、

「今回私は仕事でお引き受けした

 わけではありません。

 せめて日頃お世話になっている

 お返しが少しでもできれば…。

 そんな気持ちで

 務めさせていただきました。」

押し問答の末、

とうとうギャラを

受け取ってもらえなかった。

 

なぜ私が前章の緒方喜治アナを

綴っている時に高山アナが

「強く脳裏に浮かんだ」のか、

それは高山アナが亡くなったのは

2002年1月25日、

その同じ年の11月18日に

まるで入れ替わるかのように

出逢ったのが緒方喜治アナで

前述のように私主催の各種イベントは

このおふたりの司会によって、

こんにちまで36年間、

支えられて来た。

 

高山アナとは、

家が近い事もあり、

互いの行きつけの店で

『ふたり酒』を頻繁にした。

故人には大変失礼だが、

お付き合い始めは年の差もあり、

過去のご自分のキャリアを

盛んに私に自慢する事が、

会話の随所にみられたが、

その類の話題には全く乗らない私。

後に高山アナには

私の多くの友人たちも紹介、

その友人たちの「人となり」を見て、

私を理解していただけたのか?

いつの頃からか

私の前でその類の話題は

一切出すことはなかった。

私自身はそこからが

高山アナと私の

「真のお付き合い」

の始まりだったと思っている。

晩年は奥様との夫婦関係の

相談事まで19歳年下の私に

するような関係に変っていた。

 

私と言えば、この1990年代は

「艱難辛苦」、激動の10年間。

(34歳~44歳)

妊娠中の家内に子宮頸癌が発見され、

医者からは出産を断念するように

言われた中で、

家内の強い意志から

現在の末息子の出産と

子宮の全摘出手術を

帝王切開で同時に。

その翌月には前述のように

叔父の専務が会社から独立、

急遽私が社長に。

独立した叔父には、

父からの指示で、

高額の退職金の支払いや

会社全体の売上の

3分の1を譲渡。

世の中と言えば、

「平成不況」真っ只中。

祖母に始まり急死の母、そして父と

7年の間に3度の葬式を

喪主として挙行。

その間、余命宣告を受けた

父の強い要望から家を新築。

そしてその父亡きあとには

叔父や叔母らと

会社の株や利権問題で闘争。

そんな激動の10年間で

その最中の高山アナとの

『ふたり酒』は

私の中で最も気持ちが

安らぐ瞬間だった。

また立場上、

人前でしゃべる事の多い私に

沢山の「話し言葉のノウハウ」を

教えてくれたのも高山アナだった。

 

そんなある日、

「商売道具」の喉の調子が

良くないと言う高山アナに

私が何度も病院の診察を勧めると…、

緊急入院の末、

それは手遅れの「食道癌」だった。

 

何度も足を運んだ病院見舞い。

「早く退院して、

 社長とまた吞みたいなぁ。

 初めて言いますが、

 13年間続いたTBSラジオの

 『プロ野球エキサイトナイタ―』、

 あれを予告なしに

 降板させられたときは

 本当にショックで…。

 ギャラも良かった仕事なので

 正直、生活にも困りました。

 あの頃、社長と呑んでいる時間が

 どれだけ精神的に救われたか」

「いや、高山さんそれは全く逆です。

 私は高山さんとお知り合いになって

 こんにちまでのこの10年、

 実は波乱万丈の人生で、

 次から次へと、

 これでもか!これでもか!

 というほどの難問やアクシデントが

 降りかかって来ました。

 高山さんとの酒席が

 どれだけ私を救ってくれた事か…」

「そうなんですか?

 社長はそんな素振りを

 微塵も見せたことはなかった。

 強いなぁ。」

「いえ、私はけして強い人間では

 ありません。

 子供の頃から躾に厳しかった

 母に、

 『 男は愚痴と言い訳は

    絶対に言うな! 』

 その教育を頑なに

 守ってきただけです(笑)」

「 あのお母様なら言いそうな

 セリフですね 」

 

19歳年下の私を

常に「社長」と呼び、

最後まで敬語で接してくれた

11年間のお付き合い。

元来、高山アナは

立教大学バスケ部出身の

タテ社会派。

私がこんにち

年齢が上だとか下だとか

そんな事は全く関係のない

お付き合いを誰とでも

させていただいているのは

この高山 栄さんの影響、

教えだと思う。

いざ実社会に出て

同じ職場や組織でない限り、

男同士の付き合いは、

五分でありたい。

 

こうして互いが落ち込んだ時の

心の内を初めて吐露。

もしもう一度、

『ふたり酒』が実現していれば

また違ったお付き合いに

なっていたかもしれない。

しかしそんな高山アナが

あれほど待ち望んでくれた

『ふたり酒』は、

実現することなく

この会話を最後に3日後、

2002年1月25日午後7時20分、

65歳の誕生日を2日後にひかえ

返らぬ人となった。

 

ふたりの関係を良く知る

高山アナの奥様とお嬢様は

私をお通夜、告別式で

身内の席に座らせ、

荼毘にふした後のお清めの席では

「献杯」の音頭を。

そのお清めの席にいた

高山アナが所属していた事務所

「オフィス・トゥー・ワン」の

役員や阿久悠さん、大山のぶ代さん

(ドラえもんの声)ら

高山アナと同じ創設期のメンバー、

そして高山アナ自慢の長年の親友、

毒蝮三太夫さんや立川談志師匠、

更にTBSの後輩アナウンサーで

スポーツ実況の第一人者として知られる

松下賢次さんらが、

「この若い男はいったい?」

そんな顔をされた24年前が

走馬灯のように蘇ってくる。

 

それほど私に取って

忘れられない、

いやけして忘れてはならない

『ふたり酒』のパートナー

高山 栄アナウンサーだった。

(合 掌)

 

そんな高山アナが、

私にとって信じられない人を

紹介してくれた。

次章で綴ってみたい。