第七章 2020年~ 

        ( 新 時 代 )

 

(100)そして「これから」。

   

入社以来、

あっという間に経過した

46年と半年。

トキワで歩んだ人生に、

感謝をしながら

このままもう少し

頑張ろうと思っている。

 

実は私には、

長年描いていた

第二の人生ビジョンがあった。

それは現在の社長業を

リタイヤした後に、

妻と二人で

「会員制の小料理屋」を

開店するというビジョンで、

その店の名は、

『萩原亭・紫陽花(あじさい)

 

料理上手な母、

食べ歩き好きな父、

その両親のお陰で、

自他ともに認める(笑)

「グルメ萩原」。

そして趣味は「料理」。

 

若い時から地方出張が多く、

全国色々な土地の名物を

食す機会に恵まれた。

又、その土地の人や店とは、

今も入魂のお付合いは続く。

そんな方々から頂戴する

四季折々の食品や食材の

産地直送品を、

自分たちの店で

活用させることが

我々夫婦が描いた

「店の売り」だった。

 

妻は43年前、

嫁に来た当初は、

おにぎりも結べなかった。

その妻が母から料理を教わり、

いや、

来客の絶えない萩原家にあって、

母屋でその手伝いから始まり

実戦で習得、

そこには本人の努力もあって、

後に来客の誰からも

「料理上手な奥さん」と、

言われるほどになった。

母から学んだ料理の中に、

「正月料理」がある。

毎年、おせち料理の三段重は、

「蒲鉾」以外は全て手作りという

上達ぶりだった。

その要因には、

素直な性格と資質もあったと、

私は思っている。

 

プロ野球の

千葉ロッテマリーンズや

オリックスバファローズで

監督を務めた西村徳文氏、

元東京ヤクルトスワローズの

宮本慎也氏、

現在中日ドラゴンズで

コーチをしている和田一浩氏、

同じく横浜DeNAベイスターズの

相川亮二コーチ、

福岡ソフトバンクホークスの

清水将海コーチなど

みんな現役時代から

我が家で食事をした常連で、

家内の料理を絶賛していた。

スポーツ選手の彼らにとって、

食生活は重要。

自分たちの奥さんに、

是非教えてほしいと、

異口同音に言っていたほど。

大相撲・元水戸泉の錦戸親方や

元大関朝潮の前高砂親方、

そして元富士櫻の前中村親方らは、

妻からのレシピで覚えた料理を

自分の部屋で、

「ちゃんこ」のメニューにしたほど。

現役時代の小錦も常連で、

妻の料理ファンの一人だった。

かつて私が極真空手の

役員をしていた時代には、

大会の前夜祭は、

我が家で妻の手料理の

食事会が恒例だった。

その妻が、

『萩原亭・紫陽花』の料理長。

既に食品衛生管理者の資格も取得、

店名を染め抜いた「暖簾(のれん)」や

「座布団」も仕上り、

準備万端でスタンバイ。

 

一方、私の役割は、

「メニュー」書きと「器」の取り揃え、

そして料理の補佐。

その日のお品書きは、

全て「江戸文字」で筆耕しようと、

(江戸文字とは、寄席文字・歌舞伎文字

 ・相撲文字などの総称)

江戸文字の大家に3年間習った。

店で出す「器」や「ぐい飲み」は、

やはり私の手作りで、

こちらも個人指導の陶芸教室に、

3年間通った。

 

「会員制」というのは、

偉そうに言っているわけではなく、

これまで散々理不尽な顧客に、

頭を下げて来た我がトキワ人生。

(苦笑)

今後は生計のために、

営むわけでもなく、

又、先代のしていた事を

引継ぐような使命もない。

私が「創業者」。

だからこの余生くらい、

不愉快な客に気を使うことなく、

こちらから客を選ばせてもらい

(笑)、

自分の思い通りの店にしたい。

そんな想いからの「会員制」で、

会員とその同伴者、

一日5名限定の

カウンターだけの小さなお店で、

料理はメニュー無しの

全て「お任せ」。

 

それらのお膳立てが整い、

将来の夢を語っていた矢先に、

妻の急死。

私は長年持ち続けたこの夢と

希望を失い、

虚脱感と絶望感に苛まれた…。

一時は何もかもが手に付かず、

「これから何のために、

   生きていくのか?」

そんな事まで考えた。

 

だがそれから、

約8年が経過した今は違う。

3人の子供たちと、

そのパートナ-や孫、

そして社員。

その存在を考えると

身勝手なことなど

言ってはいられない。

 

  江戸文字を染め抜いた座布団

特注の暖簾と19枚の座布団は全て処分、

       記念に1枚だけ残した。

 

 私の最後の陶芸作品「線香立て」

既に辞めていた陶芸教室の先生に

我がままを言って、

妻専用の線香立てを焼かせてもらった。

この作品を最後に、

陶芸はやめることにした。

 

5年ほど前から始まった

原因不明の「両腕痛」、

又、2年前から始まった

やはり原因不明の「目眩」。

そして現在は取り敢えず治まったが、

当時、何度となく起きた「不明熱」。

これらの症状から

現在は長年の趣味ゴルフ、

又、車の運転は控えている。

立て続けに起こったこの症状は全て、

いくら検査をしても「原因不明」、

結果は「異常ナシ」。

この不思議な体調の変化に、

改めて健康のありがたさを

痛感している。

まずは「健康第一」

若さを保つために、

朝晩の筋力運動とストレッチ、

早朝の軽いジョギング、

カロリー計算をした食事、

終末だけのアルコール。

これがルーティン。

いつの日か体調が戻り、

これまで通りに、

していた事が、

出来るようになる事を、

切に願い、

又、信じてやまない。

 

そして将来的には、

誰もが私を見て、

「信じられない74歳」

と思ってもらえる事が、

現在の私の目標(笑)

なぜ74歳?

それはその年が悲願の、

会社「創業100周年」。

そこまでは頑張らねば!

 

長年の夢が破れた現在の私は、

まずは引き続き会社へ。

早朝6時に出勤、

夕方17時には退社させてもらい、

体力温存。

次世代に任せた仕事とは言え、

キャリアから来るアドバイスは、

黙ってはいられない(笑)

一方で「生涯営業マン」。

引き続き、

何社かの訪問営業は、

続けたいと思っている。

これが私の「これから」。

 

この七章、100回に亘り、

書き綴った我が46年と半年の

「トキワ人生を振り返る」

いつの日からか

このブログの配信日、

月曜日が際立って訪問者が多く、

「 あっ、楽しみに

  してくれている人が

    いるんだ!」と

尚一層、気合を入れて

綴るようになった。

 

そしてこのブログ。

私の個人的な事は除いて、

会社の歴史に関する事だけを、

ピックアップ、

更に今後の7年間を付け加えて、

2030年の創業記念日

4月10日に、

「トキワ100年史」として、

次世代のスタッフの手で、

未来永劫に残る社史を、

是非、発行してもらいたいと

切に願っている。

 

実はこの9月3日(日)。

息子と一緒に、曾祖父が眠る

(1941年没・行年62歳)

茨城県かすみがうら市へ

お墓参りに行ってきた。

創業者である私の祖父は、

農家の長男に生まれたが、

何としても、

「東京で一旗揚げたい!」

という強い志から

弟たちに家業の農家を任せ上京。

後に成功し、

こん日この話は、

確かに美談にはなっている。

しかし、考えてみると、

本人に「郷土愛」があった事は、

間違いはないにしても、

取り方によっては、

「故郷を捨てて…」とも

取られかねない。

そんな事から、

トキワの後継者として、

ルーツの茨城県に眠る祖父の父、

私の曾祖父のお墓参りを

してみようと、

現在唯一連絡の取れる

茨城県かすみがうら市在住の

90歳になる父の従兄に連絡、

そのお墓に案内していただき、

写経を供え、

息子共々手を合わせて来た。

 

初めて訪れた

「茨城県かすみがうら市土田」にある

  私の曽祖父が眠るお墓

 

実は私は半年前、

偶然にも夫婦同い年で亡くなった

両親の行年を超えた。

これは長年、

私がとても意識していた

「恐ろしい年齢」だった。

そしてあと半年後、

今度は祖父の行年も超える。

つまり初代、二代目の行年を

超える事になる。

既に超えている曽祖父や

二代目を5年間継いだ叔父、

(父の兄)

そして私の妻も含め、

「短命の萩原家」にあって、

みんなの分も長生きして、

充実した余生を送るためにも

今ここに私は、

公私共に新たな目標を設定した。

今後は、それに向かい

日々精進である。

 

丸2年間、

このブログに綴った

これまでのトキワの出来事や

トキワに携わった人達について、

誰彼となく、

末長く語り継いでもらえれば、

こんな嬉しいことはない。

 

最後に、

このブログへ訪問いただいた読者に

心より感謝を申し上げたい。

 

(おわり)

 

 

 

 

   第七章 2020年~ 

        ( 新 時 代 )

 

     (99) 振り返れば…。

          

丸2年間にわたり、

トキワでの46年と半年を

振り返ってきた。

書いているうちに、

色々な事が思い出されて、

そうだ! あんな事もあった!

と書き足したこともしばしば。

ちょうど40年前から、

つけ始めたスケジュール帳を、

現在も全て保管しているので

記憶の定かでない日付などは、

そこから引用できた。

これだけの長い期間を

思い出す作業は

初めてだった。

毎日毎日頭の隅に、

昔の記憶が

ひっかかっている感じだ。

懐かしい人や

二度と会いたくない人(苦笑)

オールキャストで思い出す。

振り返れば「あっ」と言う間。

私は平素、

過去を振り返ったり

思い出に浸ったりする事を

あまり好むタイプでない。

そんな人間が、

これだけの長期間を

振り返っていると

そこには後悔ばかり…。

「 なぜあの時、

    気が付かなかったのか?

    言えなかったのか?

  聞かなかったのか?

    教えなかったのか?

  出来なかったのか?」

そんな事ばかりである。

当時の自分のレベルが

そうさせたと言ってしまえば、

それまでだが…。

 

特に社員に対して

思う事は多い。

社員が真面目に働く事が

当たり前。

いや違う。

真面目に働いてくれて

ありがとうである。

仮にそれが功績が今ひとつの

社員であろうとも。

黙々と真面目に働く

勤勉な社員たちに、

もっと感謝の気持ちを

持たなくてはいけなかった。

私はそのような社員にも、

多くを望み過ぎた。

社員は毎日、

目の前の自分の仕事を

こなすのに精一杯だったと思う。

世の中で、

当たり前と言われている事は

実は当たり前ではない。

ありがとうと言う

感謝の気持ちを持つことが、

人の血が通った温かい経営に

繋がって行くと思う。

 

「会社の長」。

そんな私の立場はさておき、

私という一(いち)個人に対して、

色々尽くしてくれた社員の事が

あらためて思い起こされる。

いつ頃からか?

毎年、私の誕生日には、

社員が合同でプレゼントを

くれる。

又、既に退社した社員からも

個人的に。

その全ての方々に

この場で改めて

「ありがとう。」

と言いたい。

 

中小零細企業。

そこでのトップという立場は、

多岐に亘る仕事を

しなくてはならない。

だが私の中で、

最もやりがいのあった仕事は、

やはり「営業」。

人との出逢いやふれあいを、

人一倍大切にする私、

又、結果が明確に出る営業は、

私の性格からも「天職」だった。

だが、今私の中に残る

これまでの営業での思い出は、

どういうわけか?

失敗したことや

後悔している事が多い。

功績を上げた思い出は、

あまり残っていない。

つまり私の中では、

それらの失敗や後悔が、

自分を育て、

人間形成のお手伝いを

してくれたという

感謝の気持ちの方が強い。

 

「 愚痴と言い訳は

  絶対に言わぬ事!」

幼少時から特に、

この躾をしてくれた母には、

感謝。

このブログでは、

明かす事のできなかった

もっと重大な出来事も

沢山ある。

しかしその都度、

母のこの教えが

大きな支えとなり、

現実を真摯に受け止め、

諸問題と正面から

取り組んで来られた。

幼少時の「躾」というのは、

本当に大切なことだと

実感している。

 

亡き妻曰く、

「 あなたは本当に強い人。

    人様がもし、

  色々な事実を知ったら

    日頃のあなたの

    イメージとのギャップに

    驚くでしょうね。」

 

いや、それは違う。

自分のおかれた環境から

強くならざる得なかった。

数々の諸問題に遭遇、

その体験から強くなった。

元はと言えば、弱い人間。

それは誰よりも

自分自身が知っている。

又、私自身の性格もあるが、

前述の母の教えから

「 人に弱みを見せない 」

という事も、

いつの日からか

自分のスタイルに、

なってしまった。

 

「 若いうちの苦労は

    買ってでもしろ! 」

自分自身で、

「苦労」という言葉は、

使いたくはないので、

一般論として言うならば、

人は苦労を重ねた分だけ、

自分が磨かれ、

人として成熟すると

思っている。

もし、苦労を

あまりしてこなかったら…、

「やすり」でしっかり、

磨かれていないから、

荒削りで粗暴で

自分勝手な人間のまま

だと思う。

苦労は、「やすり」。

苦労を重ねれば、

自分がそれだけ磨かれて、

あれこれ思い悩まない世界へ

行くことができる。

私は、そう信じている。

 

自らが招いたわけでもない

あれだけの大きな問題の数々を

とうとう専門家の手も借りずに、

自分自身で取り組んで

一つ一つ解決した

30~40歳代の経験は、

何にも代えがたい私の財産で、

それらの問題解決は、

私を強くしたばかりでなく、

「他人に優しく」

という、

人生でとても大切なことを

教えてくれた気がする。

 

18年前に本社ビルを売却、

移転した時に、

真実を何も知らない年長者が、

「 あの三代目は、

  先代が築いた財産を無くした。」

人伝にそれを耳にした時には、

さすがに腸が煮えくり返り、

愚痴や文句のひとつも

言いたかったが…。

「 わかる人には、

    必ずわかってもらえる。」

と我慢した。

 

そんな難問の数々を

先送りにされた事からも、

父を反面教師のように、

ずっと思い続けて来たが、

思えばその父は、

私が子供の頃から

事あるごとに大人の世界に

触れさせてくれた。

海外へ留学もさせてくれた。

これらの経験から私は、

若い時分から人一倍、

見聞を広める機会に恵まれた。

又、不思議なもので

多趣味な私の趣味のほぼ全ては、

父の影響を受けた趣味。

今はその父に心から感謝している。

 

次男に生まれた私が、

兄がトキワの後を継がないと

宣言した時から、

ギタリストとして、

プロデューサーとして、

芸能活動を満喫していた環境を

全て捨ててトキワへ入社。

流行の最先端を行く世界から

世の大半の人が知らない

ニッチな業種の営業を始め、

そこには時代背景や環境、

立場もあって、

取引先に馬鹿だのチョンだの

けちょんけちょんに言われても、

とにかく得意先に迎合、

負けず嫌いな性格から

ただただ実績を上げるために

頭を下げて、

好感の持てない人でも

徹底してお付き合いをした。

休日を返上してでも。

そこから否が応でも、

「忍耐」という

人生でとても大切な事を学んだ。

事実、こんにちでも

自らの感情を優先させ、

「忍耐」という

セルフコントロールの

できない人は、

人間関係や物事を

けしてスムーズには運んでおらず、

その口から出るのは愚痴と言い訳。

 

何不充なく、

幼少時から青年時代を過ごした私が、

厳しかった母親の躾、

父親が与えてくれた経験、

それらの家庭環境を土台に、

トキワの営業マンとして、

様々な経験をした。

子供の頃から

それは可愛がってくれた

叔父や叔母との別れも

同族会社の嵯峨で、

それが招いた突然の社長就任。

トキワの三代目として、

使命感と重責を背負う立場に。

そこで待っていたのは、

負の遺産の後始末。

そして、最大のアクシデントは、

メインバンクの破綻。

そんな出来事の数々を

経験した事から

人間形成が出来たと

今は全ての物事に、

感謝している。

 

この仕事を通じて多くの

「出逢い」があった。

現在既に商取引の

利害関係は無くても

かつての取引先の何人かとは、

今も尚、お付き合いが続く。

一方、プライベートにおいて、

これだけ多くの多士済々な

友人知人を持つことが出来た事は、

私が人様に誇れる「最たる事」で、

これは我が人生「最大の財産」

 

これらは全て、

これまでの経験が生んだ

「恵まれた出逢い」

 

「 いつどこでだれとだれが

   どんな出逢いをするか

   それが大事なんだなぁ 」

 

「 ひとの世の幸不幸は

  人と人が逢うことから

    はじまる。

    よき出逢いを」

 

私の好きな

相田みつを先生の

出逢いに関する格言。

 

これが出逢いの定義だとすれば、

この私は間違いなく、

「幸せ者」である。

 

(最終項へ)

     第七章 2020年~ 

      ( 新 時 代 )

 

(98) 後継者として ④

 

同族会社の経営を、

代々継承させていく事は、

並大抵な事でなく、

それは難儀な事である。

時代背景や環境が、

著しく変化する中で、

これまで通りのオリジナリティ、

つまり「らしさ」を

継続させる事に、

戸惑いを感じる。

それはそこに従事する

社員の気質が時代と共に、

大きく変化した事も

要因のひとつだ。

しかし、そのような中でも、

後継者は試行錯誤をして、

会社継続のために、

日々精進しなくてはならない。

 

先代の良いところは残して、

一方で改革が必要な事には、

違った方策を取る。

ただ何事にも言えるが、

人間、その立場にならないと

分からない。

それは親子であっても…。

私自身、

入社してから引き継ぐまで

先代である父を

常に反面教師のように

思っていたので、

互いの関係性は

あまり良好ではなかった。

だから息子が入社した時に

私自身、肝に銘じた事がある。

それは、

「 父がしてくれて、

  うれしかった事は

    息子にもする。

    逆にされて嫌だった事は

    絶対にしない。」

 

身内の事なので詳細は控えるが、

ひとつだけ。

 

私は時々息子を誘って、

二人だけでお酒を飲む機会を

作っている。

ある時息子が、

「 父親と二人で

  お酒を飲むことがあると、

  友人に話したら、

    びっくりされましたよ。

    あまりないようですね。 」

 

「 あっ、そ-。」

と応えた私。

その場で息子には言わなかったが、

実は私も何十年も前に

同じことを

友人から言われていた。

つまり父は幾度となく、

「ふたり酒」に誘ってくれた。

ゴルフなども同様で、

親子でスポーツを一緒に

出来るという事は、

本当に素晴らしい事。

私も同じように

息子をゴルフに誘った。

 

平素は社員の手前、

社内で親子の顔や関係性を

中々見せるわけにはいかない。

時に仕事の事でぶつかり、

険悪な雰囲気になる事も。

しかしそうは言っても

「血は水より濃し」

ひとたび会社を離れ、

周囲に気を遣う

人さえいなければ、

そこは実の親子。

仕事の話題はさておき、

互いの知る友人知人の話や

家庭の出来事など近況報告。

それは有意義なひと時である。

これは親子で同じ時期に、

同じ会社で、

働いた経験のない人には、

とても理解出来る事では、

ないと思う。

 

私が社長に就任し、

その6年後に父が亡くなり、

そこでやっと、

親としての父を、

社長としての父を、

理解できるようになった。

同じ時期に父、そして息子、

それぞれと働いた私。

両方の立場を経験している。

そこに当時の父の言動も、

合わせて振り返るに、

間違いなく言える事は、

親の方が子供に気を遣う。

その言動があからさまに出ると、

社員から「格好の標的」になる

(苦笑)

私がこれまで見て来た他社でも

この実態は多い。

「この親子関係を理解してくれ!」

などと言っても所詮それは無理。

同じ立場にならないと分からない。

だから、まず社長(親)自身が、

己に厳しく、

社員に説得力のある言動を取り、

社員と息子を

上手くコントロールしなくては

ならない。

あとは社員の総合的判断に、

委ねるしかない。

同族会社の親子関係と

そこで働く社員との関係性は、

とにかく難しい…。

 

そんな事を

父が亡くなった後に

やっと理解出来たこの私を、

既に他界した父が、

どう思っていたのか?

天国から私の社長業の

33年間を見て、

認めてくれているだろうか?

褒めてくれるだろうか?

よしと許してくれるだろうか?

既にこの世にはいないので、

何をしてもその答えを得る事は

できない。

墓石に話しかけても

何も答えては、くれない。

何をしても、返しがない。

私が継いで、

本当に良かったのだろうか?

その答えを求め、

今でも彷徨歩いている。

 

いつの頃からか、

「これが自分の運命」

「これが自分の使命」

腹を据えるようになってから

自分の気持ちは少し落ち着いた。

中小零細企業、

まして同族経営の後継者は、

このような心構えがないと

社長業は務まらない。

世間からすると

親が築いた会社へ入社、

周囲からはちやほやされて、

引かれた線路を進み、

苦労など何もないぐらいに、

思われているのだろうが(苦笑)

もちろんそれを、

全面的に否定はしない。

かつての私も、

そしてどこの息子も、

立場的な甘えがある事は事実。

だが、後継者が引継ぐものは、

実は財産だけでない。

「負の遺産」も

全て引き継がなくてはならない。

この負の遺産というものは、

財産と違い、

一般的に人目には見えない。

 

前出の親子共々、

ご教授を仰いだ塾長曰く、

「 後継者の方が創業者よりも

    色々な意味で大変ですよ。」

(理由は前述しているので割愛する)

両方の立場を経験した塾長の

この言葉には説得力がある。

 

そこで三代目の私から

四代目への提言と、

更に私の独り言(笑)

 

それは、

私のして来た事を見て、

良いと思った事は継続、

おかしいと思った事は廃止。

そして何よりも、

今後起こる出来事は全て

「自己責任」と腹を据えて、

一方で自分自身を信じて、

新しい事にチャレンジして

もらいたい。

私も経験しているが、

必ず先代と比較される。

しかしそんな無責任な

他人のたわ言は聞き流せば良い。

私を良く知る友人達は皆、

異口同音に言う。

「 萩原さんの後は

    大変ですよ(笑)」

どうやらそれは、

私が残した業績から

言っているのではなく(苦笑)

私のキャラクター、

つまり「人」として(笑)

 

何せ、何事にも

かなり熱い人間ですから。。。

 

前述の父が好きだった置物

「お福さん」。

この10年、

トキワは確実に来客が増え、

活気がある。

それは次世代が私とは無縁だった

色々な新しい組織に顔を出し、

その関係者が多数来社、

そしてその方々が、

色々な情報を持って来てくれる。

それが昨今の公的団体からの

いくつもの表彰にも繋がっている。

 

又、現在の息子と、

同じ年齢だった頃の

私と比較すると、

ずっと「社員思い」。

その最たるものは合議制。

これでも当時の私は、

父よりはずっと社員思いと

自負していたが(苦笑)

いや、

何事も世代が増すごとに

良くなれば良いこと。

「継続は力なり」

 

そして親の私が言うのも何だが、

「勤勉で真面目」。

ただ少々要領の悪い、

真面目さだが。。。

母親のDNAだろう(笑)

しかし世の中、

何よりも大切な事は

「真面目な事」。

コツコツ真面目に働くことは

1つの才能。

なぜならそれが出来ない人も

世の中たくさんいるのだから…。

そんな性格ゆえに大切な事は、

仕事を離れて没頭できる時間を、

是非作ってもらいたい。

今は「イクメン」で大変だろうが、

ただでさえ社長業は1年365日、

仕事の事が頭から離れない。

だからひと時の気分転換、

気の休まる時間を

自らが作らないと、

目先のことばかりが頭に残り、

斬新なアイデアも

浮かんで来ない。

 

そして最も重要な事は、

社内、社外共に、

自分に協力をしてくれる

人脈を作る事。

人間、一人では何もできない。

自分の持つ人脈が、

どれだけ力になってくれる事か。

そのために自分自身が、

心掛けなくてはいけない事、

それは常に己に厳しく、

人の役に立つ人間になるよう、

「日々研鑽」

まずは我が身を磨く事である。

 

33年前、

私が社長に就任した時、

そのお披露目の会で

父が挨拶の中で

私に残してくれた言葉。

それは、

「まだ足りぬ

 学べ学べとあの世まで」

 

(つづく)

  第七章 2020年~ 

      ( 新 時 代 )

 

(97) 後継者として ③

 

1990年9月1日、

三代目としてトキワを

引継いだ時の私の年齢は、

34歳。

何度も言った通り、

お家騒動から急遽社長に

就任したわけだが、

世間はそのきっかけとなる

トキワから独立した

叔父の新会社と

私が後継したトキワを

否が応でも比較していた。

だから私の中には、

叔父には絶対に負けられない

という強い気持ちがあった。

やり手の叔父が抜けても

トキワは健在だというアピールや

私自身が人生経験の浅い

経営者ゆえに、

舐められたくない

という気持ちが強かった。

今思えば背伸びも

かなりしていたように思う。

一方、内に目を向ければ、

父は当初こそ、

「お前の思う通りにしたのだから」

と私を突き放す態度を取っていたが、

思いもよらぬ

都内の同業社が皆、

叔父への同情からその矛先が、

父へと向けられた状況に、

父は私とタッグを組み、

協力的になっていった(苦笑)

そんな背景で船出した私は、

これまでトキワが

行って来た慣習を

残す事、止める事。

又、時代に即した

新しい仕組み作りなど、

新生トキワの構築に

日々時間を費やしていた。

大半の社員が私より若く、

その新しい仕組みに、

むしろ好感を抱いて、

協力してくれた事が

思い出される。

 

後に当時の社員と

飲む機会があった。

そのアルコールの席で

当時の私をどのように見ていたか

聞いてみた事がある。

「 社長は社員に

  厳しいかったですが

    自分に対しても厳しい。

  しかも誰よりも

    営業実績を上げていたので

    言う事に説得力があり、

    ついて行く事ができました。

  又、仕事を離れて

  あれだけ多士済々な友人が

    いるという事は、

  我々の知らない

  仕事以外での別の顔が

  きっとあるのだろうと

    そんな事も思ってました。」

 

そんな社員たちと共に歩んだ

当時の「よちよち歩きの社長」が、

後継者として引継いだ事、

止めた事、

そして新たに始めた事、

そのいくつかを

振り返ってみたい。

 

新しく始めた事のひとつに、

「トキワだより」と題し、

毎月発行した社外報がある。

新製品やイベント情報、

社員の横顔、

又、現在会社が計画している事を

取引先のみならず

トキワに関わる全ての人に

発信した。

この「トキワだより」の発行は、

会社そのものを

知ってもらう事が目的で、

とても好評だった。

33年も前に中小零細企業が

社外報を毎月出す(約300通)、

そのこと自体、あまり見られず、

少なくとも業界では初めてだった。

 

そして今だから話せる

これを始めた本当の理由…。

それは当時、

それなりの営業実績を上げていた

某営業マンの担当する取引先に、

私は何社か単独で表敬訪問をした。

すると、そこで聞く話が、

どうもトキワの実態と異なる…。

 

これは何時の時代にも言える事だが、

とかく実績を上げる営業マンは、

往々にして会社はさておき、

自分自身を売り込む。

自分をアピールして、

自分の方に目を向かせ、

受注に結びつける。

そんな言動が

いつの間にか取引先からすると、

仕入取引をしている会社より

その営業マンの方に、

目が向くようになってしまう。

(もちろん取引先にもよるが)

その営業マンも営業マンで

自分自身を売り込んでいるうちは、

まだ良いが、

本来、その後ろ盾となっているのは、

会社の信用。

それが大前提で、

実績を上げているという

「営業の根幹」を、

あたかも全てが「自分の実力」と、

大きな勘違いをして、

うぬぼれていく。

更にそれがエスカレートすると

会社の批判やこぼし話しを

取引先に平気でするようになる。

それを聞く単純な取引先は(失礼)

一方通行のその話を信じて、

いつの間にか内情も知らずして、

取引をしている会社より

営業マンに寄り添うように

なっていく。

私は一(いち)営業マン時代、

自分が訪問する会社の

営業マンのそのような実態を

いくつも見て来た。

だからそんな理由から

取引先には会社そのものを

理解してもらいたく、

この社外報を始めた。

前述の決算説明も同じであるが

私が新たに始めた事は、

相手の心理や気持ちを察し、

情報は何らかの形で

会社(経営者)から発信する

という目的で始めた事が

多かった。

 

話しは少々それるが、

決算説明と同時に、

私の代で始めたのが、

「スローガン」の発表。

会社の新年度(8月)に

その期の行動指針を発表する。

社長業33年、これまで毎期、

33のスローガンを、

(内、直近の5つは息子)

掲げて来たが、

中でも忘れることが出来ないのは、

やはり記念すべき

第1回目のスローガン。

それは「役割分担の認識」だった。

社員各々が自分のやるべきことを

しっかりと把握して、

自発的に、責任をもって、

臨んでもらいたく、

このスローガンを唱えたが、

これとて会社を、

あるいは社長を、

信頼する気持がないと、

役割の認識そのものを

理解したり、

言動に表現したりすることは、

できない。

 

一方、

父の時代から受け継いだ

事のひとつに、

会社がいただく「お中元」や

「お歳暮」は社員で分配する

という慣習。

聞くところによると、

とかく同族会社の場合、

社長が家に…(苦笑)

父が始めたこの事は、

現在も尚、継続している。

社員に対してと言えば、

1年に1度、

実棚のカウント作業

「棚卸の日」、

あるいは「大掃除の日」など

会社行事の時の昼食は、

必ず会社で支給していた。

これらも私は継続している。

些細な事かも知れないが、

良き慣習と思っている。

一方、

既に止めた事に、

「社内旅行」がある。

父の時代には毎年1回、

国内に1泊旅行をしていた。

引継いだ当初は私も継続して、

第1回目の千葉県「鴨川」に始まり、

「湯河原」や「山中湖」には1泊で、

工場のあった「金沢」には

能登半島を絡めて2泊で、

海外は「台湾」と

「フィリピン・セブ島」へも行った。

セブ島は、

かつて私が大学4年生の時に、

留学していた先で、

後に新婚旅行でも。

そしていつの日か、

会社の創業記念の区切りの年には、

是非この場所で社員旅行をと、

70周年のこの年に催した。

ありがたい事に、

既にその時点で、

23年も経過していた

私の留学当時のホストファミリーが

全て段取りをしてお世話下さった。

この旅行が最後の社内旅行。

これも時代の流れで、

社員のマインドを考えると、

止めることにした。

現在残された郊外での親睦は、

6月の第1土曜日、

臨時出勤扱いで(別日に代休)

神奈川県伊勢原市にある

大山阿夫利神社への

「雨乞い」の合同参拝がある。

その帰路、スパで入浴、

そして食事会を行っている。

食事会と言えば、

先代の時代には、

忘年会、新年会しか

社内の食事会は

行っていなかったが

私は不定期ではあるが、

忘年会、新年会の他に、

年間2~3回は、

行うようにしている。

それぞれが仕事中とは違う顔を

見せ合う事も大切だと、

「決起集会」とばかりに、

社員の気持ちは他所に(笑)

行っている。

 

又、前述した私が始めた事に

毎週月曜日の朝、

40分間の本社全員清掃がある。

そもそもこれは女性社員だけで

掃除している姿を見た私の発案で、

するようになった。

ただでさえ週初めの月曜日の朝は

「サザエさん」の翌日(笑)

誰でも憂鬱だ。

その日をいつもより1時間も早く

出社してもらう(苦笑)

週の始まりだからこそ、

大切と思い続けている。

社員はきっと、

そうは思っていないと

察するが(笑)

こんにちでは、

給与の時間外出勤にも

反映させている。

そんな「働き方問題」など

かつては全く話題にも

上らなかった時代には、

毎月1回、休日の土曜日、

会議のために出社してもらった。

これはある時からさすがに止めた。

これらはほんの一部であるが、

先代の慣習を続けた事、

止めた事、

又、新たに始めた事。

それぞれその理由や

きっかけがあり、

私自身が決めた事とは言うものの

社内の空気を読み、

「べき論」にとらわれる事なく、

判断することも大切だと、

今はそのように思っている。

社長就任当時の私に、

全くその感覚はなかったが、

それでもついて来てくれた

ありがたい社員たちに、

この場を借りて頭を下げたい。

 

又、私の代に、

時代の流れや社員の気質変化から

途中で変えた事も

いくつかある。

 

私が20代前半の頃、

ある出来事で、

先輩からえらく怒られた事があった。

それはある時、

セミナーで勉強してくるように

指示された。

帰社後、

その交通費を清算しようとすると、

前述の I 部長から、

「 会社がお前自身の勉強の場を

    提供してくれているのに、

  その交通費を会社に請求するとは、

  どんな神経しているのだ!」

と一喝された。

更にそのI 部長は、

「 この前、健康診断の交通費を

    精算している奴にも

  同じ事を言ったが、

  会社が負担するのは、

  あくまでも会社が

    必要とする物の費用や

  社用の経費。

  セミナーや健康診断が

  それにあたるか?」

言われればその通りだと思った。

又、嫌味を交えて厳しいことを

いつも言う I 部長ではあったが、

当時の私の立場は「社長の息子」。

中々言えるものではない。

かつてはそんな先輩がいて、

同族会社にありがちな

社長である親が言えない、

あるいは言わないような事を

先輩が厳しく言ってくれた。

今となっては、

本当に感謝している。

 

以後の私自身はもちろん、

私が社長に就任してからは、

社員には同じように諭して来た。

だが、本来このような事は、

社長や同族以外の上司が

言う事が望ましい。

説得力も格段の差。

そのような人材は、

同族会社にとって、

なくてはならない存在で、

会社からみたら財産。

人財」である。

 

しかし時代や環境が変わり、

社員の気質も変化した昨今、

決め事を作ることなく、

仮に会計出納責任者が不問にして、

個人の感覚だけに任せると

その現状は…。

だが現在の私は、

「そんな細かい事を言っても…、

 まぁいいか。。。」

と黙認している。

 

しかし本来、

このような感覚は、

多岐に共通する

とても大切な感覚で、

けして些細なことではない。

その物事の本質が、

当人にとって、

「ありがとう」の出来事なのか、

「ごめんなさい」の出来事なのか、

「お願いします」の出来事なのか、

それによって、

その当人が取るべき言動は、

大きく変わってくる。

又、そのメリハリが、

きちんと出来る人間が、

往々にして、

世の中で評価される人。

「セミナー」の参加や

「健康診断」の受診、

あるいは「食事会」など、

当人が希望していない

かもしれないが、

これらは皆、

「ありがとうございます。」

の出来事。

けして時代の流れや

社員の気質変化で

変る事ではないと思う。

 

ただ、

私が絶対に譲らない事は、

例えばその出来事に相手がいて、

それが、

「トキワらしさ」「トキワの文化」

に影響を及ぼす事。

これらは会社にとって、

とても重要なことで、

これに反する社員には、

けして妥協する気持ちはない。

仮にそれを不満に思う

社員がいたとしたら、

残念ながらその社員には、

お引き取り願うしかない

という信念だけは、

今も昔も全く変わらない。

 

(つづく)

 

※  先週の9月1日、

  おかげさまで社長就任

    丸33年を数え、

  恒例の「自分にご褒美」を

  ひとりでして来ました(笑)

  もう少し頑張ります! 

 

第七章 2020年~ 

      ( 新 時 代 )

 

(96)後継者として  ②

 

後継者の企業経営は

創業者のそれとは全く異なる。

だから二代目以降は、

先代がしていた慣習を

継続するか否か、

その判断に悩む。

個人差はあるだろうが、

少なくとも私はそうであった。

 

かつて私が通い、

現在は息子が通う「経営塾」の

塾長がこのような事を言っている。

 

「 創業と後継は

    同じ企業経営だから

  同じだろうと

    思っている人たちが

    たくさんいます。

    しかし、

    それは経営の実態を

    知らない人たち。

    創業と後継は

    同じ経営であっても

    経営者に求められる

    マインドセット(心構え)

    もスキルセット

    (手法、理論)が

    まったく違います。

    創業者も後継者も、

    そしてそれらを

    支援する人たちも

    この違いについて

    しっかりと認識

    しなければいけません。

    なぜなら、

    この認識違いで

    経営を破綻させてしまう

    からです。

    創業者は、

    自分のやりたいことを

    やる必要があります。

    なぜなら

    やりたくないことを

    やっていては

    周りに支援応援

    してくれる人を

    集める事ができないから。

    私はこれをやりたい!

    熱い想い、体温の高さが、

    周囲に人を集め、

    その事業を成功に導きます。

    創業者はゼロから

    作り上げます。

    それはやりやすい反面、

    アイデア力と実行力が

    人並み以上に求められます。

    ユニークで新規性がある

    アイデアを創業者自身が

    生み出し、

    それをブルト-ザ-のように

    強力に推し進めていく力が

    必要です。

    なぜなら、たぐいまれなる

    アイデア力と実行力が

    なければ

    経営を離陸することが

    できないからです。

    ゆえに創業者に求められる

    マインドセットは

    繊細さよりも大胆さ、

    タフさ、極太さが

    求められます。

    細かいことに

    こだわるよりも

    荒削りでも

    ガンガン進み続ける

    豪胆さが必要です。

    では後継者は

    どうでしょうか?
    創業者と同じく

    アイデア力や行動力は

    同じように求められる

   ような気がしますか?

    もちろん、

    アイデアも行動も必要

    ですが、その前段階で

    もっと必要なことがあります。

    それは「いまあるもの」に

    気配り目配りし、

    周囲と調整をしながら、

    コトを慎重に進めていく、

    たぐいまれなる繊細さです。

    なぜなら、

    後継者は「いまあるもの」の

    最たるものである

    「いまいる人」の同意・賛成・

    共感を得なければ、

    その立場をすぐに

  失ってしまう

    弱いポジションにいるからです。

    ですから後継者は、

    創業者にはある意味

    必要ないとも言える、

    周囲の心を深く察する力や

    きめ細やかな気配りをする力、

    同意や賛成をとりつけていく、

    質の高いコミュニケーション

    能力が必要です。

    創業者は、後継者ほどの

    コミュニケーション能力は

    必要ありません。

    周りに気遣いなどしていたら、

    後れを取って事業が

    失敗してしまうからです。

    同意や賛成よりも、

    とにかく突き進む突破力こそ

    創業者の持ち味なのです。」

 

この塾長は父親が急死した事で、

その父親が起こした

多店舗展開のアパレル会社に

急遽23歳で転職、

2代目社長として引き継いだ。

ところがそれから16年目、

その会社を倒産させてしまい、

自己破産まで経験する。

しかしその後、

このマイナスの環境から這い上がり、

後継者育成に特化した

経営コンサルタントの会社を

創業して現在23年目、

見事に成功させている。

そんな究極な経験を持つ塾長だから

この違いが嫌と言う程、

分かるのだろう。

又、後継者の

誰にも言えない悩み事の

相談を受けて来た経験からも

分かるという。

塾長曰く、

後継者の悩みのほとんどは

「人間関係」だという。

一方で創業者からは、

人間関係の悩みを受けたことは、

記憶にある限り1度も無いという。

この事実からも

創業と後継の違いは

明らかだと言う。

 

では、トキワのように

既に創業者の手から離れ、

二代目以降の

経営引継ぎの場合には?

 

私は、やはりそこにも前出の

「 周囲の心を深く察する力や

    きめ細やかな気配りをする力、

    同意や賛成をとりつけていく、

    質の高いコミュニケーション

  能力が必要。」

これは二代目以降、

いつの時代の経営者でも

必要な事と考える。

いや、この力は、

営業マンが実績を上げる際にも、

しいては世の全ての人間関係でも

大切な事ではないだろうか?

又、周囲がとかく前社長と

現社長を比較することがあるが、

その基準点は、

やはりこの力の差では、

ないだろうか?

社員は経営者をよく観察している。

前出の塾長の言葉ではないが、

 「 創業者は、後継者ほどの

       コミュニケーション能力は

       必要ありません。

       周りに気遣いなどしていたら、

       後れを取って事業が

       失敗してしまうからです。」

後継者が仮にこのような

創業者的な言動を取ったら

現代の社員は、

きっとついて来ないのでは?

ここにも後継の難しさ、

重要さがある。

そしてその環境の中で、

「後継者が引継ぐべきもの」

それをしっかりと把握して、

行動に移さなくてはならない。

 

(つづく)