第七章 2020年~ 

        ( 新 時 代 )

 

(100)そして「これから」。

   

入社以来、

あっという間に経過した

46年と半年。

トキワで歩んだ人生に、

感謝をしながら

このままもう少し

頑張ろうと思っている。

 

実は私には、

長年描いていた

第二の人生ビジョンがあった。

それは現在の社長業を

リタイヤした後に、

妻と二人で

「会員制の小料理屋」を

開店するというビジョンで、

その店の名は、

『萩原亭・紫陽花(あじさい)

 

料理上手な母、

食べ歩き好きな父、

その両親のお陰で、

自他ともに認める(笑)

「グルメ萩原」。

そして趣味は「料理」。

 

若い時から地方出張が多く、

全国色々な土地の名物を

食す機会に恵まれた。

又、その土地の人や店とは、

今も入魂のお付合いは続く。

そんな方々から頂戴する

四季折々の食品や食材の

産地直送品を、

自分たちの店で

活用させることが

我々夫婦が描いた

「店の売り」だった。

 

妻は43年前、

嫁に来た当初は、

おにぎりも結べなかった。

その妻が母から料理を教わり、

いや、

来客の絶えない萩原家にあって、

母屋でその手伝いから始まり

実戦で習得、

そこには本人の努力もあって、

後に来客の誰からも

「料理上手な奥さん」と、

言われるほどになった。

母から学んだ料理の中に、

「正月料理」がある。

毎年、おせち料理の三段重は、

「蒲鉾」以外は全て手作りという

上達ぶりだった。

その要因には、

素直な性格と資質もあったと、

私は思っている。

 

プロ野球の

千葉ロッテマリーンズや

オリックスバファローズで

監督を務めた西村徳文氏、

元東京ヤクルトスワローズの

宮本慎也氏、

現在中日ドラゴンズで

コーチをしている和田一浩氏、

同じく横浜DeNAベイスターズの

相川亮二コーチ、

福岡ソフトバンクホークスの

清水将海コーチなど

みんな現役時代から

我が家で食事をした常連で、

家内の料理を絶賛していた。

スポーツ選手の彼らにとって、

食生活は重要。

自分たちの奥さんに、

是非教えてほしいと、

異口同音に言っていたほど。

大相撲・元水戸泉の錦戸親方や

元大関朝潮の前高砂親方、

そして元富士櫻の前中村親方らは、

妻からのレシピで覚えた料理を

自分の部屋で、

「ちゃんこ」のメニューにしたほど。

現役時代の小錦も常連で、

妻の料理ファンの一人だった。

かつて私が極真空手の

役員をしていた時代には、

大会の前夜祭は、

我が家で妻の手料理の

食事会が恒例だった。

その妻が、

『萩原亭・紫陽花』の料理長。

既に食品衛生管理者の資格も取得、

店名を染め抜いた「暖簾(のれん)」や

「座布団」も仕上り、

準備万端でスタンバイ。

 

一方、私の役割は、

「メニュー」書きと「器」の取り揃え、

そして料理の補佐。

その日のお品書きは、

全て「江戸文字」で筆耕しようと、

(江戸文字とは、寄席文字・歌舞伎文字

 ・相撲文字などの総称)

江戸文字の大家に3年間習った。

店で出す「器」や「ぐい飲み」は、

やはり私の手作りで、

こちらも個人指導の陶芸教室に、

3年間通った。

 

「会員制」というのは、

偉そうに言っているわけではなく、

これまで散々理不尽な顧客に、

頭を下げて来た我がトキワ人生。

(苦笑)

今後は生計のために、

営むわけでもなく、

又、先代のしていた事を

引継ぐような使命もない。

私が「創業者」。

だからこの余生くらい、

不愉快な客に気を使うことなく、

こちらから客を選ばせてもらい

(笑)、

自分の思い通りの店にしたい。

そんな想いからの「会員制」で、

会員とその同伴者、

一日5名限定の

カウンターだけの小さなお店で、

料理はメニュー無しの

全て「お任せ」。

 

それらのお膳立てが整い、

将来の夢を語っていた矢先に、

妻の急死。

私は長年持ち続けたこの夢と

希望を失い、

虚脱感と絶望感に苛まれた…。

一時は何もかもが手に付かず、

「これから何のために、

   生きていくのか?」

そんな事まで考えた。

 

だがそれから、

約8年が経過した今は違う。

3人の子供たちと、

そのパートナ-や孫、

そして社員。

その存在を考えると

身勝手なことなど

言ってはいられない。

 

  江戸文字を染め抜いた座布団

特注の暖簾と19枚の座布団は全て処分、

       記念に1枚だけ残した。

 

 私の最後の陶芸作品「線香立て」

既に辞めていた陶芸教室の先生に

我がままを言って、

妻専用の線香立てを焼かせてもらった。

この作品を最後に、

陶芸はやめることにした。

 

5年ほど前から始まった

原因不明の「両腕痛」、

又、2年前から始まった

やはり原因不明の「目眩」。

そして現在は取り敢えず治まったが、

当時、何度となく起きた「不明熱」。

これらの症状から

現在は長年の趣味ゴルフ、

又、車の運転は控えている。

立て続けに起こったこの症状は全て、

いくら検査をしても「原因不明」、

結果は「異常ナシ」。

この不思議な体調の変化に、

改めて健康のありがたさを

痛感している。

まずは「健康第一」

若さを保つために、

朝晩の筋力運動とストレッチ、

早朝の軽いジョギング、

カロリー計算をした食事、

終末だけのアルコール。

これがルーティン。

いつの日か体調が戻り、

これまで通りに、

していた事が、

出来るようになる事を、

切に願い、

又、信じてやまない。

 

そして将来的には、

誰もが私を見て、

「信じられない74歳」

と思ってもらえる事が、

現在の私の目標(笑)

なぜ74歳?

それはその年が悲願の、

会社「創業100周年」。

そこまでは頑張らねば!

 

長年の夢が破れた現在の私は、

まずは引き続き会社へ。

早朝6時に出勤、

夕方17時には退社させてもらい、

体力温存。

次世代に任せた仕事とは言え、

キャリアから来るアドバイスは、

黙ってはいられない(笑)

一方で「生涯営業マン」。

引き続き、

何社かの訪問営業は、

続けたいと思っている。

これが私の「これから」。

 

この七章、100回に亘り、

書き綴った我が46年と半年の

「トキワ人生を振り返る」

いつの日からか

このブログの配信日、

月曜日が際立って訪問者が多く、

「 あっ、楽しみに

  してくれている人が

    いるんだ!」と

尚一層、気合を入れて

綴るようになった。

 

そしてこのブログ。

私の個人的な事は除いて、

会社の歴史に関する事だけを、

ピックアップ、

更に今後の7年間を付け加えて、

2030年の創業記念日

4月10日に、

「トキワ100年史」として、

次世代のスタッフの手で、

未来永劫に残る社史を、

是非、発行してもらいたいと

切に願っている。

 

実はこの9月3日(日)。

息子と一緒に、曾祖父が眠る

(1941年没・行年62歳)

茨城県かすみがうら市へ

お墓参りに行ってきた。

創業者である私の祖父は、

農家の長男に生まれたが、

何としても、

「東京で一旗揚げたい!」

という強い志から

弟たちに家業の農家を任せ上京。

後に成功し、

こん日この話は、

確かに美談にはなっている。

しかし、考えてみると、

本人に「郷土愛」があった事は、

間違いはないにしても、

取り方によっては、

「故郷を捨てて…」とも

取られかねない。

そんな事から、

トキワの後継者として、

ルーツの茨城県に眠る祖父の父、

私の曾祖父のお墓参りを

してみようと、

現在唯一連絡の取れる

茨城県かすみがうら市在住の

90歳になる父の従兄に連絡、

そのお墓に案内していただき、

写経を供え、

息子共々手を合わせて来た。

 

初めて訪れた

「茨城県かすみがうら市土田」にある

  私の曽祖父が眠るお墓

 

実は私は半年前、

偶然にも夫婦同い年で亡くなった

両親の行年を超えた。

これは長年、

私がとても意識していた

「恐ろしい年齢」だった。

そしてあと半年後、

今度は祖父の行年も超える。

つまり初代、二代目の行年を

超える事になる。

既に超えている曽祖父や

二代目を5年間継いだ叔父、

(父の兄)

そして私の妻も含め、

「短命の萩原家」にあって、

みんなの分も長生きして、

充実した余生を送るためにも

今ここに私は、

公私共に新たな目標を設定した。

今後は、それに向かい

日々精進である。

 

丸2年間、

このブログに綴った

これまでのトキワの出来事や

トキワに携わった人達について、

誰彼となく、

末長く語り継いでもらえれば、

こんな嬉しいことはない。

 

最後に、

このブログへ訪問いただいた読者に

心より感謝を申し上げたい。

 

(おわり)