「歴史における自由と必然との関係」──ヘーゲルはどう捉えたか | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

慶應義塾大学文学部 英米文学専攻(通信教育課程)を卒業後、シェイクスピア『ハムレット』の研究に専念しながら、小説、ノンフィクションなどの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。著書『ペスト時代を生きたシェイクスピア』他。

▲ベルリン大学で講義するヘーゲル

 

 ヘーゲルは歴史における自由と必然との関係をどのように捉えていたのか、この点についてプレーハノフの歴史観とも比較しながら述べる。

 

Ⅰ.ヘーゲルにみる「歴史における自由と必然との関連」について

 

 ヘーゲルによれば世界史を動かす原動力は世界精神としての理性であって、「世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、わたしたちはその過程の必然性を認識しなければ」(註1)ならないと言う。歴史は各個人が自分の目的を追求することによってつくられるものであり、人びとを行動へとかりたてる主要な動機は、欲望、衝動、情熱、特殊な関心、思い込みこそ、世界精神がその目的を完成し、意識へと高め、実現していくための、道具であり手段であると断定する。個人の意識には元来、利己的な目的しかなく、自分たちの目的を追求し、それを満足させると同時に、自分たちのまったく知らない高遠な目的の手段ないし道具となって、それを無意識のうちに実現するという。

 

 つまり、「世界史のあゆみのなかでは、歴史の究極目的が純粋な形で欲望や関心の内容となることはなく、欲望や関心において意識されることのないままに、普遍的な目的は特殊の目的のなかに入りこみ、特殊な目的をとおして自己を実現する」。(註2)このように、各人が意識しなかった普遍的目的を遂げるところに「歴史的行為」があり、ヘーゲルはこれを「自由と必然の統一」とよぶ。

 

 そして、これを成し遂げることができるのは、歴史的人間ないし世界史的個人であるところの「英雄」である。英雄は、その目的や使命を、現存体制における安定した秩序ある事態の動きばかりでなく、内容が隠されて目に見えないような源泉からも汲みとってくると指摘する。「その源泉とは、いまだ地価にひそむ内面的な精神ともいえるので、この精神は種子の殻をたたくように外界をたたき、外界をこわしてしまう、──つまり、英雄とは自分のなかからなにかを創造するように見える人物のことであり、その行為が、かれ(、、)()もの、かれ(、、)()作品であるとしか思えない事態や状況をうみだす人」(註3)である。

 

 英雄の一例としてヘーゲルは、カエサルをあげる。カエサルは三頭政治において、自らの地位を失い、敵にまわりつつある二人に屈服させられそうな危機に陥ったとき、英雄的な行動に出た。その行動は、自分の地位と名誉を保持する特殊な利得につながるものであったが、その結果はローマ史と世界史の必然的な方向性を示すものであった。だから世界史的見地からみれば英雄は、自己の実現の手段として背後からあやつられていたのである。その正体は「一般理念が情熱の活動を拱手傍観し、一般理念の実現に寄与するものが損害や被害をうけても平然としている……理性の策略」(註4)である。

 

 英雄は情熱的に自らの欲望を満たそうとして行動する(=自由)が、理性にだまされて自分の知らない普遍的目的を実現(=必然)し、その役割が終わると歴史の舞台から消されるのである。

 

Ⅱ.プレハーノフにみる「歴史における自由と必然との関連」について

 

 プレハーノフは、基本的には歴史が人間の意識から独立した客観的法則に従って発展するものであるという考えに立ちながら、それを宿命的な必然論と解して歴史づくりに個人の役割が何もないというナロードニキ主義を論駁した。

 

 プレハーノフによると歴史をつくるのは他ならぬ人間であり、同時に「歴史の唯一の要因」をなす人間は「社会的人間」である。従って人間は社会条件と無関係にあることはできない。歴史をつくる上に「個人的な特質の影響がどれほどうたがいないとしても、それが作用するのは、ただ一定の社会条件のもとでだけだということみ、それにおとらずうたがいないことである」。(註5)即ち個人が活動するときそのように彼を活動せしめたものはその時代の「社会条件」にあるという。そして、その社会関係は生産力と生産関係についてよって決まり、一定の法則をもっている。だから、どんな個人も社会的人間だから社会的条件について規制されつつ人間をつくるということになる。

 

 この法則によって、歴史の進路がきまるから歴史は大局的に必然であり、それを現実に起させる契機が英雄の個人的活動である。「結局英雄には、ヘーゲルが考えるような無限の自由はなく、社会条件の発展してゆく方向を見極めてそれが実現する契機を見抜く自由しかない。これがプレハーノフの考え方である。」(註6)

 

Ⅲ.ヘーゲルとプレハーノフの違い

 

 英雄像についてのヘーゲルとプレハーノフとの違いをみてみよう。

ヘーゲルは、歴史づくりは意識的には個人の自由以外にないといいながら、歴史をつくる英雄の背後に存在する絶対者の「見えざる手」、つまり「理性の策略」という神の力によって目的を実現していくという。

 

 これに対しプレハーノフは、歴史をつくるものとして個人の自由や才能は認めるが、それは、現実に一つの社会勢力として発揮されるためにはその場合の社会条件、いわゆる生産力の発展に適合していることが決定的な条件である。したがって、英雄が歴史をつくることが可能であるのは、ヘーゲルのように英雄の資質に帰するのではなく、英雄らしく働かせた社会条件に、より大きな要因を見ようとしている。つまりプレハーノフがいう自由は、観念的な自由ではなく、現実的な社会勢力としての自由しか問題にしていないのである。結局自由とは「他の人より先の見とおせる人、他の人より強い意志をもつ人」である英雄が客観的な必然性を見抜くことに他ならない。

 

 以下は私見であるが、ヘーゲルは「理性の策略」によって英雄を理性の傀儡に仕立てあげたが、ヘーゲル自身、英雄の行動を通じてつくりあげられる歴史的な大事件の場合について以下のように述べている。

 

 歴史的な大事件の場合には、「現行の公認された義務や法律や正義と、それに対立する可能な義務や法律や正義とのあいだに、大きな葛藤が生じ、新しい秩序が古い体制を傷つけ、その基礎と現実性を破壊し、しかも新しい秩序自体が、よいもの、全体として利益をもたらすもの、必要不可欠なもの、と思えるような内容をもつものです。」(註7)

 

 ここには、明らかに、ヘーゲルが認識における実践の意義を認めているものである。つまり、理性は「現行の公認された」世界の自己同一である実体を捉え(即自的)、その上で「大きな葛藤が生じ」、自己が対象と意識とに分裂・矛盾した状態が現れ(対自的)、この矛盾が止揚されて「新しい秩序」(即対自的)を生みだすという。歴史をつくる最終的な働き手は「理性の策略」だとヘーゲルはいう。この即自、対自、即対自の視点は、人間(英雄)の実践により世界を認識し、歴史をつくることができることを示しているものと判断する。その点からも「理性の策略」論はヘーゲルの論理展開のなかで、ヘーゲル自身が事実上否定してしまっているとものと考えられる。[*]

 

 またプレハーノフは、社会関係(生産力の状態)なしに人間はない、という前提から出発しながら、個人の意識が社会関係を変えることを個々の局面では認めるが、全体の方向においては認めないことは大きな矛盾である。これに関連して、レーニンは『哲学ノート』の中で、「自然科学は、客観的自然が、個別的なものの普遍的なものへの、偶然的なものの必然的なものへの転化、対立物のもろもろの移行、変移、相互連関という同じ諸性質をもっていることを(中略)プレハーノフは注意をはらわなかった」(註8)と述べ、プレハーノフが「矛盾・対立」の側面を不当に軽視していることへの問題を提起している。社会関係とのかかわりで個人を論じるのであれば、「生産力と生産関係の矛盾」によって生じる階級闘争に個々人が合流するのはマルクス歴史観の当然の帰結であるが彼の思考にはそれが欠落しているといわざるを得ない。

 

[*]評価者によるコメント:

 

「理性の策略論」をヘーゲル 自身が否定していると述べられていますが、理解できません 「歴史的な大事件」に関するヘーゲルからの引用も、世界史的個人(英雄)の実践に関するものですが、このような個人の自由な実践こそ、理性の策略の前提ではありませんか?  もちろんヘーゲルは、世界史的個人が理性の目的を自覚しているとは考えていません。それ故に、個人は主観的に自由なのです。主観的には自由な個人の実践が、客観的には(個人によって意識されることなく)理性の目的を実践する、というのがヘーゲルの考え方です。ここで大切なことは、個人が主観的とは自由だということです。というのも、プレハーノフにおける個人は主観的にも必然性を自覚しており、この点にこそ、ヘーゲルとプレハーノフの考え方の違いが見られるからです。

 

 

<引用註>

1 ヘーゲル上、p.41

2 同上、p.52

3 同上、p.59

4 同上、p.63

5 プレハーノフ、p.57

6 神山、p.75

7 ヘーゲル、p.57

8 レーニン下、p.329

 

<文献表>

・ヘーゲル著/長谷川宏訳(1994)、『歴史哲学講義』(上)(下)、岩波文庫

・プレハーノフ著/木原正雄訳(1958)、『歴史における個人の役割』、岩波文庫

・神山四郎著(1995)、『史学概論』、慶應義塾大学出版会

・レーニン著/全集刊行委員会訳(1964)、『哲学ノート』(上)(下)、大月書店