二人の間に生まれたエリザベス(のちのエリザベス一世)は、女王として四五年間(一五五八―一六〇三)君臨し、その期間はシェイクスピアの生涯(一五六四―一六一六)とほぼ重なります。
王とキャサリンとの間には、のちのメアリー一世しか成長しませんでした。王は「弱く、愚かな」女性が君主になれば、国の秩序は乱れると考え、男子の誕生を渇望していました。
それ故に、アン・ブーリンがエリザベスを出産した際に、王は、「神はまたも男子を授けることを拒まれたか!」と激しく動揺し、その顔はたちまち醜くゆがみ、当惑と怒りと憂悶が感情のうねりとなって広がったといわれています。
アン・ブーリンは、エリザベスを生んだ三年後、男児を流産したことで王の寵愛を失い、数か月後に五人の男と姦通したかどでロンドン塔で処刑されました。エリザベスが二歳八か月のときでした。彼女が無罪か有罪かについては、今日でも明らかではありませんが、彼女がイングランドの王子を産み、自分自身を破滅から救うために姦通した可能性は否定できない、という歴史学者もいます。
この時代は、天変地異やペスト、飢饉はもちろん、集会場の床が人々の重みで抜け落ちたりすると、異端の集いではないのかと怪しむなど、それらは神の怒りによるものだと考えられていたのです。多くの人が亡霊を見たと語り、亡霊の存在そのものが信じられていた時代でもありました。人々は、王妃が王子を生まないのは聖書の教えに背くことであり、神の怒りと憤りのあらわれだと考えていたのです。
シェイクスピアの史劇『ヘンリー八世』(推定執筆年一六一三年)には、これらのことは触れられていません。結末は次のように王のエリザベス誕生の賛歌で締めくくられているのです。
おかげでおれもようやく一人まえになった思いだ。おれは
このしあわせな子を生むまで、なに一つ生みはしなかった