『フランス文学概説』(牛場暁夫 ほか著)の第3部「小説の技法」について概説し、モーパッサンの『ベラミ』を通して、作品を創造する上で欠かすことのできない視点、話法、描写について考察する。
Ⅰ.作品創造における3つの視点と話法について
1.3つの視点について
視点(poinr de vue)の設定は作品創造の上で極めて重要である。それは語り手の作品世界に対する立ち位置のことであり、「虚構の登場人物やその行動に対する読者の感情的・倫理的反応を根本的に左右する問題だからである」(註1)。
通常、3種類の視点に区別される。
(1)全知(omniscient)の視点:語り手は登場人物の心理的・精神的状態もすべてなにもかも精通していて、まるで全知全能の神の振る舞いをすることである。しかし、全知といえども、語り手がとり得る「視点」からのものであり、物事がその視点にどう作用するかを描くのである(註2)。
(2)外的(externe)視点:語り手がある場面を撮影するテレビや映画同様に、あたかもそこに居合わせた目撃者のように振る舞う視点である。
(3)内的(interne)視点:語り手が登場人物の一人と同化し、その目を通して世界を観察し、発信する場合をいう。
一つの作品を作るのに、どれか一つの視点を用いることもできるが、三つの視点を所々で使い分けたり、時には組み合わせることもできる。
2.話法について
(1)直接話法と間接話法
語り手が、登場人物の意思や感情を伝えるには、「直接話法」(discours direct)と「間接話法」(discours indirect)がある。
直接話法とは、登場人物の発言や思考内容をそのまま直接に報告する方法である。フランス語では形式的な約束事により判別できる。まず主語の後に「言う」(dire)や「考える」(penser)などの動詞が続く。それは引用を導く句読点ドゥ・ポワン(:)によって区切られる。発言や思考の内容は、引用符ギュメ(《》)によって括られるか、改行してティレ(-)により導かれる。日本語ではカギ括弧(「」)を用いるのが一般的である。
関節話法とは、登場人物の発言や思考内容を語り手が復元しながら報告する方法である。フランス語では主語に発言動詞や思考動詞が続くところまでは直接話法と同じだが、その後に接続詞queが用いられ、内容が導入される(この部分を「従属詞」と呼ぶ)という形式的特徴がある。日本語に訳すと「~と」という形をとる。
(2)自由間接話法について
3番目の方法として「自由間接話法」(discours indirect libre)がある。登場人物の発言や思考内容を、語りや描写の中にさりげなく埋め込む方法である。引用符(直接話法)や従属節(間接話法)があるわけでもない。
Ⅱ.モーパッサンの『ベラミ』にみる描写、視点、話法の特徴
1.モーパッサンの作品の特徴(註3)
それは彼の代表的な長編小説『ベラミ』にもあてはまる。
(1)内的視点を好んで使用した。しかも様々な登場人物の内的視点を組み合わせることで独特の効果を生み出す工夫をした。
(2)描写を凝縮し、本質的なものや印象的な細部に限定する傾向がある。
(3)まず一つの場面を語り始め、その後に描写が続くという傾向がある。
(4)登場人物の目を通して世界を提示するという特徴がある。
(2)については、例えばデュロワが往来で偶然に出会ったフォレスチエに対する描写の中で、語り手はデュロワの視点からフォレスチエの姿を「態度、物腰、服装ともにりっぱなもので、自信があふれ、腹も、うまいものを食っているとみえて、せりだしていた。」(註4)と描写を凝縮しながらも「以前は、彼は痩せて、薄べったく、華奢で、そそっかしく、皿ばかりこわし、はしゃぎ屋で、年じゅうお調子にのっていた。」(註5)──「皿ばかりこわし」などと細部にわたる描写をしている。
(3)については、いたるところで、一つの場面を語り始め、その後に描写が続くという手法がみられる。
2.上記以外の『ベラミ』の特徴
(1) 主人公ジョルジュ・デュロワの名の表記と三人称代名詞の多用
「ジョルジュ」、「デュロワ」、「デュ・ロワ」、「ジョルジュ・デュ・ロワ」、「デュ・ロワ・ド・カンテル」、「デュ・ロワ・ド・カンテル男爵」、そして、「青年」、「ベラミ」、「新聞記者」、「若い男」、「事務員」、「連れの男」、「新しい同僚」と極めて多様である。
以下には一場面のなかに主人公の3つの人称代名詞が使われている。
ジョルジュとマドレーヌはだいぶおそくなって家に帰ってきた。もうガスが消えていた。そこで、階段を照らすために、新聞記者はときどき蠟マッチをすった。
二階の踊り場へついたとき、すったマッチの光が急にぱっと走って、階段の暗闇に浮く二人の
姿を鏡のなかにうつしだした。
それは、夜の闇のなかにふとあらわれて、いまにも消えようとしている幽霊のようであった。
デュ・ロワはマッチをもった手をあげて、自分らの姿をはっきり照らした。そして、勝ちほこった笑い声とともにいった。
──百万長者のお通りだぞ!(註6)
「家に帰ってきた」という単なる行動を示す中ではジョルジュという本名、蠟マッチをするという冷静な判断をする新聞記者、そして「百万長者のお通りだぞ!」と貴族のしるしを得たデュ・ロワの姿である。主人公の名を使い分けることで、主人公のしたたかさと野心を効果的に表現している。
(2)描写の詳述と略述
『ベラミ』の描写には詳述と略述という描写の落差がある。次の最初の引用文は細かく描写しているが2つめ以下の引用文の性描写は抑制されたものである。女性たちを騙し悪の栄華を極めようとする色事師が主人公であるが故に、性描写を抑制することで、むしろ作品のテーマを浮き彫りにするという効果を発揮している。
彼は毎月平均千フランの金を使っていたが、たいして贅沢や放蕩もせずに、なんに使ってしまったんだろうと、われながらいぶかしんだ。だが、昼食の八フランに大通りのりっぱなカフェでの夕食十二フランを加えると、すぐにもう一ルイで、それに、どうして使ったかわからない小づかい銭を十フランばかりたすと、合計三十フランになる。だから、一日三十フランなら、月末には九百フランになる勘定だ。しかも、それには服や靴や下着や洗濯物などの費用は、全然はいっていないのだ。(註7)
彼女は、仲たがいなどなかったように、唇を差しだしながら彼をむかえた。そればかりか、しばらくは、いつも自宅では愛撫しあわないことにしていた、慎重な用心さえ忘れた。(註8)
彼はあいびきへいった。彼女が腕のなかへとびこんできて、ところきらわず接吻した。
(註9)
(3)比喩の巧みさ
「彼女は万事に賢明で、内輪で、思慮がふかく、いわばフランスの庭のように整然とととのった頭の持ち主だった。べつに人目をおどろかすものはないが、ある種の魅力を感じながら散歩できる庭だった。」(註10)、「彼はお行儀のよい子供のように、わざと両手を膝のうえへきちんとそろえていた。」(註11)、「彼は課業をもぞもぞ暗記する中学生のような声で、いった。」(註12)などと比喩が多用され、実にわかりやすくユーモラスでもある。
(4)自由間接話法の効果
内的独白は談話構造の文法上の主語は「私」であり、登場人物が自分の頭の中で生まれる意識をそのまま言葉にしている。一方、自由間接文体は、三人称小説の地の文でありながら、登場人物の思考内容を表現したものである。以下の文はデュロワがマレル夫人と密会しているときに、馴染みの娼婦がちょっかいをだしてくる場面である。
下線部は自由間接話法である。
彼はたった一言でも淫売婦なんかと口をきいて、身分をけがすのはごめんだとうような、軽蔑をよそおって、返事をしようとしなかった。
彼女は怒りをみなぎらせた声音で笑いだした。
──おや、おしになっちまったの、この奥さんに舌をまかれたんだろう。
彼は激昂した身ぶりをし、甲走った声でどなった。
──なんの権利があって、そうつべこべしゃべるんだ。あっちへいけ。さもないとしょっぴかせるぞ。
すると、相手は眼を血走らせ、胸をふくらませて、わめきたてた。(註13)
直接話法と自由間接話法の交互の文体は、読み手にまるで追う者と追われる者というような臨場感と切迫感を与えることで、語り手は自由間接話法の効果を生かしている。
<引用註>
1 ディヴィッド p.44
2 〃 p.45参照
3 牛場 p.152参照
4 モーパッサン p.12
5 〃 p.12
6 〃 p.412
7 〃 p.131
8 〃 p.186
9 〃 p.215
10 〃 p.158
11 〃 p. 270
12 〃 p.271
13 〃 pp.143-144
<文献表>
・牛場暁夫ほか(2010)、『フランス文学概説』、慶應義塾大学出版会
・ディヴィッド・ロッジ『小説の技法』(柴田元幸、斎藤兆史訳)(1997)、白水社
・モーパッサン『ベラミ』(田辺貞之助訳)(1970)、新潮社