サピア=ウォーフの仮説(言語的相対論)──その内容と例示 | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

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慶應義塾大学文学部( 英米文学専攻・通信教育課程)を卒業後、『ハムレット』を研究。小説、ノンフィクションの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。ライター。

 

 

 異なる言語を使うと、認識する世界観や概念のあり方が変化するという仮説──これをサピア=ウォーフ仮説といわれている。ここではその内容とともに、いくつかの例を示す。

 

Ⅰ.サピア=ウォーフの仮説(言語的相対論、Sapir-Whorf hypothesis)とは何か

 

 サピア=ウォーフの仮説とは、エドワード・サピア(1884―1939、アメリカの人類学者、言語学者)と、その弟子にあたるベンジャミン・リー・ウォーフ(1897―1941、アメリカの言語学者)が主導した言語と文化に関する考え方(仮設)をいう。それを端的に表しているのが以下のサピアの文章である。

 

Language is a guide to 'social reality.' ...Human beings do not live in the objective world alone, nor alone in the world of social activity as ordinarily understood, but are very much at the mercy of the particular language which has become the medium of expression for their society… the real world is to a large extent unconsciously built up on the language habits of the group. No two languages are ever sufficiently similar to be considered as representing the same social reality. The worlds in which different societies live are distinct worlds, not merely the same world with different labels attached. We see and hear and otherwise experience very largely as we do because the language habits of our community dispose certain choices of interpretation.(註1)

 

 私たちが生きている「現実世界」は客観的に存在しているのではなく、自己の社会の表現手段となった言語に大きく左右されているという。つまり、言語が異なれば、知覚や経験一般も異なる。そうしたことから、言語が違えば同じ世界に住んでいるのではないということになる。要するにサピア=ウォーフの仮説とは、「人間の思考は、母語によってあらかじめ定められた様式に沿ってのみ展開しうる」(註2)という考え方である。ここには思考や経験の対象物が同一でも、それをとらえる言語によって認識のあり方が違ってくる、という主張(言語相対論)と、言語は思ったり経験したりする事柄をただ表現するためだけの道具ではなくて、むしろ私たちの思考や経験の仕方を左右するような作用をそなえたものである、という主張(言語決定論)がある。また、言語相対論の中には「強い仮説」と「弱い仮説」があり、「強い仮説」では「言語によって思考は決まってしまう」という立場を取る。一方、「弱い仮説」では「決定はしないが、言語が異なれば思考に影響を与える」という立場をとる。

 

 それでは、サピア=ウォーフの仮説の具体的な内容について述べる。

ウォーフは学者になる前には火災保険会社の仕事をしており、いろいろな火災の原因を調査する機会があった。彼はガソリンの貯蔵所ではガソリン缶の置かれている場所よりも、「空の」ガソリン缶の置かれている場所のほうが火災が起こりやすいことに気づいた。「空の」ガソリン缶なのに何故? 「空の」ガソリン缶とは、たしかにガソリンは空っぽだが、その代わり、起爆性の気体が充満しているのを人々は気づかず、安心して近くでたばこを吸ったりしたのが火災をもたらすことになった。火災を防ぐには「空のガソリン缶」ではなく、「起爆性の気体が充満した缶」と表現とすべきであったと主張する。ここで問題にしているのは「『空の』ガソリン缶」と表現したのが間違いだったということではない。世の中の物ごとは、それを見る人の立場やとらえ方によって、いろいろな切り取り方ができる。「『空の』ガソリン缶」ということばと、「起爆性の気体が充満した缶」ということばは、切り取り方が違うということだ。しかも、ある切り取り方によって作られたことばは、逆に人の物の見方を支配してしまう。前述したように、世界についての私たちの認識・思考は、ことばに支配されている、というのが「サピア=ウォーフ仮説」である。
 

 次に私たちの日常生活のなかからサピア=ウォーフの仮説に係わる例示をみてみたい。

 

Ⅱ.サピア=ウォーフの仮説の例示

 

1.数詞・助数詞の扱いの違い

 

    「青虫見つけた」(註3)

   I found a green caterpillar.

 

 日本語では「青虫見つけた」と言えば、それが1匹なのか、2匹なのかは直ちに意識しなくても事前に会話が成立する。しかし、英語では「I found a green caterpillar.」あるいは、「I found some green caterpillar.」などと表現される。たえず、単数か複数かの区別が求められる。日本語の曖昧さに比べ、英語では厳密さが必要とされる。

 

 一方、助数詞はどうか。

 助数詞は、名詞を修飾する基数詞(人、匹、頭、羽、台、個、冊、本、杯、頭、歳……)、動詞を修飾する頻度数詞(1度、2回)、順序を表す順序数詞(1番、2位)などに類別されるが、日本語の場合は、数量を表すときに、数に助数詞をつける。

 

「青虫見つけたよ、1匹。」

   I found a green caterpillar.

 

 英語では助数詞は必要はなく、1匹であれば「a green caterpillar」と単数であればよい。日本には夥しい数の助数詞があるが、今日では「つ」と「個」で代用されている。厳密には誤用だと思われるが、人間を数えるのに「人」ではなく「頭」で数えたりしない限りはコミュニケーションにおいて支障をきたすことはない。中国語では助数詞が多く使われるとのことだが、そのことで日本人と比べてモノに対する認識が全く異なるわけではない、という。それは「助数詞のカテゴリーは名詞のカテゴリーに比べ、メンバー間の概念的なつながりはゆるいので、認識をひっくり返すほどの大きな影響はおよぼさない」(註4)

 したがって、サピア=ウォーフの仮説はこの助数詞に関しては「弱い仮設」となるだろう。

 

2.所有代名詞の使い方……日英との違い

 

  Johnsy, lay, scarcely making a ripple under the bedclothes, with her face

toward the window.(註5)

 

 英語を勉強していると必要な所有代名詞を欠落させてしまうことが多い。特に上の例などがそうだ。「掛け布団の下でほとんどさざなみひとつたてることもなく」横になっている者が顔を窓のほうにむけているのだから、その顔はhisやyourやmyやtheirなどの顔になることは不可能で「Johnsy」の顔以外に考えられないではないかと思うが、あえて「her face」となる。

 

 池上嘉彦は、所有代名詞についてこう述べている。

 

「(ドイツ語では)「自らの<身体>というものがそれ以外の所有の対象になりうるようなものとは区別され、特別は扱いをうけているわけである。英語では自分の身体の一部であってもそれ以外の所有の対象となりうるものの場合と同様<所有代名詞>を用いることによって、両者を区別しない。」さらに「言語による表現の中では<人間>を表わす項や<人間>に関する事柄が特別な扱いを受ける傾向があることが十分に読み取れよう」(註6)

 

 しかし、英語では「特別な扱いを受ける傾向がある」とはとても言いないのではないかと疑問を持った。自分の体の一部なのにいちいち所有代名詞をつけることが求められる英語はつくづく疑い深い言語だと思ってしまう。“日々変化する人間の心は神を介してのみ相互の信頼が生まれる”という原罪説が底流にあるのかもしれない、などと考える一方、ドイツも人口の約6割強の人がキリスト教を信仰している事実をふまえれば私見は崩れてしまう。 

 

3.時制に関して 

 

 A It was our third time playing the Godfather them since lunch, so I was looking around at the tourists seated across the piazza to see how many of them might have been there the last time we’d played it.(註7)

 

 B  暗い部屋の窓を少しずつ開いて光を入れるように、彼の中に意識が戻ってきた。水平なところに寝ている自分にまず気付く。身体はまっすぐになっている。頭の下に何か柔らかいものがある。自分が落ちたことを思い出した。(註8)

 

 Aのように英語には時制の一致という原則があるが、日本語にはない、といえる。Bの「た」は過去形、「気付く」「ある」を現在形ととらえるならば、時制は混在していることになる。しかし、そのことで読む者に混乱を生じさせることはない。「彼の中に意識が戻ってきた」というのは過去の事実というよりも現在からその先へと継続したものであり、その点では結果の存続の確認というような役割を果たしている。話者や読み手は、過去と現在を峻別しているわけではなく自然と発しているように思われる。テクストを読む中で理解できるし、混乱を生じることはない。むしろ時制の混在は、「た」の繰り返しを避け文章のリズムをつくりだす上で必要なことだ。こうした言語をもつ日本人にとって英語の「完了形」を正確に理解するにはたいへんやっかいなことである。

 

4.自分の体験に照らして

 

 (1)1年間のロンドン生活を体験して

 

<曜日の捉え方の違い>

 

 数年前に1年間、ロンドンに滞在する機会が得た。その時、テレビニュースや日常会話の中で時を示すために「日」よりも「曜日」が重視されることにすぐに気づいた。来週の天気予報を告げるにも曜日が中心で、「月曜日は晴れ」、「火曜日は曇り」といった報道である。日本では「日」が先行し、曜日は「日」を補完するものとして扱われているように思う。

 友人のためにバースディ・ケーキを予約するために店に行った際には、「△日の正午に取りにきます」と告げたら、店員がカレンダーをみて「水曜日ですね」と曜日で念を押された。これこそキリスト教との深いかかわりのなかで生まれた文化であると痛感した。

 

<韓国、台湾の友人たちとの英語のニュアンスの違い>

 

 台湾の人たちと待ち合せなどの約束をすると平気で遅れてくる人が多かった。20分の遅れは、日本でいえば5分ほどの遅れの感覚で、まったく平気な表情であった。本当に閉口したがみんなフレンドリーで人間的にはいい人ばかりである。

Let’s meet up at 7.──と「約束」しても、その約束が果たされず、言葉が本来の意味・概念をもたない。こうなると文化の違いで、言葉が思考を支配することはなく、その点では「サピア=ウォーフの仮説」に逆行することになるのではないだろうか。

 

 (2)日本国内での違い

 

 「サピア=ウォーフの仮説」は母国語の違う国の間のみならずに、地域間でさえ起こり得るのではないかとも考えられる。私の育った福島県・会津の山間の村では、「炊く」は「飯を炊く」と米に限定して使われた以外聞くことはなかった。さらに、「煮る」と「ゆでる」の区別が曖昧であったように思う。むしろ、「ゆでる」ことも含めて「煮る」と使われていた記憶がある。成人してもしばらく区別ができずにいたが、食品の量も増え、調理法方法も多彩になるなかで「ゆでる」ことと「煮る」ことの区別は他者との関係においては曖昧にはできないものがある。

 

<引用註>

1 唐須 p.104

2 西田 p.153

3 保坂 p.124

4 今井 p.81

5   Henry p.54

6 池上 p.102

7 Kazuo p.189

8 池澤 p.104

9 唐須 

10 池上

 

<文献表>

・唐須教光 『現代英語学』 慶應義塾大学出版会株式会社 2007

・Ian McLellan Hunter Roman Holiday  IBCパブリッシング株式会社 2011

・保坂和志「この人の閾」(『芥川賞全集十七』所収、株式会社文芸春秋発行、2002)

・池上嘉彦 『<英文法>を考える』 筑摩書房 1995

・今井むつみ 『ことばと思考』 岩波書店 2010

・池澤夏樹 『きみのためのバラ』 新潮社 2010

・西田龍雄(編) 『言語学を学ぶ人のために』 世界思想社 1986

・O.Henry THE LAST LEAF 学生社 

・Kazuo Ishiguro Nocturnes  Faber and Faber Ltd 2010