マックス・ウェーバー『職業としての学問』の意義と限界 | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

慶應義塾大学文学部 英米文学専攻(通信教育課程)を卒業後、シェイクスピア『ハムレット』の研究に専念しながら、小説、ノンフィクションなどの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。著書『ペスト時代を生きたシェイクスピア』他。

  

 

 マックス・ウェーバー(1864-1920年)の『職業としての学問』の社会学上の意義と限界について考察する。この書はウェーバーが1919年1月にミュンヘンで学生を相手に行なった講演録である。

 

Ⅰ 『職業としての学問』の要点

 本書には多岐にわたるテーマがとりあげられているが、学問の職分を中心に述べる。

 

1.学問を職業とする心構え、それは専門に閉じこもることで得られる。

 

 ウェーバーは学問上の仕事は、自己の専門に閉じこもることを前提とした専門的な作業の積み重ねによってすぐれた業績を達成されるし、それには、仕事に対する情熱こそが不可欠であるという。彼は学問を職業とする心構えを次のように述べる。

 

 その主観的態度にとって決定的なことは、なによりもまず学問がいまやかつてみられなかったほどの専門化の過程に差しかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続くであろうという事実である。こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。‥‥われわれも時折やることだが、およそ隣接領域の縄張りを侵すような仕事には、一種のあきらめが必要である(ウェーバー,2007,21)。

 

2.有意義な結果には「思いつき」が必要である。

 

 学問には、専門とそれにかける情熱が必要だが、しかし、それだけではまだ不足である。この二つに加えて必要なものは偶然である。それは運命ともいえるもので、いわば僥倖が必要であるとウェーバーはいう。

 

 いかに情熱があり、またそれがいかに深くかつ純なものであっても、だからといって、そこから得られるはずのない結果を無理に得るというわけにはいかない。もちろん、情熱はいわゆる「霊感」を生みだす地盤であり、そして「霊感」は学者にとって決定的なものである。‥‥実験室でもまた工場でも、なにか有意義な結果を出すためには、いつもある──しかもその場に適した──思いつき(・・・・)を必要とするのである(前出23)。

 

 思いつきは作業の役をつとめるわけにはいかない。しかし、他方では作業が思いつきのかわりをしたり、またこれを強いたりすることも不可能である。同様に、情熱だけで思いつきを生み出すこともできない。作業と情熱とが──そしてとくにこの両者が合体(・・)することによって──思いつきをさそいだすのである。(前出25)

 

 学問上の着想や「思いつき」というものは集中して作業しているときよりも、むしろ机を離れた場のくつろぎや散歩している時など、思いもよらないところで得られることが多い。地道な作業を怠っては「思いつき」は得られないが、しかしどんなに作業を重ねてもそれで学問上の着想を生み出すことはできない。よい「思いつき」に恵まれるというのは、ひとつの幸運である。だから学問の世界において成功を収めるためには、「(ザッ)()に仕える」(前出27)ことと情熱とが必要であるけれども、その上で「僥倖」がその結果を左右する。

 

3.学問がもたらす積極的寄与には3点ある。

 

 「学問はいったい個々人の実際生活にたしてどのような積極的寄与をもたらすであろうか、と」(前出61)、ウェーバーは問う。そして、学問は以下の3点に寄与するという。

 

 第1に、学問がもたらしてくれるものは、技術についての知識である。つまり「実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか、についての知識である」(前出61)。しかし、これだけでは野菜売りの女にすぎない。

 

 第2に、学問は「物事の考え方、およびそのための用具と訓練がそれである」(前出61)。だがそれは、まだ野菜を手に入れるための手段であって、これではまだ不足だと指摘する。

 

 第3に、学問は「明確さ(・・・)ということに諸君を導くことができる」(前出61)という。どのような明確さか。たとえば、ある社会的な問題に関して、自らの価値判断で特定の立場を取るとすれば、自らが設定する目的に対応する最適な手段を判断しなければならない。その際に、学問的経験が、それらを考える助けになる。目的の実現にとっては最適の手段でも、実行すれば、多くの負の帰結が伴うという懸念があっても、その目的と手段との連関が正当化できるか否かを考察しなければならない。自らの目的を帰結という視点から見直すことも求められる。学問は、こうした点において「明確さ」を与える力となるものである(仲正,2014,229参照)。

 

4.学問上の業績は時代遅れの宿命の下におかれ、学問の進歩は主知主義的合理化の過程の一部である。

 

 真に達成している芸術作品とは異なり、学問はいつか時代遅れになる。学問上の実績はつねに後からくる他の仕事によって凌駕される。この進歩はとどまることなく無限に続くものであり、学問上の仕事に共通する運命であるとウェーバーはいう。そして、それ故に彼は、次のような問題を提起する。

 

 われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。かくて、われわれはここで学問の意義(・・)()どこ(・・)()ある(・・)かという問題に当面する。‥‥事実上終わりというものをもたず、またもつことのできないような事柄に、人はなぜ従事するのであろうか(ウェーバー,2007,30-31)。

 

 ウェーバーはこの問いを考察する。「それは実践上の、あるいは広義における技術上の諸目的のため」(前出31)であり、「学問上の経験が教えるところによって実際生活におけるわれわれの行為を期待された方向に導くためである」(前出31)と述べる。

 

 「学問の進歩は、元来、人類が何千年来それに従ってきた合理化の過程の一部、いな、それのもっとも主要なる部分をなすもの」(前出31-32)であり、学問の意味を問うということは、学問という営みをその生活活動の重要な一部として抱え込み、それを原動力に進歩してきた人類の歩みそのものにいかなる意味があるか、を問うことでもある。それには学問の進歩がその重要な一部をなす「技術による主知主義的合理化」(前出32)の意義を明らかにすることであった。ウェーバーは「主知主義的合理化」というのは、人々が生活条件についての一般的知識を持っていることではなく、電車の仕組みを知らなくても、不便を感じることはなく、予測できれば問題が生じることはないとして、次のように述べている。

 

 それゆえ、主知化し合理化しているということは、それだけたくさん自分の生活条件に関する一般的知識をもっているということではない(・・)のである。

 それは、もっとほかのことを意味する。つまり、それを欲し(・・)さえ(・・)すれば(・・・)、どんなことでもつねに学び知ることができる(・・・)ということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいているという道理がないということ、むしろすべての事柄は原則上予測(・・)によって()()まま(・・)()なる(・・)ということ、──このことを知っている、あるいは信じているというのが、主知化しまた合理化しているということの意味なのである。ところで、このことは魔法からの世界解放(エントツアウベルンク・デア・ウエルト)ということにほかならない。こんにち、われわれはもはやこうした神秘的な力を信じた未開人のように呪術に訴えて精霊を鎮めたり、祈ったりする必要はない。技術と予測がそのかわりをつとめるのである。そして、なによりもまずこのことが合理化の意味にほかならない(前出33)。   

      

 主知化しまた合理化しているということは、必ずしも人々が一般的な知識が増えていくということではなく、世界の事象は合理的にすべて説明し理解することができる、という確信が深く、大きくなり、「世界を動かしている法則を知ることが可能である」(仲正,2014,222)という信念を人々が共有することこそが「魔法からの世界解放(エントツアウベルンク・デア・ウエルト)」の本質である。そうした信念は、世界の背後に精霊・悪霊その他の非合理的で神秘的な諸力がはたらいているというような呪術のような信仰を取り除くことになり、そのために中心的な役割を学問が果たすことになる。

 

Ⅱ 社会科学上の意義と限界  

 

1.本書の意義

 

 本書には、前述した学問の職分の他に、経済的意味の職業(生計の資を得る道としての学問の現状について)、職業としての学問について(特に教師及び研究者がとるべき心構え)などが述べられている。第一次大戦後の混迷するドイツの学生たちに、体験ではなく認識を、指導者を欲するのではなく教師を、そして学問と政策の峻別を説き、「(ザッ)()に仕える」(ウェーバー,2007,27)ことの大切さを強調するウェーバーの講演は、現代に生きる者への叱咤激励と学問への指針といえるものである。

 

2.限界

 

 限界とはいえないが「専門に閉じこもる」ことや「学問はいつか時代遅れになる」との見方は、学問に対してあまりに“裁断しすぎる”のではないかと感じた。今日、専門分野を究める上でリベラルアーツが重視されているし、また、時代遅れの学問のなかにも、業績に至る思考や実験のプロセスから次代に繋がる糧をみつけることができるからである。

 

 日本における社会科学の二大潮流であるウェーバーとマルクスは、とくに対立的にとらえられることが多い。マルクスは唯物史観に立ち、歴史には発展法則があるとして、社会の下部構造(生産関係の在り方)が政治・経済・文化などを決定することを説いた。これに対し、ウェーバは西洋の資本主義の発展におけるプロテスタント倫理(勤労や倹約を奨励)や法整備に注目し、経済発展に対する文化的・政治的な影響を強調した。二人には「イデオロギー的・方法論的な対立点だけでなく、時代的地平を異にしながらも、両者を共通して貫いている批判精神のあり方」(徳永,2014,16)がある。双方の主張をたたかわせながらも、その批判精神を現代の視点から問い直すことが重要である。

 

<文献表>

・   マックス・ウェーバー、尾高邦雄訳 『職業としての学問』岩波書店 2007

・   仲正昌樹『マックス・ウェーバーを読む』 講談社 2014

・   徳永 恂、 厚東 洋輔 編『人間ウェーバー』有斐閣 2014

 

<参考文献>

・   牧野雅彦『学者の識分』 慧文社 2006