本日は久慈が東建ハウジングを設立した話を紹介します。
昭和48年頃、戦後順調に成長してきた日本経済ですが、第一次オイルショックによって建築業界も大きなダメージを受けることになります。
全国年間約200万戸あった新築着工数が約160万戸にまで激減。また建築スタイルにも変化がありました。
従来は家を建てるというと、職人さんが一つ一つの木材を組み上げ形にしていく施工が主流でした。しかし、当時はセキスイハイムなどの工業化住宅が頭角を表し始めていた時期でした。
全国年間約200万戸あった新築着工数が約160万戸にまで激減。また建築スタイルにも変化がありました。
従来は家を建てるというと、職人さんが一つ一つの木材を組み上げ形にしていく施工が主流でした。しかし、当時はセキスイハイムなどの工業化住宅が頭角を表し始めていた時期でした。
不景気の煽りと業界におけるライバルの出現を予期した久慈は、「自営業者は今後組織化された中でやっていかなければ生き残れない」と確信。
久慈は、束ねるすべての自営業者に安定した仕事を供給するために約7億円(現在では約30億円)規模の企業を作るという壮大な構想を抱きました。
久慈は、束ねるすべての自営業者に安定した仕事を供給するために約7億円(現在では約30億円)規模の企業を作るという壮大な構想を抱きました。
そして久慈は、個々で存在している自営業者を束ね、建築業における全ての施工を一斉に請け負うことができる組織、東建ハウジングを資本金500万円で設立します。
そのような熱意もあり、当初は協同組合や久慈の意見に賛同した人々から紹介してもらった仕事が多かったと言います。
そのような熱意もあり、当初は協同組合や久慈の意見に賛同した人々から紹介してもらった仕事が多かったと言います。
売上は初年度で1億6000万円になりました。ところが、事務所の賃料や光熱費をはじめとする販管費がかさみ最終損益は赤字。この時、久慈は企業経営の難しさを実感したといいます。
次回は“オールインワン”という概念のもと設立された、東建ハウジングの仕事について紹介していきます。
