本日は久慈が26歳で独立起業した久慈工業について紹介しています。
久慈が左官業で独立したのは26歳。
今でこそ若くして起業する人も多いですが、当時は非常に珍しかったようです。
久慈は個人で営業から施工まで全てをこなしながら、大きな案件は他の大工さんと協業で行い仕事を軌道に乗せていきました。
今でこそ若くして起業する人も多いですが、当時は非常に珍しかったようです。
久慈は個人で営業から施工まで全てをこなしながら、大きな案件は他の大工さんと協業で行い仕事を軌道に乗せていきました。
また、以前から取り組んでいた労働問題の運動に関しても積極的に参加し、自営業として個人の仕事を行う傍ら、団体の組織作りや人とのコミュニケーションを学んだと言います。
さらに、その労働組合の組織作りを通して、物事を動かす楽しさを知り、マネジメントスキルも自然に身についたと言います。
さらに、その労働組合の組織作りを通して、物事を動かす楽しさを知り、マネジメントスキルも自然に身についたと言います。
昭和44年には東京土建という職人組合の支部を作るということで狛江に移り住むことになります。
当初60人で開始した狛江支部も350人まで増加。しかしこの時、建築業界は新築戸建数の減少により不景気の気配を漂わせていました。
久慈はそのような業界のピンチを見据え、12年間行ってきた左官業の個人事業から、自らがリーダーとして仲間内を集め年商7億円規模(現在だと約30億円規模)の法人設立を計画していました。
当初60人で開始した狛江支部も350人まで増加。しかしこの時、建築業界は新築戸建数の減少により不景気の気配を漂わせていました。
久慈はそのような業界のピンチを見据え、12年間行ってきた左官業の個人事業から、自らがリーダーとして仲間内を集め年商7億円規模(現在だと約30億円規模)の法人設立を計画していました。
次回は、久慈が弊社、東建ハウジングを設立した話について紹介していきます。
