はい、今回は「ぐるっと東葛」我孫子編です(^-^)/。
かつては「北の鎌倉」と称され、志賀直哉や武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチなど多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持ったことで多くの文化・歴史スポットが点在している歴史ある我孫子。
今回はその我孫子市の東側に位置し、江戸時代から利根川の水運で栄えた河岸の町、布佐地区を巡ってみたいと思います。
JR成田線布佐駅の東口です。
ここからスタートして布佐のマチを巡ってみます。古くから水運で栄えたこともあり、駅東口側の利根川沿いに並行して走る成田街道(国道356号線)沿いを中心に古い建物が点在しているエリアです。
まずは布佐の歴史を語るうえで欠かせない「鮮魚(なま)街道」。
まず最初にその起点となる網代場・布佐河岸跡を訪れてみます。
駅前の通りを右に進み、一つ目の交差点を左折して利根川方面に進みます。この道はかつて江戸時代に鮮魚(なま)街道と呼ばれた道です。
江戸時代に鹿島灘、九十九里、霞ヶ浦などで水揚げされた鮮魚は「なま舟」と呼ばれる船中に生魚を入れる生簀を持った船に載せられて銚子を出発。利根川を上りここ布佐の「網代場」で陸揚げをされました。
陸揚げされた鮮魚は馬に積み替えられ鮮魚街道にて松戸まで陸送され、松戸から再び船に載せられ江戸の日本橋の魚市場に運ばれていたそうです。
鮮魚街道のルートは我孫子市布佐→白井市平塚→柏市藤ヶ谷(旧・沼南町)→松戸市金ヶ作陣屋(現在の八柱付近)→松戸宿(現在の松戸市街)の河岸に至る約30㎞の行程。銚子を出て3日目には日本橋の朝市に間に合ったと言われています。
夏季には船で関宿を経由して運ばれたり、隣の木下からも行徳を経由して運ばれましたが、距離の関係上もあってかこの布佐~松戸ルートが主に使われていたようです。
国道356号を渡り、利根川堤防のすぐ袂の住宅街の一角に「布佐観音堂」があります。
鮮魚街道で運ばれた魚の量は一日に4000籠、150頭もの馬で陸送したと言われ、17世紀末の元禄年間に問屋と馬主がこれらの馬の慰霊に建立されたと言われています。本尊は馬頭観音で相馬霊場58番の札所となっています。
明治3年(1870)に利根川堤防の決壊によりお堂が流失してしまい、現在の建物は大正3年(1913)に再建されたもの。
このお堂から再び鮮魚街道を見てみます。
そして利根川の堤防を登ってみます。現在は利根水郷ラインのバイパスが走っています。
このあたりが陸揚げされる布佐河岸があった所でしょう。ここはまた布川鮭の網場でもありました。
この辺りはお隣印西市との市境も近く、成田街道沿いには古い街道筋らしい建物が点在します。
国道356号を再び我孫子方向に戻り、大きいスーパー、ナリタヤさんを過ぎると左手に「近隣センターふさの風」というきれいな建物が見えてきます。
ここは我孫子・布佐出身の理学博士で戦前の中央気象台長・岡田武松の邸宅の跡地に平成20年11月に完成した近隣センター。先日放送されたJ:COMの「東葛調査隊」の番組でも紹介されていましたね。
施設には多目的ホールや調理室、和室、会議室などがありロビーには岡田武松氏の資料が展示されています。
岡田氏は明治8年(1874)布佐生まれ。
明治・大正時代の気象観測のシステムはまだまだ初歩的なものでしたが、その後の我が国の気象予報制度の発展に貢献、活躍した我孫子の偉人の一人です。
明治44年(1911)に発表した「梅雨論」で理学博士となり、大正13年(1924)にはこれらの研究で英国王立気象学会から「サイモンズ賞」を受賞。日本海海戦時に「天気晴朗なるも波高かるべし」と予報するなど数々の功績が。
また岡田氏は昭和24年(1949)に文化勲章も授章しています。
その他にも中央気象台長として布佐気象送信所誘致にも尽力。
昭和14年から平成11年まで中央気象台布佐出張所(気象送信所)が設置され、日本の気象観測に大きな役割を果たしました。現在跡地は気象台記念公園となっています。
我孫子「我孫子市近隣センターふさの風」
http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/21,44094,41,862,html
成田街道の道路を挟んで岡田武松の邸宅の跡地の斜向かいに松岡邸があります。
ここは日本民俗学者柳田国男の長兄で医師であった松岡鼎(かなえ)の家で、柳田国男が一時期住んでいたことがあるそうです。
柳田氏は明治8年(1875)兵庫県生まれで13歳の明治22年(1889)歳の時、茨城県布川町へ越し、2年後にこの布佐に転居をしています。友人の田山花袋や島崎藤村らも訪ずれていたそうです。
当然岡田氏との交流もありました。
敷地内は非公開となっています。
次は成田街道をさらに我孫子方向に進むと右手に「延命寺」というお寺が見えてきます。
創建は文禄2年(1593)。本尊は虚空蔵(こくうぞう)菩薩。相馬霊場24番の札所です。
明治40年(1907)、住職の名に因む「俊雄水(しゅんゆうすい)」(目薬) 「シュンユウサン」(解熱剤)を頒布。お堂の扁額「虚空蔵菩薩」は頭山満(とうやまみつる)の書。明治6年(1873)刀寧(とね)小学校を開設。
墓地には岡田武松の墓があります。
我孫子「求宝山延命寺」
延命寺の斜向かいにある布佐愛宕八坂神社にも立ち寄ってみます。
この布佐愛宕八坂神社は、お隣利根町にある蛟蝄神社と由縁があるといわれ、大宝3年(703)の創建と伝えられる古い神社です。東方にあった牛頭天王社(八坂神社)を合祀したといわれています。
さらに成田街道を我孫子方面に進むと右手にNTTの電話交換センタの建物がありますが、左手の布佐小学校の細い路地の入口に「宮ノ森公園」の看板が出てきます。
とてもこの先に公園があるとは思えない通学路の路地を入り、住宅街の細い道を下るとその公園の入口が見えてきます。
以前にも何回か訪れたことのある宮ノ森公園です。
この宮ノ森公園は丘陵と成田線沿いの谷津を生かした自然豊かな素晴らしい公園です。
正門から入ったエリアは大きな滑り台など遊具がそろう普通の公園ですが、その先のエリアは別世界。
とても豊かな自然が広がり、その景観がとても美しく、初めて訪れたときは、こんないい公園があるなんて…というくらい穴場的な雰囲気に驚いたのを覚えています。
この日は園内の新緑が美しく、とても癒されます。
園内の遊歩道を奥へ奥へと進みます。遊歩道の隣にはJR成田線が並行して走っています。
そのまま公園の反対側の端へと進み、一端、住宅街へ出て左に進むと「竹内神社」の鳥居が見えてきます。
この竹内神社は布佐の鎮守の神社で、祭神は天之迦具土命(あめのかぐつちのみこと)。
文禄2年(1592)に布佐村の森田左右衛門が畑で麦の刈りとりをしていたところ、急に雷雨となったため、刈りとった麦を積み翌日行ってみると、一夜にして竹が生え、白蛇がとぐろを巻いていたそうです。
行者が愛宕神社に祈ったところ「武内神社を此の地に移せ」との神託を受け、武内社をこの地に遷座。享保21年(1736)に正一位竹内大明神の神位を受け社号を竹内神社と改めたといわれています。
9月中旬の3日間に行われる祭礼は、御輿と五基の山車が町内を練り回る賑やかな祭礼として知られています。
文政10年(1827)年に建立された竹内神社鳥居です。
境内までは50段あまりの急な石段を登りますが、登りきると整然とした社殿が目の前に現れます。
境内には柳田國男と地元文化人による日露戦争を記念した英文の日露戦争記念碑があります。
明治38年(1905)に日露戦争での旅順陥落を記念して、境内に桜の木500本を寄付した際に建てられた記念碑だそうです。柳田国男の名が刻まれていますね。
境内脇と布佐小学校の校庭の間に再び宮ノ森公園に向かう斜面の道があります。
ここから再び宮ノ森公園に戻り公園内を散策します。
そこには再び豊かな緑に囲まれた静かな空間が広がっていました。
我孫子「竹内神社」
最後にJR成田線を跨いで手賀沼方向にある布佐の郊外、相島新田にある「旧井上家住宅」に向かいます。
享保期(1716~)に徳川8代将軍吉宗は享保の改革を行ない、その政策の一事業として手賀沼の干拓による新田開発が行なわれました。
井上家(4代目佐次兵衛)は井沢弥惣兵衛らの手賀沼新田開発に江戸の商家をたたんで参入。その中心的な役割を担って相島新田を開き代々名主として巧を上げました。
特に9代目佐次兵衛は理財のあった人物として手賀沼周辺の豪農として知られていたそうです。
現存する母屋や表門を建設したのも9代目佐次兵衛で、いかにも上層農家らしい邸宅がよく保存されています。
この旧井上家住宅は以前は相島芸術文化村として、芸術・文化活動の拠点として活用されていましたが、2年ほど前に我孫子市に施設を寄贈。現在は我孫子市教育委員会が管理・運営をしています。
布佐下通りに面した表門です。
江戸時代末期に作られた木造の門。薬医門と呼ばれる格式の高い形式のものです。
旧井上家住宅は国の有形登録文化財の指定を受けています。
門をくぐると正面の大きい母屋が目に入ります。
この母屋は江戸時代末期に建築され、茅葺型鉄板葺の屋根に格式ある唐破風の大玄関を持つのが特徴です。
土間までしか入ることができませんが、太い梁がある内部はいかにも江戸商人らしい作りとなっています。
土間の展示物の数々
襖絵があり、奥には大きな金庫も見えます。葵巴の入った大きな長持も置いてあります。
いかにも豪農といった感じがしますね。
隣の釜屋は普通に入ることができます。シルバーのガイドさんが案内をしてくださいました。
母屋の右手にある建物は漉場(こしば)と呼ばれ大正11年に建築されたもの。
油の漉し場と男衆の仕事場・宿舎として使用されていたそうです。今はガイドさんがここで待機をしていて、訪れた人たちに説明をしていました。
二番土蔵は江戸末期の建築で、典型的な土蔵造り。補修か、保護の為なのか仮設の屋根が取り付けられています。ガイドさんの話によると修繕にはかなりの予算が必要だとか。
その南側隣に新土蔵が並びます。こちらは昭和初期に作られたものだそうです。
入り口から内部が見られるようになっており、内側は木軸で外壁はモルタル塗りの構造。明らかに新しい作りとなっています。
母屋の南側には庭園があり、庭門をくぐって中に入ってみます。庭園はごく普通の庭園です。
素晴らしいですね井上家住宅。元は江戸の商家で幕府の事業を行っていたこともあり、豪農とはいえ普通の民家らしくない特徴と格式を感じる造りとなっていました。
我孫子「旧井上家住宅」
我孫子市相島新田1番地 (入場無料)
公開時間:午前9時~午後4時
※入場は午後3時30分まで
閉館日:月曜日、年末年始
※月曜日が祝日の場合は次の平日
相島新田、この先には手賀沼。
遠くには千葉ニュータウンが見えます。
ここで、今回の布佐の散策は終了です。
東葛エリアの中でこんなに近いのに歴史と自然を感じながらちょっとした小旅行気分が味わえるとてもいい場所でした。
初夏の爽やかな風に吹かれながら、それぞれの時代に思いを馳せる事ができるスポットが点在。
また違う季節に訪れてみたいと思います。
ぐるっと東葛、我孫子編でした(^-^)/。