「働かざる者、食うべからず」
https://note.com/aries_sunrise/n/n9c923d70705f
語源は多いが、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節が知られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8D%E3%81%8B%E3%81%96%E3%82%8B%E8%80%85%E9%A3%9F%E3%81%86%E3%81%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%9A
日本国憲法には、国民の三大義務として、①納税 ②労働 ③教育が掲げられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E3%81%AE%E7%BE%A9%E5%8B%99
これは、本来、「働くことが不可能な事情がある者」には適用されないことになっているのだが、植松聖のように障害者の存在=人生を否定する者たちの、論理的根拠にされることもある。19名を殺害して死刑執行の日を待つ植松聖は、ナチスのT4作戦の意図を継承したともいえるだろう。
私自身、交通事故で肩を複雑骨折して働けない日々が続いたのだが、ブログを公開していると、「働け!」と恫喝的な嫌がらせ発言を繰り返すアカウントがあった。
(自称富士宮市、多摩美大卒 love2mac2002jp/らぶらぶMAC FC2ブログに送った免許証コピーに萩敦彦と書かれていたそうだが、該当者が存在せず、文書偽造犯罪)
私を誹謗中傷する人たちに共通するのは、徹底的に自分を隠すことで、絶対に自分の個人情報を明らかにせず、泥棒のようにこそこそと隠れて闇の中から嫌がらせを重ねることだ。
こういう人物が、障害者に対して、「働かざる者、食うべからず」と主張するのだ。
そして、竹中平蔵のように、「年金を廃止して、90歳まで働け」と強要してくる。
https://lite-ra.com/2019/10/post-5043.html
障害者に対して、「生きている価値がない」かのように主張する者たちの大半も、こそこそと身元を隠して暗闇のなかから声を上げることしかできない。
たまに勘違いして、麻生太郎のように「老人は無駄金を使って、お国のためにならないから早く死ね」と公然と言ってしまうと、世界中から非難を浴びることになる。
(麻生はドワンゴの経営者なので、あらゆる動画を消してしまった)
https://ameblo.jp/iketora2736/entry-11454406996.html
だが、働けない障害者、老人、子供たちは、社会にとって無益、無駄な存在かというと、決してそうではない。
こうした「社会的弱者」が一緒に生活していることで、人々は「優しい心」を持つことができるようになり、社会が優しさを必要とするときに、それが大きな意味を持ってくる。
もしも、弱者を「社会のため」という理由で否定するなら、それは自分の子供たちと、弱者になった自分の老後、事故や病気で障害者になったときの自分をも否定することになり、自分で自分を社会から追放することになる。
弱者になった自分を許せなくなるのだ。
たとえ、働けなくとも、意味のある人生を送ることができる。私は、ネットに情報を送ることで、自分の人生に存在理由を見いだしている。
本当は、とても不確かなもので、ホンネとしては路線バスの運転手でもしていたいのだが、少ない年金があるので、たぶんブログを遺すことの方が重要だと信じて毎日書いている。
「働かざる者、食うべからず」という思想の行き着く先には、T4作戦と障害者断種=優生保護法があると、この十数年書き続けている。
私のブログも、みんなが常識的に理解できるものではないのだが、T4作戦が存在した事実を、少しでも多くの人が知っていただけるだけで私は達成感がある。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828744.html
T4作戦とは、1940年前後、ナチスが、「障害者は国にとって有害無益の存在」と決めつけて、40万人の遺伝障害者、らい結核患者、身体障害者、精神障害者らをガス室に送り込んで殺戮した事件だ。
https://archive.md/4sbXO
これは、同時並行で、ユダヤ人600万人のホロコーストがあったので、その影に隠れて、まだ世界に大きく知られていない。
自分の甥が殺された事実を知ったヒトラーが、これを停止したといわれる。
ファッシズムと優生保護 2017年02月25日
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828401.html
日本のT4作戦 2018年09月28日
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828186.html
ここまでは、事情があって働けない人を攻撃することが、どれほど愚かなことかを説明したかった。
だが、それでは、一生懸命働くことに、どんな意味があるのか、命令や社会的圧力に従って働くことに、どんな意味があるのかについて考えてみたい。
資本主義の金儲けメカニズムが存在しない社会で、我々が本当に必要なものはどれくらいなのか? についてきちんと考えている人は非常に少ない。
たとえば、家賃とか食品、とか衣料品には、資本主義経済による金儲け利益が乗っている。それが、どの程度のものなのか?
つまり、資本主義による搾取がない場合、我々は、どれだけ労働をすれば生きてゆけるのか?
ネット上を調べてみても、搾取のメカニズムについて説明しているサイトでも、きちんと計算しているデータは見当たらない。
https://okane-madoguchi.com/capitalism-exploitation-get-out/
はっきりしたデータは確認できないが、私が若い頃調べた試算では、現在週五日労働を強いられている労働者が、同等の生活水準で搾取がなければ、週2~3日程度働けば十分だという資料を見た記憶がある。
残りは資本家が吸い上げてゆくわけだ。それが世界中の投機、投資マネー、つまり金融博打に使われて、虚構経済を作っている。また、それが戦争を引き起こしている。
搾取がない場合の内容は、食料生産のために週一日、住処や衣類生産のために週一日というところだ。
だが、資本主義は金儲けが至上命題なので、どんどん合理化・効率化を繰り返し、搾取のせいで生産性が大きく高まるという面もある。
もしも、搾取がなければ、合理化、効率化の必要もなくなるので、生産性は悪化するにちがいない。
西欧的な資本主義の合理化思想では、生産性が第一義に問題にされる。これに対し、職人国家の伝統を持つ日本では、「人々に満足と幸せをもたらす」職人的満足が重視される。だから三井高利のような「三方よし」思想が登場してくる。
https://nbc.ieflea.market/2055/
まあ、日本社会は資本主義による効率化一辺倒ではなく、職人的満足を遺した社会でもあった。その結実が、トヨタのハイブリッドやスズキアルトという芸術的商品だと私は思う。
職人的芸術の最高峰は、東芝創業者の田中久重かもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B9%85%E9%87%8D
職人社会である日本は、資本主義国家群のなかでも別格なのだが、それでも、搾取のない場合、人々が普通の生活を送るのに必要な労働日数は、週2~3日である。
だから、もしこれから第三次世界大戦で、世界の虚構経済が根底から崩壊し、わずかに生き残った人々が産み出す「搾取のない」社会では、週2日を自分のために、週一日を社会のために、残りは人生と健康のために過ごせば良いことになる。
新しい社会では、竹中平蔵のように90歳まで働かせる権力者は出てこない。もちろん竹中に薫陶され、「年金は80歳から」と表明した小泉進次郎も必要がない。
戦争後は、たくさんの弱者が産み出されるだろうが、弱者も強者も手を取り合い、助け合って生き抜く社会になるだろう。
だいたい、縄文、弥生時代のライフスタイルに戻るのではないかと予想している。
世界大殺戮後の新しい社会では、たぶん物質的欲求よりも、精神的欲求が圧倒的に重視されると思う。
モノではなく心の社会がやってくる。もう金儲けや他人を見下す競争意識など、存在理由がない。
人々は、他人の笑顔だけを心の拠り所として生きようとするのだ。
なんで、こんなことを書いているのかというと、中東情勢を見ていると、もうハルマゲドンが目の前に迫ってきていて、世界中が戦火に包まれて、大半の人々が生きられない可能性が強いと思わざるを得ないからだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%B2%E3%83%89%E3%83%B3
もう資本主義が人類の生殺与奪を握る社会が終わりに近づいている。
人々は「金を儲けて他人を見下す」という価値観から自由になる。最低限、生きるだけで必死になり、生きていることの本当の意味は、「他人の笑顔を見ること」だと知るようになる。
そんな時代が、かつて日本にもあった。1945年の敗戦後だ。それから20年間の日本社会は、生活はひどく貧しかったが、心は極楽だったかもしれない。
みんなが、他人の笑顔を心の拠りどころにして生きていたからだ。
我々は肉体を失うかもしれないが、心配しなくてもいい。心=魂は、いくらでも再生する。再び新しい肉体を得て、究極の真理を獲得するための人生を始めるのだ。
これが輪廻転生の本質であり、それは因果応報の原理によって定められる。
死を恐れる必要はない。次の人生が待っているからだ。
それは、人生のカルマを少しずつ還してゆく人生だ。私自身も恥ずかしい、この人生での失敗を、次の人生で回復したいと熱望している。