男の結婚観
前も書いたかな。結婚観について。
結婚してないからわかんねぇんだろ、という批判は言ってくれるな。
政治批判をして、じゃあお前が政治家になれよ!と言う、あの頭の悪い返しと同じ性質の批判だから。
【本文】
結婚って、男子にとってはあまりしたいものじゃない。
正確には、したいものじゃ『なくなった』。
昔は、そう思わせない工夫があった。
その一つが、亭主関白だった。文化全体で、父権を担保していた。みんなで父に権力があるという夢をみていた。
なぜか??
父親にそもそも権力がないからだ。
お金といっしょだ。お金は紙切れだ。だから、文化全体で、お金に価値があるという夢をみる。
さて、さだまさしの、関白宣言をご存知だろうか?これは、実質、関白宣言などではない。
父権の衰退を感じたさだまさしが、それを嘆いた歌だ。歌詞をよくみてほしい。これがリリースしたのがなんと、1979年。
おいおい、嘘だろ?
なんとだいたい40年前じゃないですか。もうその頃から、父親の権力はなくなっていった…!
結婚すると、父親に絶対的な権力が与えられる。そんな夢もなくなった。いまや、完全にない。
父親は、母親のアシスタントとしての地位しか認められないような家庭も多いときく。
給与もいまや女性とどっこいどっこいだ。
さて、ここに男たちの結婚への憧れはあるのだろうか??
結婚しなければ、どうか?
一人で稼いだお金を使う。
契約に縛られないから、ゲス不倫だと騒がられることもない。
正直いって、結婚のメリットとデメリットの単純比較では、いまやデメリットの方が大きいと言わざるをえない。
それを直感している男たちは、なるべく結婚しないのではないか。
ぼくの周りの友達は、結婚しなきゃいけないから付き合うのがめんどくさいというやつもいる。このご時世、それは実に合理的な考えだと言わざるをえない。
結婚問題は非常におもしろい。この問題は、頭の引き出しにしまい、ときどき取り出してきては考えている。もう少し、しまっておこうと思う。
顔をつくる
男としては、昔の方が良かったと言われたらおしまいだ。
シワの一つ一つが味になり、老けるほどにかっこよくなる大人がいる。
その一方で、怒りや妬みで顔が歪み、醜い顔になる老人もいる。
食べ物?筋トレ??肌ケア???
違うだろう。
端的にいうと、生き方が顔にでる。
まだ20代後半。
周りを見渡しても、めっちゃ老けたとか、めっちゃ良い顔立ちになったとか、そういうのはわからない。
単に、会ってないだけかもしれない…なんかごめん。
でも、変化というのはいつでも微々たるものです。
きっと、あと10年もしたら、生き方が顔にでる。
性別問わず若者にかっこいいと言われる大人になることが、大人の責務かもしれない。
一つの生き方を提示できる大人になりたい。
師匠〜〜〜!!!!
人生で最初に、
この人すごい、この人になりたい!
と思ったのは、シャーロックホームズだった。
小学三年生のときか、四年生のときに図書室から借りて本を読んだ。
その次は、諸葛亮孔明だった。
なんかシャーロックホームズに似ているな〜と思う。頭が抜群に切れる。
これは、家にたまたまあった横山光輝さんのマンガ三国志を読んでからだ。
次は、中学のときの部活の顧問の先生だ。神様だと思っていた。ほんとに。
生身の体をもつ人間を師匠にしたのはこれが初めて。
一挙手一投足を観察して、言われたことは忠実に守り、練習した。
高校のときはいなかったが、予備校に通ったときの英語の先生が次の師匠だった。
その先生は、勉強の仕方や大学生になったら本を読め、といったことを教えてくれた。いまでもぼくは憧れている。
もちろん(?)、話し方や文字の書き方も真似をした。
次は、生身の人間ではなくなる。大学時代は、経営者にどハマりしていた。
松下幸之助、藤沢武夫、柳井正。経営者ではないが、福沢諭吉も師匠の一人だったし、坂本龍馬も司馬遼太郎の小説を読み師匠になった。
こんなとき龍馬なら、松下幸之助ならどうするだろう?といろいろと考えていた。
そして、大学院に入り、いまの師匠の先生のもとに落ち着いている。
先生の立ち振る舞い、学問への考え方、人への接し方、ありとあらゆることの価値判断をを委ねている。
ここ5年間はほとんど自分は無。
空っぽの容器にして、中身を詰めている。
何かを学ぶとき、自分は邪魔になる。
シャーロックホームズに始まり、その後連綿とつづく師匠の系譜。
ぼくの周りの人々に師匠とか、憧れる人はいるか?と聞くと、そんな人いな〜い、と返ってくることもある。
ぼくにとっては、これはかなり不思議で、一時期コンプレックスでもあった。
なんか唯我独尊でかっこいい…それに引き換え、おれは他人に憧れてばっかりで…。
いまはそんなふうに思ってはいない。師をもつことで、良い面もあるようだから。つまり…過去のじぶんを捨てて、新しい知識を身につけることができる。
新しい知識なんていらないって人もいるだろうから、そんな人には師匠はいらないかもね。
人の頭の後ろに、音量調節ボタンがあればいい
女の子の小声はかわいいけど、男の小声はイラっとすることがある。
なんだろ、自己中心的なんだ、小声って。
小声を聞き取るのには、エネルギーがかかる。そのエネルギーを相手に支払わせるなんて、気遣いがなっちゃいない(こじつけ)。
よくよく聞いてみると、大したことを言ってない。
それに、『え?なんですか?』って聞き返してると、
もういいです!
的な感じで、急に悪者扱いされる。タチが悪いな、もっとハキハキしゃべってくれ。
でもね、大声でしゃべるやつも、これはこれでウザいんだ。むずかしいところだけど。
大声でしゃべる人は、これもまた自己中心的なんだ。
話を聞くほうには、聞き流す自由もあるのに、大声でしゃべり、リアクションをもとめてくる。こういう人との会話はつづかない。
日本には、良いことわざがある。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
いき過ぎは、やらなさ過ぎと同じくらいヤバイぜ、って意味だ。小声すぎるのも、大声すぎるのもダメだ。何事も真ん中がいい。中国流にいうと、
中庸
か。たいていの人の声はちょうどいい。音量調節が必要なのはごくわずかだが、目立つ。ぼくも声の大きさには配慮したい。
今日は悪夢にうなされた。春は人の気持ちを混乱させる。変態野郎が湧いて出るのも、この季節が一番多い。女性諸君、気をつけろ。男性諸君も理性をもて、気をつけろ。
キャラクター
・キャラクターがその人をきめる
赤の他人と接するときに、ぼくの中から立ち上がってくるキャラクターは端的にいうとガリレオの湯川先生のようなキャラクターである。それは、ぼくの師匠である大学教授の先生のようなキャラクターでもあるし、大学にいる研究仲間のキャラクターでもある。
これから出会う赤の他人とは、そういうキャラ設定で関係を結び続けるだろうと思う。職業というのは、その人を規定する。服。靴。時計。ペン。話のテーマ。立ち居振る舞い。電車の中で何をするのか。部屋で時間があれば何をするのか。漫画のキャラクターといっしょである。『らしさ』を作る。
ぼくの中の湯川的なキャラクター設定は、ここ数年で強化された。間違いなく環境は人を作る。違和感なくじぶんのなかに溶け込んでいる。だから、昔からの友達に会うと、昔のキャラクター設定と今のキャラクター設定が混在する。そして、じぶんのなかで混乱が起こる。それはじぶんでじぶんを観察していて、とても面白い。ちょうど、コーヒーにミルクをたらした時のように、グルグルとジワジワと混じり始める。
先日、高校時の友達に会ったときに強くそれを感じた。『あれ、高校の時のおれベースで話をしてるな』と思った。もちろんあっちも、同じことを思っただろう。お互い『おれは変わったんだぜ!』と思っていたのかもしれない。そう思うとなんだか笑ける。
ちなみに、その彼は、営業マンになっていて、営業マンのような立ち居振る舞いをしていた。初めてあった人の垣根を一気に越えようとする。頭がフル回転していて、相手の一挙手一投足を観察しネタを拾い集め、相手の言動にツッコミを入れながら笑いを取る。それは、営業マンになった別の友達の立ち居振る舞いとまったく同じで、驚いた。こんなにも人間関係の中に、『職業柄』というのが影響を及ぼすのか!と。
・キャラクターとレリゴー
おそらく『本当のじぶん』、『そのままのじぶん』、『ありのままのじぶん』というのは、いくつかあるじぶんのなかに立ちあがってくるキャラの中で、最もじぶんが好きなキャラクターのことなんだろう。それを貫きたい、という世間の願望がlet it goという歌の大ヒットにつながる。
しかし、一つのキャラクターを貫くなんてことは日本に住む限りありえないだろう。その場その場で、『らしく』振舞うことが要求されるし、その『らしく』振舞うことで平穏に暮らしていける。
しかも、その『らしさ』は、じぶんの意思に反してオートマティックに立ち上がってきて、じぶんを規定する。だから、レリゴーレリゴーって歌っても、抗うことはできないだろう。それに、本当のじぶんだって、どっかから取ってきてじぶんなりにすこーし編集したハリボテのキャラクターであるかもしれない。それはわからない。