儚なさについて再考
祇園精舎の鐘の声〜諸行無常の響きあり〜
を中学のころ覚えさせられた。あれは、天下を取ったり、お金持ちになったりした人だって永くはつづかねぇぜ!!って意味だと思ってたし、自分とは関係のないことだと思っていた。
盛者必衰…
春の夜の夢のごとし…
風の前の塵…
鐘の音…
良いこと、幸せなことは永くはつづかない。それはぼく個人にも通底してる法則のようだ。人の無意識だって、自然の一つ。風とか川の流れとか太陽の光とか葉っぱと同じ。どんどんどんどん見えない速度で、ゆっくりゆっくり確実に確実に動き、その様相を変えていく。
その行く末は誰にも分からない。カオス理論とか言い出す前に、昔から祇園精舎の〜って言って真理を伝えてきたのだろう。
幸せなことも楽しいことも続かないなんて、とても虚しい。もちろん不幸なことも続かない。それが唯一の救いだ。
28にして、こんなに惑うとは思わなかった。歳をとるにつれて賢くなっていってると思いきや、逆だった。おそロシア〜
悲しいことと嬉しいことと人との関わり
人付き合いに一度失敗すると、自分に対して自信が持てなくなる。
つまり、嫌われちゃうんじゃないかって思って、発言や行動をどんどんセーブして、相手に寄せるようになってしまう。
そんな自分は誰もが嫌いだから、人と深い付き合いになることを躊躇うようになる。
それだけは避けなきゃな〜と思う。
人はぼくを悩ませたり、苦しめたり、傷つけたりする。独りでいればそんなことはなく、平和に過ごせるだろう。
でもしかしながら、それは砂漠のど真ん中で、水だけ与えられたような生活で、喜びもない。
つまるところ、人との間にしか喜びや楽しみがないのもまた事実なのだ。だから、それを避けるっていう選択肢は取りがちだけど、取ってはならない。
きっと、自分がありのままに自由にいて、その自分を好きになったりしてくれる人はいるし、それを信じ抜くべきだろう。
現に、すごく沢山の人が、芥川の蜘蛛の糸のように、救いの糸を垂らしてくれた。一人に嫌われる悲しさよりも、自分のことを認めてくれる人、好きになってくれる人を信じることだ。
言葉の重みは1g
ベッキー休業かぁ~。どっかで見たことあると思ったら、小保方さんの事件だった。
みんなで決めた道徳のルールを守らないやつは、村八分。その道徳のルールを隣の人が守ってない場合は黙認するけど、人気者には厳しいんだな。
今の所、ぼくは、道徳に勝る言葉を持ち合わせていないから、相手が道徳とか正義を盾に話をしてきた場合には勝てない。
でも、とりあえず、
その道徳とか正義は生まれる前からあるけど、それって本当に正しいの?
と投げかけてみる。
前は、
はっ?もういいです。
って言われた。
どうでもいいけど、他人を糾弾することは、自分の首を絞めることにもつながる。他人とか世間の価値観で生きることを表明したようなものだからだ。これが分かって批判するならすればいいけど、無意識なら、考えた方がいいと思う。明日はわが身。
批判が自分に与える影響
他人の批判とか文句とか言わないほうがいい。
ぼくは道徳的な問題としてそう主張してるわけではない。何より、本人の生き方に制限がかかるからやめたほうがいいと言っている。
他人のことが許せないから、批判をする。他人を批判する人は、そのような行動をする自分をも許せなくなるだろう。結果的に、行動が狭まる。
社会が決めた『正しいこと』と、自分にとっての『正しいこと』にはいつでもギャップがある。そのギャップを感じる度に、
わたしは不自由だ
と思う。そしてその行き場のない感情を、他人や環境のせいにする。有りがちな錯誤である。
社会的に正しい、を盾に他人を批判する人は、自由を放棄している。勝手にすればいいが、批判するときは覚悟を持ってすべし。