引退ブログ⑧鈴木駿宙 | 東北大学学友会硬式野球部

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仙台六大学リーグ所属

@富沢グラウンド

こんにちは。誰からもバトンを受けとっていない鈴木駿宙です。
つい先日、瀬戸君から「順番とかいいから早く引退ブログ提出しろ」という旨のお叱りを学年全体で受けたため、焦りながらこのブログを急ピッチで仕上げています。

そんなブログを書くことに関して怠惰な学年に所属しているのですが、僕は皆のブログを読むことがとても好きです。書かれた文章にはその人の人柄が良く滲み出ています。時にはグラウンドで話すだけでは知り得なかった感情を乗せているブログもあり、その人の新たな一面を知ることができるので読んでいて楽しいです。また、3つ上の藤原さんや2つ上の森谷さんの引退ブログ等はこれぞ文学部という感じの文章でした。この機会に是非様々な引退ブログ、見返してみて下さい。

しかしながら、最近の部員達は慎み深い人が多いようであまり多くを語ろうとしません。とても残念なことです。東大野球部の引退ブログ等と文章量を比較するとその差は明白です。「飛ぶ鳥跡を濁さず」で綺麗かつ短い引退ブログもいいですが、もっと人間味のある自分語り引退ブログも見たいので、僕は精一杯足掻きまくった4年間の思い出を先駆けとしてたらたらと詳細に書こうと思います。ちなみに7000字程度あります。超大作です。全米が流した涙で海面上昇が加速したらしいです。知らんけど。


さて、僕の野球人生において東北大学での4年間は一番辛く、苦しい期間でした。最後の宮城教育大学戦は間違いなく僕の野球人生で最高の一日でしたが、「終わりよければ」なんて言葉では決して済ませられない程、苦痛に満ちた日々だったのです。理由は慢性的な肩の痛みです。

僕は小中高と野球チームの中心選手でした。いつも試合に出続けクリーンナップを打ち、ポジションは投手か捕手。1日に1試合投手として完投して、もう一試合は捕手としてフル出場なんてことも多々ありました。人数が少ない等チーム状況なども要因としてありましたが、肩の強さは間違いなく優秀だったと思います。高2の冬、縁あって早稲田大学の硬式野球部の練習会に参加したとき、「うちの2番手捕手にはなれる」と小宮山監督に言って頂いた、そんなくらいでした。しかし、今思えば幼い頃から肩に負荷をかけすぎてしまったのかもしれません。高校最後の夏は肩の痛みはあったものの、痛み止めを飲みながらなんとか試合に出ていました。しかし、当時は「大学受験中に肩を休めれば治るだろう」と楽観視しあまり深く考えてはいませんでした。

そんな僕は「プロ野球選手になりたい」という希望を持って東北大学に入学しました。「サッカー部と兼部することはできますか」とか入部説明会でぬかしといてほんまかって感じだと思いますが、実際AO3期入学試験の面接でも教授達を前にしてそう言いました。慣れない一人暮らしとオンライン授業が始まった自粛期間は、暇を見つけては八幡の河川敷で素振りやランニング,リフティングをしたものです。そしてようやく8月頃に野球部の活動が再開し正式に入部することができました。肩の痛みは引かないままでしたが、僕にとってこの一年はあまり悲観的なものではありませんでした。打撃を評価して頂いた結果、遠征に参加させて頂いたりリーグ戦にも出場させて頂けたからです。「肩をしっかり治して、来年はレギュラーになる。」そう意気込んでこの頃から通院やリハビリを本格的に始めました。

絶望的な毎日が始まったのもこの頃からです。
ここから引退までの基本的な一日の流れです。
朝7時、右肩に何かが詰まっているような違和感と共に起床。少し動かすと肩関節が「ポキッ」と鳴り今日もまだ治っていないことを確認し失望。
8時、奇跡的にボールを投げるときに痛みが来ないのではという一縷の希望と共に富沢へ。
9~13時、やはり痛いので少しでも痛くない投げ方を模索しながら練習。
練習後、ジムにてトレーニングした後バイト。
就寝前に1時間のリハビリ
明日は治っているのではという希望と共に就寝。
こんな感じでした。

大学2年の時が一番苦しい時期でした。打撃成績は決していいとはいえない(恐らく一年を通して2割5分くらいでリーグ戦は無安打)ものでした。同期の大澤や増山がリーグ戦で活躍する中リーグ戦になかなか出られず、秋リーグに至っては東北福祉大戦の大差で負けている状況の中、代打で1打席を貰い初球の148キロの直球を遊ゴロ。それ以降の出場は無し。肩も治らず、悔しい思いしかしませんでした。「肩が治っていて俺が試合に出てれば・・・」みたいなタラレバ論で自分のチームの試合を見ているのが何より情け無く感じました。いつからそんな過去に縋るような人間になったのか。そんな負の感情をかき消すようにベンチから声を出す他ありませんでした。また、肩をかばいながら動くため最大出力で動けなくなり自分でも分かるほど守備が下手くそになっていきました。素早く動くとスローイングの出力も大きくなり痛みがひどくなるのです。それに加えて、経験と慣れが積めない自分にはもう捕手としての道、間違ってもプロへの道なんて無いと悟りました。
ただ、この悔しさをバネにこの年の冬は自分には打撃しか無いと心血を注ぎました。肩に負担がかかると敬遠していたトレーニングも行ったり、トップを深くしたりなど打撃フォームの改良等様々なことを行いました。全ては「たとえ福祉大相手でも1打席で結果を残せるように。」その一心でした。


大学3年の春リーグが僕にとっては大きな転換点だったように思います。まず、なぜか僕の評価はとんでもなく下がっていたのを記憶しています。明らかに僕より打撃が上手くない選手が初節の東北学院戦でDHや代打で使われる中、僕の出場機会はありませんでした。しかし、僕の調子は打撃改良の結果もあってすこぶる良く、直近の紅白戦などでもしっかりと結果を残していました。第2節は東北福祉大戦。ここで必ず使われることは分かっていたし、ここで結果を残さなければ前リーグと同じように、このリーグ戦でも二度とチャンスは与えられないのだろうということも分かっていました。プレッシャーもすごかったですが、この学院戦から福祉大戦までの一週間は色々な感情が自分の中に渦となって居座っていました。なぜ俺を使わないのかという怒り、去年とは違うところを見せてやろうという武者震いにも似た緊張、そしてもし結果を残せなかったらという恐怖。これ程心穏やかでなかった期間はありません。そしてついに、僕にとっては運命の瞬間がやってきました。第1試合目の4点ビハインドの状況で代打を言い渡されたのです。奇しくも対戦投手は前リーグで遊ゴロに打ち取られた有本投手。どうせ相手がなめてかかってくるも分かっていたし、狙い球は初球ストレートただ一つでした。初球、149キロの外角ストレートを迷わず振り抜きました。少し詰まった感触がありましたが打球はセカンドの頭上を抜けライト前に。リーグ戦初安打でした。僕が大学野球で一番嬉しかった瞬間でもあります。1塁ベースを回りオーバーランをし、ベースに戻ったとき、嬉しさと安堵と興奮、そしてヒットを打つと思われず代走さえ用意されていなかったことに対する少しの失望感がありました。結果、得点には繋がりませんでしたがこの1打で僕のリーグ戦はこれまでとは全く別のものになりました。続く第2・3戦はDHとして、他の試合でも代打の1番手等で出場し、出場機会を大きく増やすことができたのです。しかし、それらの試合では内容は良いものの結果を残すことはできず、昨年までとは違う悔しさを残すリーグ戦でした。

また、待ち望んでいた一日がリーグ戦最終日に訪れました。その日は肩が軽く、閉会式後富沢グラウンドに向かい厳とキャッチボールしてみると昔のようにボールを投げられたのです。久しぶりの幸せな感触でした。全力でボールを投げられるという爽快感を二度と忘れないように何球も投げ込みました。以降、二度とそんな日は訪れませんでしたが神様が一日だけ願いを叶えてくれたかのような、とても幸せな瞬間でした。キャッチボールしてくれた厳、ありがとう。

さて、これまでやってきたことに間違いは無いと確信を得た僕は更に努力を重ねました。トレーニングの重量を増やし、更に左足を上げてタイミングの取り方を変えるなどフォームの改良を重ねました。ここから秋リーグまでのOP戦や七大戦ではレギュラーとして打率3割出塁率4割も達成し自信もより深まっていきました。

しかし、リーグ開幕戦ではスタメン落ちしてしまいました。何がいけなかったのか正直分かりませんでしたが、仙台大戦で代打2打席を貰って死球と三振。福祉大戦ではで左飛と三振。強豪相手に結果を残せずスタメン落ちしてもしょうがない成績でした。最終節の東北工業大学戦で第3戦目に先発出場して先制タイムリーを打つことは出来ましたが、結果的にリーグ全体で6打数1安打。上位校にはまだまだ通用しない、そう実感したリーグでした。

ここから先輩方が引退し、僕は新チームで打撃班の班長を務めさせて頂きました。シンプルに荷が重かったです。自分の打撃が多少周囲から評価され、大切な役割を任せて頂くことは嬉しかったです。しかし、今までその役割を担ってきたのは1つ上の笹渕さん等下級生の頃からチームの中心選手として活躍し、リーグ戦で僕なんか遠く及ばない成績を残してきた人ばかり。今までスタメンにすら固定されず、ついこの間リーグ戦初安打で大喜びしていた僕に務まるのか。自信なんてありませんでした。しかし、やるとなったらやるしかありません。幸いにも打撃班にはリーグベストナインの中丸や杜朗・大橋をはじめとする打撃に対する能力も意識も高い後輩達がいました。彼らを使わない手はありません。「打撃班員はその学年の打撃指導を担当し、選手達の打撃に関する良き相談相手になるように」と新チーム始動ミーティングで通達したりしましたが、効果はどれほどだったでしょうか。行ったことに対する評価方法まで考えておくべきだったと今更ながら後悔しています。僕のところに来た相談は軽めのものから重めのものまで1年間で20~30件程度でしたが、恐らく他の打撃部員達も同じように役割を果たしてくれたかと思います。皆、一年間色々と手伝ってくれて、意見を言ってくれてありがとう。


それと口うるさい老害ですみませんが、僕が打撃班やっていた経験の中で一つだけ増やして欲しい仕事があります。1年を通じた選手個人の打撃成績の記録・管理です。目的は選手を正しく評価すること。僕が1年生のときは行われていたのですが2年生頃から行われなくなってしまい、選手時代の僕が言っても「結果残してないやつがなんか言ってるわ」みたいになると思い、言い出せませんでした。僕は打撃班長になってから皆の打撃状態を把握するため、全試合の攻撃中のビデオは見るようにしていたのですが選手に対するイメージと実際の成績が乖離していることが結構ありました。もうそろそろOP戦も始まる頃かと思います。是非、打率・出塁率・OPSだけでいいので記録してみて下さい。


さて、そんなこんなで僕はコロナウイルスの流行で中止となっていた春季キャンプの再開を担当したり就職活動をしたりとあっという間に時間は過ぎ去って春リーグの開幕を迎えました。この頃が僕の打撃最盛期です。OP戦では19打数9安打。出塁率は5割を超え打席に立つのが楽しくてしょうがない時期でした。大学野球初めてのリーグ開幕スタメンも任せて頂きやってやるぞと奮起していました。しかし、その開幕戦で打撃は良かったもののこの年から挑戦したファーストの守備で2エラー。次戦はスタメン落ちしてしまいその後もズルズルと守備が足を引っ張ってしまいました。2年生で捕手は駄目だと思ったときにファーストに転向してもっと練習しとけば良かったと後悔しています。僕のファーストの守備で迷惑かけた人たちすみません。ただ、そんな中でファーストの守備を教えてくれたおぎちゃんと増茂には本当に感謝しています。ありがとう。森数も送迎とかありがとう。

しかしながら、打撃班長としてはとても嬉しいリーグ戦でした。チームはこのリーグで全チーム最多の6ホームラン。打率・出塁率共に去年の秋リーグよりも向上し、冬練習の成果をほぼ皆が見せてくれました。福祉大・仙台大からも安定して点を取り、工大戦では19得点の試合もありました。4年間でここまで打撃陣が奮起してくれたリーグは初めて見ましたし、素直に嬉しかったです。

春リーグ終了から秋リーグまでもあっという間でした。関東遠征や七大戦、就職活動など忙しく、楽しい日々でした。刻一刻と迫る引退を感じ、皆も富沢での時間を惜しむように練習に励んでいたように感じます。そんな中、この頃になってようやく気づいたことが一つありました。僕は2年生頃からそれまでなぜこんなに苦しい思いをして毎日部活に行くのだろうと時折考えていました。グランドに行けば、肩の痛さで思うように野球ができず、過去の自分を羨んで、そんな自分にまた失望して、今度こそはとまた肩の痛みに耐えてボールを投げる。何故、そんな日々を自ら選択し今日もまた富沢へ向かうのか。様々な回答案を考えました。ただ惰性的なもの案、先日引退ブログでゆうすけが提示したこんなものに負けたくないという自尊心案など、回答案はいくつかありました。そのどれもが確かに要素としてはありましたが、それだけで自分の中で説明つくものではありませんでした。では、何が主たる要因だったのか。僕の答えは富沢での日々から肩の痛みに付随するマイナスの感情以上のプラスの感情を享受していたということです。肩の痛みに勝る同期達との他愛も無い会話、過去に縋る自分への嫌悪感以上の楽しい時間。それが富沢にはありました。こう思わせてくれた野球部の皆、特に同期達には感謝しかありません。今までありがとう。これからも宜しく。


そんなこんなで秋リーグを迎えました。正直に言って大学3年以降一番調子が悪いリーグでした。最終戦以外は。最終戦前日の夜のことです。最終戦の応援に来てくれた母と夜ご飯を共にし、家に帰った僕はどうにかして今日一日で調子を戻さねばと素振りをしていました。しかし、バットを振っても振っても自分の中で納得がいかず、地面に立てたバットを両手で押さえうなだれてしまいました。思えば、大学野球の場において親に活躍を見せてあげられたシーンがあっただろうか。毎リーグ埼玉や東京から応援に来る両親や兄、埼玉と長野など遠くから応援してくれている祖父母等の家族が喜んでくれた瞬間があっただろうか。ああ、そう考えると情け無い。このまま終わってしまうのだろうか。そう思っていたときにそのうなだれていた体勢によって何か背中の筋肉が上手く伸ばされている感覚をふと覚えました。試しに、その体勢でストレッチを軽くしてからバットを振るとバットが軽いことこの上ない。「明日はいける。」そう確信しました。

翌日、福祉大球場で同様のストレッチを入念に行い、試合に臨みました。3打数2安打、初本塁打を含み3打点。守備や走塁でも見せ場を作り、大学野球では間違いなく最高の1試合でした。3つ上の主将である宮下さんの引退ブログで「豪快な一打を期待している」と言って頂きましたが、大分時間がかかってしまいました。同期達の引退ブログでもこの試合の僕の活躍に感動したとの言葉が散見します。僕以上に喜んでくれる同期達がいてどれほど幸せか、とてもじゃないですが表現できません。

また、この試合でこのリーグ無安打の自分を使って頂いた監督には感謝しかありません。多分1年生からベンチ入りしてここまで活躍できなかったのも自分くらいだと思っています。長い間我慢していただき、ありがとうございました。また、最後のミーティングで言われた「この4年間を人生のピークにしてはいけない。これから過ごしていく日々をピークにしていきなさい。」という主旨の言葉を忘れずに過ごしていこうと思います。


家族にも、両親には特に感謝しています。応援してくれてありがとう。育ててくれてありがとう。これからは僕が還元していく番です。出来る範囲で何でも言って下さい。


結局公式戦の成績は約50打席ほどで5安打。四球などを含めても打率は良くて1割ちょっとでしょう。ファーストでのエラー等含めれば目も当てられない成績ですが野球人生の最後にプロ野球選手が輩出されるレベルの高いリーグで野球ができたこと、いい経験だったと思います。

今思い出せる限りで、できるだけ要約して書いてみました。「恐らく、自分の人生で自叙伝的な文章を多くの人に見て頂けるのは最後だろう。」そう思ったら、全部余すこと無く書いておこうと思いかなり長く、真面目な文章になってしまいました。多分、卒論を除けば大学で書いた中で一番の文字数です。

最後に自分や東北大学硬式野球部に関わる全ての人に感謝すると共に、今後益々のご活躍を願い引退ブログとさせて頂きます。


ご精読ありがとうございました。