東北歴史博物館の奥に小さい展示室があります。
けっこうマニアックなモノを展示している事が多いので、
行った時はチェックしています。
今、栗原市にある「入の沢遺跡」を展示しています。
歴史専門家の論文に「蝦夷は火を放つ(放火)習性がある」
と書いてあったのをみて、へー、と思ったのですが、
入の沢遺跡をみると、やっぱりそうなのかなあ、と思った話。
<入の沢遺跡について>
栗原市にある入の沢遺跡は、続縄文文化の人々がいた
国内最北の古墳群と言われ、銅鏡、鉄製品、織物、
赤色顔料(水銀朱)の最北と言われています。
※続縄文文化とは、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀
(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代。
本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、
気候的条件からか水田を作らず縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が、
本州の弥生・古墳文化に並行する続縄文文化である。(wikipedia)
入の沢遺跡は、
古墳時代前期の有力者の居館と祭祀場でした。
土師器
※大きな甕(倉庫に保管されていた)
煮炊たき用に使われる甕が少ないことから祭祀として使われていた?
この場所は栗原市の伊治城跡の側なので、
後の伊治公呰麻呂(これはるのあざまろ)との関連もあるとの事。
ちょうど今が多賀城祭なので、合わせて入の沢遺跡を紹介しているのかな?
その多賀城を焼き討ちしたのは伊治(コレハリ)でした。
コレハリの家臣の末裔という方から聞いた話しでは、
コレハリらは、会津へ逃れたと聞きます。
家臣の出身は近江。(現在の滋賀県)
「石」の名をもつ石工なのです。
会津は蝦夷の範囲ではなかったので関係なかったから、
かくまる所として良かったのでは?という事でした。
さて、この遺跡の謎が「火災」なのです。
突然の火災があったことがわかったのですが、
「意図的に」放火したという。
後片付けがなく、放棄されたままになっており、
火災直前の建物内の様子がわかる貴重な発見となりました。
※赤い所が焼失した竪穴建物。
しかし、焼かれた家が並んで焼失しているわけではなく、
離れた所にも火災があったので、自然発火とも言えず。
よく理由がわかっていない火災なのだそうです。
<鏡を割った謎>
また、もうひとつの謎。
鏡を意図的に割ったものだが、研磨されていること。
遺跡には鏡が割れた状態で出土することは不思議ではないのですが、
「割れた部分がきれいに磨かれている」ことです。
「破鏡(はきょう」とよび、あえて破壊して副葬する風習が
あったと言われます(弥生時代から)
戦いに行く時に酒を交わして皿を割るのと同じように、
「戻ってこないように」するための意味もあります。
詳しいところはわかりませんが、
地方や時代により完全な鏡と割れた鏡が異なる地域があるというので、
地方の集落では割れた鏡を使って副葬していたのか?
しかし、その割れた部分を研磨しているのは、
「大事にしている」意味もあるのでは?
大陸では、夫婦や男女が別れる時に
大事な物を割って片方づつ持たせることがよくあります。
それと同じような意味があれば、興味深いですね。
すると片方の割れた鏡はどこに?
誰かの被葬者に埋葬されていて見つかったらいいよね~。
使いまわしだったら嫌だけど・・・
例:愛知県朝日遺跡から発掘された割れた鏡。
割れた部分は研磨されている。
(弥生時代前期から古墳時代前期)
このような場合、盗難があった説もあるのですが、
墓泥棒ね。
銅地金の再利用のために銅鏡が盗まれることもありました。
しかし、多くは、最初に割られたものを盗んでいる
事が多いので、やはり埋葬する時に割ったものだと思います。
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他にも水晶製の翡翠がきれいでした。
この透明感がいい~。
翡翠製の勾玉
群馬県からきたものと同じ。
これもなかなか味のある色でいんですね~。
古墳文化最北と言われた入の沢遺跡は、
高い防御性を備えた大規模集落だったそうです。
近畿地方の中央政権と関わりをもつ、と考えられ、
土器の出土から工人を連れて来ていたと思います。
コレハリと関わるならば、近江の人々なのかもしれません?
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今、多賀城記念祭なので、蝦夷もざわざわしています。
古い話ですけど、大久保利通が
「眼目ノ教」、すなわち「見て学ぶこと」が、
個人が知識を開き技術を磨くための、
最も近道で、最も易しい方法であると指摘した。
と言っており、欧米にいった使節団が「眼視の力」として
博物館学を提唱していたものです。
「触れずに視るだけで学べ!」ってことです。
相手の弱点、強いところ、その情報を「視る」だけで読みとれ!
ってことですよー。
おしまい~。