gooブログと分けてかこうと思ったのですが、やっぱ大変だし、
アメブロの方が気楽なので、今後はアメブロに書くことにしました。
アメブロなのでシンプルに書こうと思ったけど、無理ね。性格的に。
繋がるんだからしょうがない。

 

さて、前回の続き。

伊豆沼に行った後、前から気になっている人がいたので行ってみました。
と、言っても今は、何もありません。

 


「伊治城跡」

奈良時代後半、栗原郡を中心としていた宮城県北部は、
中央政府より征夷政策という開拓に乗りだします。

 

伊治城は蝦夷征伐の拠点とされ、767年に設置されたとあります。

しかし、蝦夷の族長と言われた「伊治公呰麻呂(これはるのあざまろ)」が、
この地域を治めていた朝廷側:紀広純と、牡鹿郡の道嶋大楯を伊治城で殺害し、
多賀城を放火して焼き討ちしてしまいます。

 

 

これ以後、政府軍VS蝦夷軍の勃発が始まり、
ここから「38年戦争」と言われ、アテルイやモレが後に登場します。

南のコレハル、北のアテルイと言われるほど、エミシの族長として有名な人物です。

「公」とついているので、アテルイもそうですが、朝廷側で公務の仕事をしていた人物でもあります。

 

朝廷から贈られた「~公」の「~」にあてる部分が必ずその人の出身地の地名が用いられることが
習わしとしてあったそうです。

 

私が気になったのは、コレハルもアテルイも、紀氏を討伐していることです。
アテルイは、紀古佐美です。

 

 

紀氏とは、木の国と言われた紀伊国の由来がありますが、(現在の和歌山県)
紀氏は生駒郡がルーツらしい。(奈良県)

 

 

「紀角(きのつの)」という人が祖というのですが、角なんですね。
この話しから、なぜここで勃発したのかは、「ヒタカミ」が関係しているのではないか、
と漠然とですがそう思い、ヒタカミとの関連は何かと言えば・・・

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伊治城跡の次に寄りたかったお寺があったのですが、行く途中に
「前九年の役合戦城」があったのです。
ここで、ヒタカミが気になりました。

 

前九年・後三年の役は、阿部氏、奥州藤原氏、源氏のドロドロ合戦みたいな感じです。
舞台は岩手県だと思っていたので、宮城県にその合戦場があったとは知りませんでした。

 

しかし、実際来てみると、合戦場として激しく争った痕跡を感じません。

看板の説明より、このあたりで藤原氏が野営していたところ何者かに襲撃され、

阿部貞任の仕業にされますが、源頼義がかばったという。

 

ところで、考えてみると、この場所の地名は「志波姫」なのです。

 この丘が気になる。

 


1889年、姫郷、白幡、梅崎が合併して志波姫に。
町名の由来は、「志波姫神社」にあります。

 

※紫波姫神社(栗原)

栗原の志波姫神社の祭神は、現在「コノハナサクヤヒメになっています。
由緒は、795年~801年創建と言われるのでコレハルの乱より少し後です。
元はお社はなく「道祖神」としての「塞神」であったようです
もとは「伊豆野権現社」といい、伊豆沼と関係しています。

 

伊豆とは、「ただならぬもの」の「稜威(いつ)」の説があります。
いつく→斎く。
神聖な場所だったのです。

 

のどかな所なんよ~。

 

コレハルや阿部氏がいた地が、「日高見国」の合戦場にあったと思うのは、
アテルイが合戦した場所も、北上川の「日上湊」とされ、朝廷側で多くの溺死者をだしました。

 

※胆沢合戦場

 

※胆沢:アテルイと朝廷側が対立していた場所(奥にみえるのは北上川)

 

日上とは、ヒタカミのことで、北上川=日高見が由来です。
ここで紀古佐美と対戦しているので、ヒタカミのある所に紀氏とぶつかっている。

ヒタカミとは、いろんな諸説がありますが、
「ヒナ」や「ヒタ」が「異民」の意味があるとされ、「HETUKU(ヘトウク)」
という何語かわからんけど、「繁栄の地」の意味。

そこから「夷守(ひだもり)」に変化した。


カムイのムイとは、ひとつに集まる、束ねるの意味
つまり、村(邑)ということでしょう。

 

※アクリ川(橋には柵がないので落ちそうよ~)

 

 

飛騨地方は、そのヒナから来ている説が有力で、縄文聖地は飛騨から生まれたとも。
『津軽外三郡誌』によれば、
日高見国は秋田県がルーツとされ、安日彦を始祖とし(後の安部氏)
古くからあったヤマタイ(平和な国)とした、とあります。

 

※多賀国府(ヤマテ宮:ツボ) 

 

『ホツマツタエ』の地図によれば、東日本一帯は「日高見国」とあり、
ツボからの~塩釜神社、志波彦・志波姫神社・駒形神社の神が中心にありました。
興味深い話しですね。

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では、この蝦夷とぶつかった朝廷の合戦の目的とはなんだったのか・・・。

 

紀氏→伊斯許理度売命イシコリトベ)
ニニギと付き添って天津国へ、アマノコヤネとやってきた神話。
ニニギが選んだ「コノハナサクヤヒメ」です。

 

それに対し、蝦夷→ヒタカミ(ヒタカミは自然霊=水神(河神)とされる)

この2つの関係は、高橋富雄先生から参考にすれば、
「大和国との併合」という事。

 

紀国と日高見国の併合の目的があったが、幣害になってしまったようです?
紀伊国は、名草郡があります。
ナグサトベ。

 

朝廷側が東北を考えていたのは、金にあるのですが、
熊野信仰が非常に多いのは、紀伊国が古くから東北開拓に乗り出し、
そのリーダシップをとっていたのが紀氏だったと思うのです。
後の穂積氏、鈴木氏へ伝授されます。

イシコリトベも「トベ」です。


紀伊国に「日前神宮」がありますが、祭祀は「日像鏡・日矛鏡」です。
矛と鏡というのは、天の岩戸隠れの時に、
八咫鏡に先立って鋳造された鏡であるとされます。

 

鏡の丸と矛の棒は、男根の太陽神と女陰の月神のことでは?

 

名前の由来は、イシ=石で鋳型を用いて鏡を製造したことに由来し、
その技術に精通した人が「コリ」=「トベ」であると説明されている
。(Wikipedia)

トベは、タタラ場にいた女首長説があります。

 

併合できたのか、失敗したのかわかりませんが、
コレハリが反乱したきっかけのひとつに、蝦夷の中でも差別があったと言われます。

 

それで、紀伊国からやってきた蝦夷征伐というよりは、
木の船をつくって航海して東北へやってきた人、という事でしょう。
木を信仰するのはワタツミですが、木霊信仰もそれに関係します。

 

熊野水軍ね。
これがとても深いんです。むずい。

 

例えば、志波姫神社のある地名は、「八樟(やつくぬぎ」と言う。
『大日本地名辞典:吉田東伍著』によると、
志波姫村は、一迫川の右辺の平郊に至り~とある中で、
樟は、古訓「クス」なれば、之をクヌの謝りであると。
このような例は他にもあるという事ですが、
いずれにしても、「8本の木」のことを言うのです。

 

樟は、「クス」です。
クスノキ。

 

この由来から、福島県の都々古別神社を思い出します。
ヤマトタケルが、8人の土蜘蛛を退治してそこに槻を植えた。
なので、地名が「八槻」となっている。

 

※八槻の都々別神社


これは、八樟と同じ由来だと思い、

土蜘蛛は、専門家の説では手長足長=背が高い人で、
「トベ」に関係する説もあります。

 

石巻は古来は「桃生(ものお)」と呼ばれていました。
そこに「日高見神社」があり、北上川の川神を祀った原始信仰といわれる
古式の神社といわれ、「河神」として祀られていました。
川の神様です。

 

ここもヤマトタケル征伐の話しがあるのですが、
一説には、日本武尊東征のおり、この地に斎場を設けて
天津神を祀ったとある為、日高見国には斎きの祭事があったと考えられ、
天孫降臨が舞台になっている。

ここでも奈良時代、蝦夷討伐で桃生城を構築するが、蝦夷によって攻撃されています。

 

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そんなヒタカミには、阿部氏が深く関わっています。
もしかしたら、阿部氏が最後まで日高見国を守ってきたのではないか、と思います。

 

アクリ川(阿久利川を渡ると八幡宮が)

 

 

木を地名にする意図は、船をその木材で作ってきたこともあり、
ご神体が木であるというのは、海民の思想にあります。

 

水のエミシに対し、木の紀氏という図式は、薬師様の「黒」にもあると。
岩手県黒石寺などはそうで、五行説では水は黒です。


蝦夷が「黒」と描写されるのは、水を敬ってきたことを伝えるでしょう。
その黒は大体、悪にされます。

 

それに、熊野は「クマノクスビ」という名の神がいて「クス」です。
漢字も「樟」とあてている。
岩戸隠れの時は「熊野大角命」とあり、「紀角」と繋がります。

 

そのクスの意味は、木ではなく「奇し霊」のことで、櫛でもあった。
平泉の達谷毘沙門堂にあった姫待不動堂にも繋がります。
一関にも「五串(いつくし」とよばれていた地名がある。


蝦夷が姫を閉じ込めたと伝承にありますが、もちろん、そのような話しではないのですが。

 

(姫待堂)

姫待堂に関しても、スサノオの「8」が、からみます。
ヤマタノオロチで「8人の娘」の中で最後に残った娘は、クシナダヒメだっけ?

 

※クシとかけて、櫛(髪)

 

トベは、朝廷側について併合することに力を注いだと思います。

しかし、蝦夷が朝廷側と激しく対立したことには、理由があります。

単純に渡来(天津神)が祀られることを嫌がっただけではなく、

現代と同じように、暗い差別的社会があり蝦夷たちの不満があったことは確かです。


その仲介に平泉がありますが(奥州合戦)
平泉は、「ククリヒメ」の白山信仰が基にあります。


「ひとつにくくる」意味があって、ククリヒメが存在する深い意図があったのです。

これが、その後に行ったお寺で繋がっていました。

 

まだクスノキは続きそう。

次で完結!