縄文の後は、コレハリ一族を祀るとされる「鳥矢ヶ崎古墳」へ。
ダークツーリズム」というのは、
宮沢遺跡の時にも書いていたこと。

 



ダークツーリズムを観る意義とは、
「闇があるから光がある」

「日本人は地域のダークサイドに無関心すぎる」より。
http://news.livedoor.com/article/detail/15151501/から引用します。

『「忘れられる」という2度目の死
防災の世界では、しばしば「人は2度死ぬ」というフレーズが語られる。

肉体的死が1度目の死であるのに対し、
その人を知る人がいなくなってしまうことを2度目の死と呼ぶ。

「2度目の死」は多重的な意味を持つ。

畑中章宏『災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異』(亜紀書房)では、
洪水の多い地域に「蛇崩(じゃくずれ)」や「蛇谷(じゃだに)」という地名が
多いことを指摘している。

私も日本各地の自然災害の跡を訪ねたが、そこにはひっそりとお地蔵さんが
置かれていることも多い。
開発の流れの中でこうした地域の地名が変更され、
お地蔵さんが除かれてしまったらどうなってしまうだろうか。

それは、この地で生き、この地で死を迎えた人の記憶を地域が失って
しまうことを意味する。

つまり、「2度目の死」が起きてしまっているのである。

そうなるとここに住む人々は、以前よりも災害を恐れなくなってしまうだろうし、
何より備えを怠ることになりかねない。
その結果、久方ぶりに豪雨があると、現住する人々は予想もしなかった
新たな死を迎えることになる。』


「開発で忘れられた土地をもった結果、人は1度で死ねなくなった」
ということが起こっているわけです。

これは、蝦夷征伐も当てはまるだろうと思い、
誰かがその人の人生を思うことで、ようやくその人は天上できると
いう思想に共感し、蝦夷探訪をしているつもり。

が、実際、現場にいくと冷めてしまうもんでねぇ。
想像するより現実に見えている世界が、
「本当に何もないんだな~」という空虚があるからと思います。

語り部も、ダークツーリズムのひとつです。

いろんな媒体を通して、伝える意味はあると思います。

首長なりリーダーとして指揮命令してきた一族にとって、
多くの試練や悲しみや葛藤の中で、
その地を命がけで守ってきたことがあったでしょう。

藤原実方、松尾芭蕉や西行などが陸奥に巡礼にきたのは、
「敗者の歴史を知るため」と言われます。
松尾芭蕉は、敗者の歴史を書き遺すつもりでいたらしい。
和歌は鎮魂の歌です。

昔の人も同じようなことをしてきました。
悲しみの土地をあえて観光化ることで、
闇の世界をみようとする試みがある。
それが、東北地方独特の歴史だと思います。

あえて自分の中にふさいできたことを、内観する。
良い悪いの判断ではなく、自分自身のこととして。

 

という心理が湧く。

エミシ探訪で、こんな風に成長する自分がいることも不思議です。

■タタラの地-----------------------

さて、震災のように最近のことは忘れませんが、
何十年、何百年と経つと、古い話しでは、
新しい人が住んでいるので興味関心がもてないものです。

東北を開拓してきた側の先祖をもつので、
エミシだったコレハリの古墳に来ていることが不思議でした。
主人も一緒でしたが、栃木県なので毛野国。

蝦夷征伐で「豊城入彦命」が登場するわけで、
その宇都宮ですから、不思議なご縁です。

 



このあたりにコレハリなど荒蝦夷と言われる人たちがいたのは、
やはり鉱山資源にありました。

細倉マインパークがありますが、細倉の高田鉱山、
花山村に戸沢鉱山、長崎村に松森および大土森鉱山、
鳥矢崎村に鳥澤硫黄山等あり。

金、銀、亜鉛、硫黄等を産出するところで将来の発展にあった地でした。

 

こちらは数年前に、やまちゃんと登った大土ケ森。

オード(オドガ)とは、聖なる山の意味。

仙台の太白山も、昔はオドガ森と言われました。

 

 

 

空からのぞかれてま~す。

 

※大土ヶ森からの展望

 

こんな石と木がある山で巨石も多いところです。

 

登山帰りにみつけた岩場にこんな看板がありました。

タタラのある土地らしい伝承。

細倉鉱山で鉱脈にあたることができなくなったので、

妻が大事な黒髪を売ったという。

 

 

■鳥矢ヶ崎古墳------------------------------

 

名前の由来は、鳥谷村と、駒崎村の名を一緒にしたそうです。


ところで、多くの古墳には「その墓の主からのお告げ」としてもたらされる
話しがつきものです。

 



鳥矢ヶ崎古墳群について、東北学院大学(辻先生)と
東北大学(高橋富雄先生)の考古学研究で、
調査したきた内容を参考にしています。

鳥矢ケ崎古墳群の所在地には古墳群に関わる言い伝えが残されている。
鎌田金穂氏によれば(鎌田 2004)、

「明治四十四年というから今を去る六十三年前の六月十三日、
旧尾松村八幡の大工、小野寺久五郎さんが、
青雲山を越え源四郎道にさしかかった際、
つつじの株につまづき下駄を探していた時、
土中から刀の折れ端のようなものが五寸ほど
露出していた
のを堀起して家に持ってきた。

その夜枕神が立ち「あれはおれのものだから掘り出せ」
とのお告げにより、
翌朝早く現地に行き掘った処、唐くつわ(鉄製衣馬のくつわ)
その他鎧、かぶと、刀、須恵器の茶碗、皿等約四キロが
出土したので屋根裏に保管していた。

内唐くつわは東京国立博物館へ納め」たという伝えである。
昭和 37 年には小野寺久五郎氏の案内で現地を訪れたが、
その場所は確認できなかったという。』

 



「調査の結果、鳥矢ヶ崎古墳群には、北の要素と
中央の要素が混在している
こと、被葬者には当時の律令国家の
役人であった人物が埋葬されている
ことが判明。

当地は、伊治城で反乱をおこした伊治公砦麻呂(これはるのあざまろ)
の一族が基盤とした地域と見られることもあわせて、
東北古代史を考える上で大変重要な知見をもたらすこととなった。」


実際、行ってみると駐車場や看板など整備はされているものの、
鎖があって入れないようになっていました。

仕方なく奥までは行かず、
近くを見てすぐ帰ってきてしまいました。

鳥矢ヶ崎古墳群から栗駒山が見えるそうです。
詳細は、研究資料を確認してみて下さい。(PDF)
(file:///C:/Users/junko/Downloads/20160423_1_%E8%BE%BB%E7%A7%80%E4%BA%BA.pdf)

この後、栗駒山を祀る駒形根神社の里宮に参拝したのですが、
栗駒山がとても重要な聖山だと気づかされます。

縄文遺跡が多いことから、縄文の末裔がいつまでいたか
不明ながらもアザマロ一族は、一緒に暮らしていた気もします。

高橋富雄先生が、エミシ征伐のある所に駒形神社を祀る
と言っており、霊が帰る場所が栗駒山だったかもしれません。

※須川岳ともいう。

 



やはり、辻先生の研究資料にも、書いてありました。

「古墳時代には東北南部の土師器を使い、
古墳を築く文化(古墳時代社会)と狩猟、採集を
生業とする北海道の文化と共通する続縄文文化とが境を接していた。

 



■アザマロ(呰麻呂)のアザとは---------------

ひとつだけ気になっていることがありました。
アザマロのアザが、痣であるとの説。

呰麻呂(アザマロ)は、多賀城を焼き打ちした人として歴史に登場する人です。
「公」とついているので、アテルイと同じく、
朝廷側にいた役職につけるものなので、
朝廷側にいた人が反旗を翻したことを伝えているようです。

荒蝦夷と和蝦夷という言葉があるのですが、
朝廷側についていた蝦夷と、そうでない蝦夷との対立はあったようですが、
ただ、この頃は、そこまで激しい対立があったわけではないとの事。

しかし、道島大盾という官人が呰麻呂を夷俘と侮っており、
恨みを持った呰麻呂により殺害されているとある。
その後、紀氏も殺害しています。

呰麻呂は、南のアテルイとも称されていました。

高橋先生(東北大)は、呰麻呂(アザマロ)は蝦夷の中でも差別があった。

と言及されており、母方の出生などにも関係するのかどうか。
そのことが背景にあるのでは?ということでした。

気になった話しがWikipediaにありました。

「当時「呰麻呂」という名前は和人において珍しいものでなく、
忌部呰麻呂や大伴呰麻呂など、史料上散見される。

このことから、神護景雲元年(767年)伊治城造営の頃に
伊治公一族が政府に帰順した折に、
呰麻呂という和人の名前に改めたのではないかとの推測がある(今泉隆雄)

また「呰」の字は「痣」に通じ、身体的な特徴に由来すると考えられ、
古代においては計帳に記述する身体的特徴として注記する情報でもあった
。」


う~ん・・・。
痣は身体的な特徴をもった人にも差す言葉と。

だから名前を、にしたみたいな話し。
蒙古斑というものか、実態は不明ですが、蒙古斑はほとんど成人すると消えるので、
これはあまり説明がつかないかも。

この痣について気になったのは、
中国の歴史小説である「水滸伝」に顔に痣のある勇者が登場してます。
これが気になった。

読んでないけど、顔に大きな青痣があることから
「青面獣」と呼ばれた人が登場する。→楊志(ようし)

時代は「宋」で、12世紀頃。
奥州藤原氏は、宋に大量の金を援助しています。
実在した36人の歴史記録の話しというのだから、気になります。

痣がある人は「南総里見発犬伝」にもあり、
珍しいことではなかったと思います。

昔は、痣などの先天的な身体をもつ人は、
他の人とは違うことから、差別的に見られていたようですが、
異類婚の伝承があるように、他の人と違うことは、
神に近い存在と見られていたようです。

しかし、盲人なども同様に、前世のカルマなどの要因により、
引き起こされる事象とも信じられ、母から子へ伝染するため、
子供の体にそれが現れると言われてきました。
そのため、良い行いをした後は、痣が消えるとまで言われたのです。

そんなコレハリに関わる栗原なのですが、
栗原の風景は、いつまでもエミシの里だから好きです。

 

 

関東でこんな広い土地があったら、コストコか、イオンができるよ・・・(-"-)

お腹がすいたので、街中でお昼をとりました。
近くに松尾芭蕉ゆかりの松が。

 

 

 



最後は、蝦夷からオオヒルメムチにバトンタッチ。
もう少し栗原の古代史について。