つづき。

長いですが、これで最後。

 

 

こちらの看板をみってちょっと驚く。

 


 

ほんとに白幡さんという方がいらしゃるとは・・・。

「白幡」は源氏の象徴みたいなもので、
よく伝説に登場します。

さて、拝殿の裏をまわってみます。

 

 

大きな出雲大社の石碑。

 

 

神社の裏手がうっそうとした鎮守の森。
何かを伝えているような森でした。

 

 

石塔がたくさん並んでいます。

 

御手洗池、湧水がここにあったんですね。

 

 

 


裏手の道を進んでみると看板が。

 

 

 

 



なるほど、
ここがその森だったのですね。

「弓張窪」について

平安時代、鎮守府将軍・源頼義公とその子・
八幡太郎義家公は、前九年合戦に際し、
天喜五年から治暦年間にかけ、

三度にわたりこの八幡山に陣を構えたと伝わっています。

由来は、「~山の頂きに一つの穴有り。
義家公が内に入給ひて弓を張り無想の矢を
つがへはなち給へば幾筋となくはなたれり。

仏神も感応有りて火の雨風を吹かせ震動す。
故に東夷追討せらる。~」

 



この山林所での史跡整備を行い、
当時の原型をとどめている。

 



この先には七ツの経塚があるそうです。

寒いので散策は無理ぽ。

 

 

とぼとぼ、戻る。
 

 

 

白幡のこと

 

ところで、源氏の白幡の話しはたくさんあります。

埼玉は新羅の地名由来が多いです。

武蔵国に新羅郡を置く→新座、朝霞(あさか)、志木(しき)
などは、新羅系渡来人が住んでいたので地名になっています。

埼玉県に白幡の地名があります。

平安時代に藤原秀郷が、平将門討伐のため当地にしばしば宿陣し、
八幡勧請し勝利の祈願をする際、
白幡(白旗)を立てたことが地名の由来とされます。


これがルーツとなっていると思う白旗の八幡神社で、
入間川が流れていたところです。
これは前回の武蔵探訪で川越藩とも繋がることです。

また、白幡は、二本松の木幡にもつながっていますし、
源氏は「白幡」とする白、
平家は「赤幡」とする赤、

しかし、二本松の木幡山は、五色交えた
木幡(こはた)となっています。

 



以前、書いた記事をまとめると。

木幡山の祭についても、
天喜3年(1055年)前九年の役に由来するものと言い伝えられています。

雪が山に積もったのを、
追走してきた安倍の軍勢が、源氏の白旗に見間違え、
戦わずして敗走した故事により「幡祭り」として伝承されています。

 


この白幡から繋がったのは、「木幡」のこと。
幡=秦では?

 



数年前に栃木県の木幡神社へいったこと。
「耳」族のオシホミミを祀る。
「勝利した名前」

 



これが、山城国許波多神社(現京都府宇治市)の勧請。

蘇我倉山田石川麻呂
木幡の荘に皇祖(天照神)祀り神殿をつくるように
建立するよう命じて、
中臣鎌足らが神殿をたてたという言い伝え。


蘇我氏・秦氏→木幡→白幡=源氏の守り神。

と、妄想する。

栗原にも、白幡の地名があり、ずっと前に「志波姫神社」で書いてました。
伝説ではよく「白羽の矢を立てる」という話があります。

白羽の由来は、志良波のことで、
茨城県の太田市に天之志良波神社があります。

天白羽命(天之志良波神 長白羽神)を祀るので、
麻を広めた麻積氏の祖です。

養蚕をもたらしたもので、蚕のことと結びつけている。
麻がもたらされた場所に、後から絹が伝わったと想像する。

絹の麻積氏は、藤原秀郷を祖とするため、
足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族と言われ、
栃木県足利市に織姫神社を祀ったのは、古来から織物を
やっていたけれど、守護神がないので祀ったこと。

 

 



その麻積氏は、平家らしい。

また、柳田国男は、志良波のシラハは、

シンラで新羅のことをさすとも。

 

新羅=平家=機織→騎馬民族の車輪と織物。


また、「太田」の地名。
これもまた、川越に繋がるのです。→多田。

 

源氏が応神天皇を祀る理由、

「耶麻」というのがある・・・

本州「耶麻」とは?

 

ある時、こんな内容のものを図書館で偶然、発見。

ぱっと開いた文がこれだった・・・

『封内風土記 第一』

源頼朝東征(鳥羽帝)文治中 東征に勧請(生出森八幡神社)

藤原秀衡の祖 河村四郎秀清(藤姓初十鶴丸あつがし山~名取郡(本州耶摩)
名取両郡秀衡八世の祖 茂庭駿河定置(初代理兵衛秀国)弟尾張義秀再興~」

・・・
「竹内宿禰を祀る。竹内権現。」
河村氏の母は、二位官女京極極→源頼朝を祀る。

八幡の末社は、荒廃し、白幡大権現(竹内宿禰)
雲南権現、十二社、道祖神、貴殿、熊野権現、新山権現。
・・・」


という内容。

メモしたので、くわしいところわからず。

 

かつて、生出森は白旗の地と言われ白旗神社が麓にあったキョロキョロ


白幡大明神は、武内宿禰という。

『古今著聞集』より、北条義時が武内宿禰の生まれ変わりとあり、
宿禰が顕れ、世が乱れるから義時が生まれ変わりになって
治めなさいといった内容。

源頼朝は、北条義時を気に入っていた話がある。
頼朝もまた、シャーマン将軍が好き。

 

※花巻 毘沙門堂(武内宿禰と神功皇后・白い餅?を捧げる渡来人)

『吾妻鏡』にも登場する北条義時は、源頼朝の親衛隊のリーダとなり、
名取熊野堂も北朝(北条氏)により治められる。

※フラワーオブライフより・・・北条氏の家紋は正二十面体


さてその『封内風土記』にでる「本州耶麻」とは?
邪馬台国の象徴?会津にも耶麻郡あり。


白幡から耶麻に至るのならば、

応神天皇や神功皇后を崇拝してきた源氏があったと思います。


その京都宇治の木幡の伝承にある蘇我氏が祀ろうとした
皇祖(天照神)というのは、邪馬台国の卑弥呼と、妄想。

どうも、太白山付近があやしい。
茂庭西館のこと。

封内風土記』の源頼朝が奥州征伐で陸奥へきた時に、
「本州耶摩」と呼んだ場所が推定「太白山」であろう、との説。

※仙台市太白区は中世名取郡の範囲。

「夜万」と書いて「やま」と呼んだ(和名抄)より。
あるいは「野摩」。


神功皇后伝説が多い東北ならば、
二本松へ行くとわかりますが、木幡にも太陽神の信仰が強いし、
稲荷神あり、裏手の山は、経塚も有名。

経塚の繋がりから、上沼八幡宮に陣をはった
義家が経塚を7箇所埋めるという言い伝えは、
二本松の木幡から繋がっているでしょう。

ちなみに、茂庭駿河定置(茂庭西館にいた)は、
伊達政宗の家臣茂庭綱元とは別の系統とされ、
河村城主茂庭氏発祥という。

ちょっと細かいことまでわからないのですが、
この意味の解読もむずい。

wikipediaによると、
「斎藤系茂庭氏」と
「河村氏茂庭氏」とあり。

 

(wikipedia)

重ね剣菱という「菱」は、
三菱の菱と同じです。

なぜ、名取の熊野堂縁起の神楽が、
太白山の八幡神社で継承されたのか。
「門外不出」と言われた神楽。

太白山にも生出森八幡神社があり、代々、熊野堂神楽(名取熊野新宮)
が伝わっています。
この熊野堂神楽は、頼朝の捕虜(平家)を連れて
神主と神楽を命じたと伝わる。
(途絶えたけれど熊野神社の神楽師を継承してきた方から
伺った話では、先祖は平家だったと)

義家の母が平家方(後の坂東平家)だった事から、
源平の融合といっても過言ではありません。

女系が平家であることが重要だったのでしょうか?

 



それで、源氏に仕えていた河村氏波多氏→河内大内氏=笹りんどう。
なので、熊野堂神楽を舞う時は、決まって「笹リンドウ」を掲げる。


神奈川県(三浦氏など)きている熊野信者も多く、
源氏についた平家は、鎌倉御家人として仕えることになるのです。

ちなみに、「親鸞」も笹りんどう。指差し

 

 

ふっる~いのリンクしたぞ。(1960年の!)ニヤリ

今やってます。

【登録者30万人突破・開設2周年記念】親鸞[公式]
東映時代劇YouTube

 

 

摂津から武蔵へ

 

だから私は、難波にいったのか・・・

 

この太白山の地名にもなっている茂庭氏(元は鬼庭)をたどると、
多田氏に繋がり、茂庭に土着した多田氏の話があった。

「行元の養子・基良(多田満仲の後裔と称す)は、
平治の乱後の混乱を避け八瀬を離れ、
はじめ下総国佐倉、次いで下野国那須へと移住し、
建久3年(1192年)に茂庭基良の子・実良が
陸奥国伊達郡茂庭に土着する。

※wikipeida

「多田満仲」の後裔・・・
の多田氏=太田道灌と同族なのか・・・


多田義仲=源義仲

ああ、そうだった。

摂津源氏・多田源氏
源義仲を祀るのが兵庫県の「多田神社」

ということを、先日まで武蔵妄想で書いてました。絶望

やはり、大阪難波で妄想していた
「津」は武蔵へ向かっていた。

太田=多田=太田道灌(川越藩)
丹党武蔵ね。

この摂津から出ている太田氏(多田)が、
あの、東京の江戸城の裏である「日枝神社」
と、ちょっと繋がっている。

それが「さざれ石」だったこと。

 

 

オリオン座の赤星・白星

 

長いですが、ここまで書かないと終われません。

 

オリオン座は戦う星なので、
源氏星=リゲル、
平家星=ベテルギウスになっています。

 

オリオン座(上がベテルギウス・下がリゲル)

 

ベテルギウスは新星爆発をしたのだろうか・・・

ずっと前に夢でオリオン座がみえて、
ハートがゆっくりふってくる夢でした。
白い大きな粉雪からハートになったんだか、忘れたけど、
そんな夢をみるとは、驚きでした。ラブラブ

その白と赤は常に戦いをしていました。

オリオン座を源平に例えたのは、

平家でした。

平家落里として有名な岐阜県美濃。
美濃合戦で例えられたものと言われる。

その場所が「岐阜県揖斐郡」の山村(横蔵村)というが、
この地名、そう、東京赤坂の日枝神社「さざれ石」

 

 

この石を見るために、わざわざ戻された。

 



そのオリオン座をみていた平家たちの村とは、

ちょっと離れてますが、
揖斐川の本流は「冠川」に位置する。

 

※冠山

なるほどー。


秩父の平将門伝承にある妻の桔梗姫が、
スパイ行為をした(藤原秀郷側についた話)で、
処罰された桔梗姫を不憫に思った家臣が、
姫のくびかざりを天になげた伝説があります。

この話は、ギリシャ神話の「かんむり座」と似ています。
冠座のことを秩父では首飾り座とよんでいた。



※星図カード集『ウラニアの鏡』(1824年)
に描かれたヘルクレス座(中央)とかんむり座(右)

また、揖斐郡のもつ意味が「尾がついた山民」を想像するのです。

揖斐の漢字は、元は「井樋(いび)」から由来するとの事。

またその地名から想像されるのが
「イヒカ」=井氷鹿。
尾をもつ国津神。
土蜘蛛だと思います。→茨城にいた先住民。

この井と樋が星を意味するものだと思い、
船で航海してきた星読みの民が平家の特徴。

古代ギリシャ、古くはメソポタミア文明を築いた人たちです。
 

 

追いかけるオリオン

 

いろいろと繋がる理由として、
勝った者は広範囲に征服しているから、
東北を行脚していても、関東武士団の強さが浮き彫りにされてしまう。

征服した者同士は、当然、歴史を追及すれば繋がるでしょう。

しかし、もっと奥底にある者たちとは、繋がりません。
見せないから仕方ないのですが。

ずっと、かくれんぼ状態。

それを追いかけるオリオン。
そんな体質が源氏と似ている。

また、八幡神も追いかける。

「応神天皇の妃、「兄媛」が故郷に帰りたいといい、
吉備へ帰ってしまったのを
応神天皇が追いかけて来た。
その天皇を「兄が」迎え入れたという」


といった話は、難波のアカルヒメ。
ここに戻る。

 

 

エジプトでは、オリオンのことを「サフ」の神とよび、
妻が「ソプデト」

頭にヒトデ・・いや、五芒星。

 


アカルヒメが五芒星な形なのも、そうかもしれない。

 



戦う息子「ノモス」がうまれ、頭に
角?みたいな兎の耳みたいなもの。

とうもろこし、にしか見えんわ。
 

そゆことで、八幡太郎義家は、新羅系の魂をもっており、
新羅三郎がそうであるように、
秦河勝のことを追っていたのですな。

 

その秦河勝は、物部守屋を討ったとも。

 

 

「八戸長者山のえんぶり」

源義光・・・八幡太郎義家は兄にあたる。

 

 

しかし、そこに源氏と平家を隔てる壁は、
そんなに、なかったと思う。

安倍貞任と源義家の関係は、
そんなに悪くはなかったと言われる。

互いにどこかで、同じひとつの民だったことを
確かめあっていたことがあったかもしれない。
(と、思いたい)

どれだけの平家と源氏が東北の地で散っていったか。
そして、女性たちの苦悩も。

桔梗姫のように冠を天に投げるしかなく。
(妄想で)

他にもいろいろ、八戸の八幡神とかみると

東北の果てまで追いかける理由とは、なんだろう・・・

 

※八戸「櫛引八幡宮」大きいホンタワケじいさん。

 

 

河童と鷹

 



上沼の八幡神へいったら河童の看板があり。
(あれ河童だよね?)

そーいうところが、気になるのですが、

濃ゆい登米の三社巡りはおしまい。

また来年の紅葉の時期に訪れたいです~。




※昨日送られてきた岩手山

 

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他でも、よっしーは、出没してるよ~

 

 

 

 

福島県に源氏の男山八幡神があります。(京都より勧請)

 

八戸の八幡神もすごかった!