先に歴史の話しから書いていきます。

最終日は八戸に泊まり、
朝早くに神社参拝をしてきました。

9時から開館する縄文館へ行く予定だったので、
それまでの時間をつぶすため。

 



南部一宮の櫛引八幡神社(くしひきはちまんじんじゃ)へ。

 



2日目の夕方から天候が悪くなり、
3日目は朝から雨でしたが、小雨程度でした。

 



駐車場につくと賑やか。

係の人に聞いてみると
「今日は女子の流鏑馬大会をやっている」との事。

女子の!?

流鏑馬って女子もやっているんだ・・・

 



女子ってところから、もうメッセージが強いです。

は~ぁ。

 



『かたづの』!!

これは、3年前だったか読んだ漫画ですが、
中島京子著の小説を里中満智子が漫画化したものです。

南部家の支藩の女領主となった実在の女性祢々(ねね)。
1586年~

八戸氏21代当主で「子子子(ねねこ)」とも書く。


冷酷な藩主で叔父の策謀に翻弄され続けながらも、
戦を交えず領地を治めたトベみたい人。


お墓は遠野にあります。

こういうのばっかり繋がるけど、

女は女同士、共感しあえる歴史があるからこそ!

そんな繋がりに納得ですが、
ここから、どんどん繋がっていく。

 



その前に、神社の由来など。

 

 

■立派な八幡宮--------------------

 



まだ時間が早かったのでお祭は準備中、
人もまばら。

 



本殿にお参りする時は誰もいなくて
ちょうど、宮司さんが外に出て行った後(すれ違い)
で、ゆっくり参拝できました。

ご祭神

八幡大神

別奉称 誉田別尊 (ホンダワケノミコト)

 



ボスのホンダワケさん、
でかっ。

 

ぼ~んやりワケさんニヤニヤ

 



この人、実在はしてないとか、なんだとか。


隣には大きな大黒天さんがおりました。

八幡神は、縄文遺跡に多く祀られる神社ともいわれ、
確かに、東日本全土が縄文文明でしたが、
あまりにも八幡神が多すぎる。

八幡はヤハウェであり、
12部族の長=ダビデはすべてのイスラエル民族の王を認め、
バール神、イシュタル神は認めず、
「ヤハウェ」だけを神として認めよ、とした、説。

それ以外の宗教を、異端とし、鬼やら悪魔としたことがあった。

実際、ここにその彫刻をみることができる・・・と思う。

非常に男性的なので、
南部藩の歴史も非常に男性的と思います。

 



そんな時代に、祢々は夫が亡くなった後、領主となり、
夫はただ一人と決め、勝利品(敗者or別の夫に嫁ぐ)
を拒否し、尼になり名を「清心尼」とします。


脇宮御祭神

天照皇大神 
天津児屋根神

他、末社がたくさん。

櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられる。
南部の総鎮守。(一宮)

HPのサイトが立派なので、
詳細はこちらで。

 

 
 
十二支の絵馬たち
 
 
 
 
裏へまわる。
 
 
 
裏の杉の木も立派でした。
 
 
 
ぼやけてしまった・・・御室というもの。
足下の横板に切られた栗の形に似たもの。
 
 
栗の形のものは、稲荷神ならば、宝珠ですよね。
 
(右側にある穴)
 
稲荷神の使い、白狐が祀られているとか。
昔、八戸の街で大火災があった時、
どこからか白狐が現れ本殿の周囲を巡り災いを伝えたという。
 
 
神明宮
 
 
 
■国宝の甲冑-------------------------

この神社の見どころは、国宝になっている甲冑です。
 
流鏑馬を見学していたら、ちょうど開館時間になったので、
拝観できました。

鎌倉時代のもの。
 
中でも「赤糸の甲冑」は有名で、
98代目の長慶天皇の鎧と言われます。

菊紋があり雲などの飾りは身分を現し、
天下一を示していると。

なぜ、櫛引八幡宮にあるのかはわかっていないのだそう。

南北朝の争いの中で南朝についていた南部家を頼って
こちらに逃げて来た時に奉納したらしい。

アメリカの大富豪が50億円で売ってほしいと
申し出があったそうだよ。

よっぽどだわ・・・

甲冑は、HPにのってます。
 
白糸の甲冑もあるのでね、
赤と白なのですね。

日本の国旗の色。

この白い甲冑は「卯の花」に見たてたというのですが、
当時は真っ白い甲冑で美しかったそうです。
 
馬たちの流鏑馬、準備中。
 
 


ちょこっと動画。
女性の姿もありますよ。
素敵な衣装です。

 

 

という事で、南朝が関わっているならば、
南部藩のマタギといえば、老犬神社で書いてましたが、

甲斐のマタギが関わってますね。
確か、この神社にも甲斐の由来があったはず。
 
 
甲斐の黒駒が有名でしたから。
 
 
現存する八戸小学講堂(画像下)最古の洋館(1882年)
 


■河童と鷹-------------------

ここから、ちょっと悶々としてくるのですが、

「鷹にメドツ(河童)」の彫刻があるのです。
河童の彫刻が神社にあるのは珍しい。

河童をつかまえる鷹がおり、
おさえつけている彫刻です。


神社の説明によると、

「この意味は、遠野が河童で有名ですけど、
遠野と八戸には深い繋がりがあり、

この地を治めていた根城南部家が1627年に
遠野に移ったことによります。

遠野はこの辺りと同じような苗字、地名などが多く、
方言も似ているそうです。

ですから河童の昔話も当宮に伝わるものが遠野に
移ってから語り継がれ現在に至るという説もあります。」


遠野にうつった南部家を語りついでいると言われてますが、
その河童を、鷹が押さえつけているのですね。

家紋が南部鶴なんです。
 
 

『かたづの』を読んで頂くとわかりますが、

最後に女大名だった清心尼は、遠野に移住します。

なぜ、鷹は河童を押さえつけているのかは、
南部藩の歴史が関係していると思い、
あまりいい気がしません。

こんな伝説があります。

<八幡様とメドツ>

「八幡宮を建てたのが左甚五郎(日光東照宮の三猿の彫刻家)
といわれ、江戸から頼まれてやってきた。

甚五郎が柱の部分を測り間違えて
余分な所に穴をあけ、ヌキを通してしまった。

みなに知られると名人の名折れとなるので、
間違った部分を川に捨てようとしたら捨てられた部分が

「待て、
俺は八甲田の山に育ったケヤキの樹だ。

八幡様の本殿の柱に使われるというからきたのに、
自分が間違ったからって捨てることはなんたることか」
 


といったが、甚五郎は
「何をいうかケツでもくらえ」

と、そのまま川へ投げ捨てしまった。

それからメドツ(河童)は、
ケツでも食らえと言われたので人を襲うようになったと。


(馬を川にひきづりこむ河童の話しは遠野物語にもあります)

しかし、あまりにも多くの人を襲うので、
八幡様が使いである鷹にメドツを連れてくれるように命じたが、

メドツがそれを拒んだために鷹はメドツを押さえこみ、
血が出るまで頭をたたいたと。

それでメドツは頭がへこんでいるのだと。」

む~ん。
人柱みたいな。

八甲田のケヤキと具体的になっていますから・・・。

ケヤキとは、「槻」のことです。
八槻の土蜘蛛を退治したヤマトタケルと同じでは?

ちなみに、
鷹司家は、遡ると天児屋命(アマノコヤネ)の流れをくむ中臣氏。

なので、春日神社が丁重に祀られています。
 
 
 
国指定重要文化財のものが複数あります。

鷹といえば、
鷹の羽の家紋をもつ九州の菊池氏などがうかびますが、
 
明治政府との関わりもあると思います。
鷹が八幡神の使役ということであれば。
 
重たい話しをかいていた。
鷹はこの意味の鷹なのだろうか?

 


えみし征伐でも東北にきているのは藤原北家です。

藤原北家流=鷹司氏(伊勢神宮の宮司)
旧皇族です。(現在は引退し鷹司氏に)

悪路王退治をし、立てなおしをしてきたのは藤原北家。

要は、海外の大陸で宗教の派閥をもっていた民族が、
日本へ渡り、日本の地でまだ戦い続けていたということなのでしょう。

先住民は、住んでいる土地を奪われるのが嫌だから、
守るためだけに、逃げてきたことがある。

 
宮城から北へ北上している。
戦う概念がなければ、逃げるしかないのです。

八幡神は、その地を治めた始祖を祀るが、
迫害された人は、どれだけの数にのぼるのだろう・・・

鷹をおさえている河童が遠野のことを指すならば、
南部藩で対立をし、遠野へ移住したことに対しているもの。

この彫刻の裏に隠された意図は、
迫害されてきた清心尼の思いが詰まっている気がします。

その南部藩がまだいろいろなところで、
繋がっていました。 

最後の九戸に繋がること。

次にします。