「男山」なんて男前な神社かと思えば、
ここも安産の神様でした。

 



子授け、安産、子育ての神、戌年・亥年生まれの守護神。

 


文徳天皇仁壽二年(851年)従五位下藤原朝臣興世(鷺内稲荷に登場してた人)
(ふじわらのあそんおきよ(後に真野の長者と呼ばれる)が、
陸奥守となって奥州(現在の岩手県北上市・花巻付近)に赴任の折、
冬暖かにして夏涼しく周りからはたくさんの清水が湧き、
すばらしい土地があるものだと感嘆し、
後にこの地に定住し山城の国より地域の発展を祈り、
男山八幡宮を移し奉られたと伝えられています。

 

 

子育て犬

 

子育て獅子

 

祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと 応神天皇)と
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと 神功皇后、応神天皇の母)、
配神として建御名方神(たけみなかたのかみ)。

 

 


 

古来より子授け、安産、子育ての神として信心が厚く、
戌年亥年生まれの守護神としても知られており、
特に妊婦が「おまくら」を借りて祈ると必ず安産になると、
相馬地方を中心に広く信仰されています。
12年に1度、戌年の4月に「浜下り」が行われます。

 

子持ち石

 



藤原興世は、平安時代の貴族。
文徳天皇が即位した嘉祥3年(850年)に従五位下・右衛門権佐に叙任される。


翌嘉祥4年(851年)陸奥守兼常陸権介に任ぜられ地方官に転じる。
出羽守を務めたとあり、花巻の話しは、出羽国の反乱で
秋田城が襲撃されたことを受け、陸奥国の北の方まで鎮圧させるために、
派遣されたようです。

 

諏訪神社


前回の鷺内遺跡の話しで、埼玉の鷺宮の由来から
「平安時代に源頼義が八幡神を祀った社殿を建てたところ、
境内に鷺が多く飛んでいたことから鷺宮大明神と呼ばれ~」

と、ありましたが、男山八幡宮とは、
石清水八幡宮のことで、征夷大将軍に任ぜられた源頼義が
京都男山八幡宮(石清水八幡宮)に戦勝を祈願し、
子の八幡太郎義家と共に東征した
とあります。

 



子の源義家は、「後三年の役」に登場します。

出羽の清原氏が朝廷に対して反乱を企てたので、朝廷は源義家を遣わして

これを討った戦いとされているのですが、反乱を企てた認識はないという。

 

これは、「私戦」であり、朝廷から陸奥守の職を解任されていると。

 

 

もともとは清原氏一族の内部分裂に端を発して

相互に戦いを交えている時に、陸奥守として赴任してきた源義家が途中から介入し、

分裂していた清原氏の一方の側に加担し、他方の側を滅亡させた事件といえます。

※横手市のサイト

https://www.city.yokote.lg.jp/bunkazai/page100501.html

 

政府からの指示はなく、勝手に入ってきた義家みたいですが、

安部貞任との対戦の言い伝えは多く、例えば、互いの和歌を披露する部分があったり、

義家が安部氏を擁護している話しもあるので、

互いに、どこか余裕があったように見えます。

 

一概に、義家が勝手に横入りして仲互いさせたとは、言えないです。

 

しかし、横手で合戦場があったのですが、それ以前は、女性や子供が殺されることは、

ほとんどなかったのですが、後三年の役では、男だけではなく、女性も子供も殺されたそうです。

 

 

奥州藤原氏の初代清衡は、清原氏が有していた力を発展的に継承した為、

平泉の発展は、清原氏のおかげでもある、と。

 

夫を殺され清原氏に嫁いだのは、安部頼時の長女(初代清衡の母)有加 一乃末陪(ありか いちのまえ)

なので、私はこの方が大きく影響していると思います。

 

 

平泉のアラハバキ信仰(ワカエトノ神社)も、

月待講をしていた安部氏の妻たちが広めたと思います。

女性が「月側にたつ」のは、自然なことです。

 

 

 

 

八幡宮の話しは、秋保の「坪沼八幡宮」と同じ伝承です。
源義家は、安倍一族の支城・根添館があった坪沼にもやってきてました。
丘の上に京都男山八幡宮の御神像を祀ったのが坪沼八幡神社と言われます。

 

https://www.city.yokote.lg.jp/bunkazai/page100501.html

坪沼八幡宮は、4年前の6月に行っていました。

 

※坪沼八幡神社

この先にある場所が安倍館があったところ。(↓)
のどかな山里でとても良い所です。

 



愛宕山があるので、秋保もタタラ場があったと言われます。

3つに並ぶオーブが映っていたのを覚えています。
(不思議ですよね~)

 



この頃、藤原家の腐敗した貴族文化があった為、
社会全体の道徳観を植え付けるためも。
それに蝦夷が巻き込まれている感じもするね~。

南相馬の男山八幡神社は、本殿が開いていて

なんとなく明るく、清らかな空気を感じました。
元服した源頼義を想像します。

 



八幡太郎義家となづけるのは、源義家は岩清水八幡宮で
元服したことから、「八幡太郎」と呼びました。


岩清水八幡宮
http://www.iwashimizu.or.jp/story/kj.php?seq=10&category=2

青森県の新羅神社は、弟の源義家が三井寺(新羅明神)
で元服したので、「新羅三郎」と名付けています。

神社前の畑

 


■真野の長者--------------------------

藤原興世が真野の長者とありましたが、
「真野」は以前、冠嶺神社から深い妄想をしてました。
お参りしはじめたら、村の防災訓練なのか、
サイレンが鳴りだして、ずっとサイレン音だったんです…。

なにか防災訓練だったのか。
落ち着かない参拝だったな~ぁ。

真野の立石(猿田彦命降臨石)もあり、
真野川の名前はこの「真野の池」にちなむと伝わり、
道陸神山(現在の堂六神山)という山に泉があったそうです。

 

※立石

墨虎は、真野生まれ」とあったわけで、
やっぱり安部氏が関係する土地に、八幡太郎義家はいます。
大江山の金鉱脈に繋がる話しでした。

 

「岩清水」というだけあって、清水のおかっけ=タタラ場だったことも?

何をもって聖なる水といったんだろうーか。

地名も「鹿島」なので、
石巻の真野があり、それを繋げているのが、
「鹿島御子神社」 ということになる、という妄想をしてました。

 

とにかく福島・宮城は、鹿島のクニ・・・。

「ハタレ」は、エミシなのか?

それは違う!と否定したい。


このマップをまた持ってきますけど、
墨虎(霊山)の安部氏側は、真野川を下ってきていると思われます。
源義家と出会った場所かもしれないし。

海民のワタツミは、真野川を北西に移動したところに陣をはり、
山岳民族のヤマツミと出会ったと仮定すれば、
山民=安部氏、海民=源氏と、なる。

そこに残された伝承は、鬼退治になるわけです。
八幡神を置く理由がみえてきます。


さて、真野は万葉集の歌にもよく登場します。
平安時代、都からやってきた場所は、古墳が多く発掘されています。

「みちのくの真野の草原(かやはら)遠けども
面影にして見ゆといふものを」 

(万葉集巻3)

※陸奥の真野の草原のように遠いけれど
私にはあなたの面影が見えるというのに…

笠女郎が大伴家持に贈った三首の恋歌。

源義家のことについて、安部氏の敵、ということから、

東北地方では、源氏は対立してきた武将、ということになります。

 

なぜか、ずっと前に「源義家のお墓だ」という夢をみていました。

ひろ~い森の中に、大きな石碑が建っているのを、土手から見下ろしている。

そこまで行けるけもの道ができてました。

 

なぜ、そんな夢をみたのかわかりませんが、

何かを伝えたいのかもしれません。