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【EBM】の誤解と混乱にひとこと苦言

2006-09-18 15:14:47 | 健康・病気

今回は、一般の方々には、不要もしくは、わざわざ取り上げるべき問題ではないのかもしれませんが。あることを契機に、書かざるを得なくなったので、興味のない方は、飛ばしてください。

【EBM】という言葉は、医療人の中では良く知られた言葉ですが、その医療人たちがかかわってくる、病を負う方々には決して無縁ではありませんので、知っておくことも大事な生活の知恵になると思います。

直訳:科学的根拠に基づく医療。と書くと分かったような気になるでしょうがこれそのものに、【落とし穴・迷路】があるのです。

【EBM】が日本国内で医学用語として、普通に学会だけでなく一般の勤務医・開業医の会話の中に登場しだしたのは、ココ10年のことですが、
元来、18・19世紀頃から、医療現場で医師のとるべき基本的な言動で既に実践されてたことを、アメリカの実力者がきちんと表現したことが始まりです。
医学・医療では、研究と臨床は両輪です。
基礎研究はともかくも、臨床研究と呼ばれるものに、診断に関するもの、治療計画・効果にたいするもの、そのなかで
薬剤市販後の治療効果に対する、即実践に使えるものが多々あります。今回は分かり易さを考え、その類のものを例に話します。
喘息という病気を持ってる方に、長期的な改善を目指した治療薬として○○をつかうと、それを使わなかった方(ほぼ同数が原則)より、発作の頻度が・重さが減ったとか、臨時の受診が減った、入院になってしまうことが減った、などをきちんと何千人とか何万人とかのデータ数・母数で出してくるものが、スタディという形で、発表されます。
単剤でなく、2、3種の組み合わせで有効性を検討したものもあります。
この中で、信用性・科学的な正確性に関してランキングがあります。大まかに言うと、母数が大きいこと、ランダム性が高いこと(不用意な偏りを持たない>恣意的な集団はもってのほか)、費用・時間の問題があるため現実に再現は出来ないにしても、科学の本来的な【再現性】をもってること。この辺りを持ってると最高ランクのエビデンスとして認められます。
そのどこかが、緩んでたものは、結果的に残念ながら1ランク低く扱われます。いつもの戸高の場当たり的な記憶ですが、たしか5段階あったランクの2番手に。
一番信用度の低いものは、話が飛ぶようですが、お一人もしくは数人のドクター(主に高名な方)が、このクスリは良く効くと発言される場合です。この場合も、そのレベルとして捉えて、他の医師が実践するのは裁量の範囲内です。
このそれぞれの情報のエビデンスの信用度の高さを踏まえて、それを手に入れた臨床家(勤務医・開業医)が、自分自身の知識・経験と照らし合わせ、どの治療法をどの患者さんにどのような段階・時期の場合に使用するかを決めていくこと。個別性の高い、現場のそのときの状況を細かく配慮した上で個々の患者さんに提供することです。
この辺りを、日本はEBMを移入する時に、勘違いする形にしてしまった経緯があります。権威に弱い日本人独特の文化も背景にあるのかな。「エビデンスに基づく治療」と直訳してしまったまま、その用語の目的・指向性を知らないまま表面だけ分かったつもりで、自身の医療人としての行動を簡単化してしまった。

医療と言うものは、文明と同時に発展してきたものですが、本来的・根源的に経験論的に、経験の積み重ねの上にその正しさを信じて行われてきたものなのです。その歴史的背景を無視しようとする動きが、嘆かわしいことに幾多も見受けられるのです。

経験って大事です。卑近な例でいえば、「毒キノコはどうして見分けられるようになったのか」という命題の一番分かりやすい解答は、「それを喰って死んだ奴がいたからだよ。」です。好奇心旺盛で、勇気のあるヒトが、そのイノチを持って身近な者たちに、大事な知識をもたらしたのです。これもひとつの解釈にしか過ぎないでしょうが、小生の伝えたいことが端的に示されてます。

麻酔が今の外科学の隆盛を、種痘を我が子にすることが予防接種の隆盛を導きましたが、それは医療人が自身の経験と信念に基づいて、第一号を選び、リスクを自身で負って実行してきた結果です。

科学者全般に言えることですが、自分の仮説に信念を持つことと同じくらい、他の研究者の発表の科学的根拠に対し批判的な批評を、自力で判断していくことの重要性を忘れてはいけないと存じます。無批判にあるエビデンスだけを金科玉条のごとく、揚げ奉って使うのは危うい。

医療の現場ではそれはすなわち患者さんへの不利益につながりかねない。

臨床家が、ご自分の信念に基づいて診療を行うことは大事なことです。一部の方は、それさえも感じられない時代の中では、有益な臨床家だと思います。が、【変化】を認めないのは最低です。いまこの時でも、世界中の研究者が臨床家が切磋琢磨で可能な限り信頼性の高いエビデンスをだそうと活動してます。だからこそ、その発表の段階で受けいられていたものが、明日は塗り替えられることは、常です。

覆ったものは、決して無意味ではありません。ニュートン力学はアインシュタインの相対性理論によって、覆った・全くのウソだったわけではありませんよね。少なくとも、地表の力学や、太陽系の中のほとんどの力学は、ニュートン力学で説明できます。太陽の向こう側に隠れるはずの恒星が一部だけは、光の粒子としての性格のため太陽の重力場を凸レンズとして曲がってしまい、地球上で観察できること。惑星の運動の微妙なずれも、相対性理論を使わないと説明できない。ですから、ニュートン力学は、相対性理論のシンプルで使いやすい近似式として、現代物理学の大事なポジションにあるのです。

で、変化を受け入れることは最も重要な行為。新たに出たエビデンスがどの程度の信頼度を持ってるのか、以前のエビデンスとどれほどの違いを持ってるのか、受け手としての自分の信念・仮説とどれほどの隔たりがあるのか。充分に思慮深く検討する必要があるのです。そのときに、もともと個々の脳みそでしかありませんから、信念は変えたくないのが本能的な反応だし、自然な動きですが、拘泥しすぎないこと。この弱さをきちんと自覚した上で、自身の知りえたエビデンスを微調整・修正することと、たまには信念のごく僅かながらでも変更をする勇気が必要かと。

これが、EBMを提唱された方々の、最も期待してたシステムだと心得ます。研究・臨床の各々が協力して、最善の医療を目指す。個々の臨床家に望むことは、エビデンスに基づくのは結構だが、無反省に無批判にそれを根拠とした医療をする、つまり自己責任を負うつもりなく実践することではなく、【エビデンスに批判的批評をくわえた上で、自身の自己責任において実践する】と小生は解釈してます。

文章があっちこっちへフラフラと蛇行してるのは感じてるのですが、思い入れが強すぎるのでしょうか。尻切れトンボの疑念がフッとよぎりますが、このくらいにしておきます。

最後に、検索エンジンでEBMで検索かけると、見事に戸高と反対、もしくは、水と油のようなホムペ・ブログがあるようです。これが、小生が語りたくなった原動力です。経験や、個々人の批判的批評を加えたうえでの実践を、ばっさり否定するグループが多々ありますが、単に、未熟。このシステムの深みを習得しそこなったのだ、とバサッリ切り捨てておきます。

この件に関して、果たして戸高の言ってることは世間のコンセンサスがあるのだろうか、と考えてる読者の方は、正解です。そう、小生とその反対の立場のかたと、いずれに?と疑問をもつこと自体に大きな収穫があるのです。調べてみてください。多分、コンセンサスは戸高にありとなると思いますが。この言い方自体が小生の自負でしかありません。

ちなみに、今15:10です。朝10時過ぎから関連の文章書き始めましたので、5時間・正味4時間半ってとこかな。しんど~。