再掲...【列伝】:尊敬する医師たち | todakaclのブログ

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呼吸器内科開業医(救急救命15年/呼吸器40年)
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再掲...【列伝】:尊敬する医師たち

2014-10-29 21:27:32 | 健康・病気

OCNブログ人からの移行のさい文字数制限でちぎれてしまったのが
何章かあったんで、ぼちぼち再掲しとります。
新作は今しばらくお待ちくだされ。(^_^;)

【列伝】:尊敬する医師たち04/09/03

最近、不満ネタ・遠吠えが多くなってたので、ココで爽やかな話をばひとつ。
25年前医師になりたての頃に話は遡る。
小生を10年育ててくれた総合病院は、救命救急でも福岡随一の救急搬入数を誇っていたので、4月に入職、5月に医師免許を手にして、最初のローテ(ローテーション)の科目(循環器科、呼吸器科、脳神経内科、代謝内分泌科・・・消化器内科は2クール、外科、小児科、産婦人科、リハビリ科は後期)を1クール3ヶ月で廻り始める。
や、いなや、2クール目の科に属した9月には、オーベン(指導医)付きの二人当直に入り、月4,5回こなし(中途からは殆ど、初診察・治療が研修医自らの実践を、オーベンがチェック)、なんと、なんと10月には1人当直に。といっても、9月はB当直と呼ばれる救急搬入患者だけを診る医師が実質二人で、10月からそれが研修医の初診察にうつるわけだが、院内にもう1人A当直と呼ばれる、「歩き外来」(後にコンビニ外来と悪名の高い)として、15年以上の大オーベンクラスが17時半から8時半までいらっしゃる。
ので、「やばい!」と思ったら、電話する・もしくは25,30mを走って(?:訳は後述)上申すると、急患室においでになる。てな、【システム】で、育った。
病院・医院というのは、10月から翌年の3月までの6ヶ月間というもの、てんてこ舞いに忙しいものだ。その期間に生まれてはじめての救急外来をぶつけられるものだから、「育つ」「育つ」急速に、医師のセンスを手に入れることが出来る。
【自分だけでは無理】というスイッチさえ持ち合わせていれば、大オーベンがカバーをしっかりしてくれる。その上、救急専用病棟が13床、急患室が4床、さらにICUが6床あるので、少しでも怪しげな患者は一泊入院してもらうように、きっちり指導されてるから、数時間から10時間くらいを管理する義務のみで動ける。実践から学び取って築き揚げられた、タフで安全なシステムだと思う。
2年間でこの救急の場数(1,2年目の医師は月5回)を経験し、内科+外科・小児科系列のローテーションも済ませ、3年目には大体いずれかの科に入局する。その3年目の医師(小ベン〔オーベンのミニ〕)が今度は、翌朝ヨクアサ8時半からの申し送りをうけて、3Bといわれる救急病棟、急患室、ICUに前夜入った、救急外来で経過観察入院になった患者を診て廻り、帰宅、検査追加の午後帰宅予定、各専門科へ対診・即入院、たまにどの科でも可能なcommon diseaseは順番制で配る。
小生は、救急大好き人間(自身単純な奴ゆえ)だったので、5年目でもこの役をやってて、経験値から土日がらみのハードになる月曜日をずっとやらしてもらってた。
「好きなんだな~、これが」の楽しい日々。変な奴かも。
少し戻って、「走る」に「?」がついてるのは、呼吸器科の後の部長になったオーベンが、一番直接的に小生の呼吸器科の医師としての修練・技術の伝授をくれた方なのだが、
「医師は、どんなに急ぎだといわれても、走ってはいけない。看護婦が走って横をすり抜ける事態でも」と。
つまり、走れば酸素消費量が5倍に跳ね上がり、筋肉への供給に取られ、脳の血流・酸素が欠乏することになり、到着しても3-5分は使い物にならない頭脳が突っ立ってるだけという事態を招きかねない。という訳だ。至極もっとも。凄い実践的知恵。
この方は本当にそうで、長白衣を棚引かせながら時速5,6kmで、早足の長身の姿はとても格好のついたものだった。
連想で思い出した。誰の姿だったかは思い出せないが、小生は生まれつき掌テノヒラ・手の甲が温かい。から、苦労知らずだったのだが、ある先生がいつも右手をズボンのポケットに突っ込んで歩く、スリッパに、長白衣の前を止めず、なんやだらしないなあと思ってたら。曰く、腹部の触診のとき医者の手が冷たかったら、ヒヤッとさせて申し訳ないやろ、それに診察の所見の阻害になる。だと。こわー、化け物の住処かココは。
時系列の方に戻すと、6年目くらいに、「もう、月曜の急患振り分け当番は辞めんね。」と引導を渡された。後塵の育成の邪魔・チャンスを奪ってるから。
その頃かどうか記憶が定かではないが、ICUは歴代、循環器科か呼吸器科の医師が医長を勤めてるのだが、小生いつも6床のうち2,3床の主治という状態だったので(主にventilater呼吸器がらみ)、医長が学会とか、急な家族の用事(奥様出産てのもあった)で不在のとき医長代行をまかされてた。もちろんバリバリの循環器疾患は時により、同期の循環器科のホープに頼ったのだが。こいつもいけてる。入職時から素でペッタンペッタン歩きだったんだ。急患室とかでも、他の2,3人の医師が患者の1m以内でバタバタ働いてるときに、壁際から眺めて徐オモムロに一番大事で優先すべき仕事に取り掛かる。格好いい~。という小生も割と同じポジションどりしてたなあ。自画自賛。生まれつきのパニックになりにくい性質のようだ、二人して。
良い話ではないが、粗忽さの目立つある同期の医師が、急患室で止めるまもなく処置を誤り心肺停止になったのに居合わせた二人は、数秒後にはCPR(caldio-purumonary resasitation?:心肺蘇生)を開始。腹の上にまたがってゴンゴン胸板を押すは、片や顎にでかいマスクをあてがいグイッと抱え込み、アンビューという簡易人工呼吸バッグを過換気になるようにバシバシ握り締める。やりそうな気配が前もってあったから。その速さゆえの完全回復で、胸なでおろし、そいつの粗忽さを思いっきりナジリ、指導したものだった。久々に再開すると、この話が出てしまう。だって、二人ともまだ1年目で、3人の目の前でひどいことにならないかと「冷えた」のは確かだから。雛ヒヨコだった頃の話。ま、頼もしい戦友だわな。
そうそう、救急に関しての最大の師匠は、一番長くICU医長を勤められ救急学会にもしょっちゅう参加されてた循環器科の科長だ。
逸話が、数え切れんほどある。
ICUで人工呼吸管理されてた患者が、急にfightingファイティング(呼吸器の送気と自発の息がぶつかって喧嘩する)になり、原因が分からないと看護婦たちが騒いでるところに、通りがかった・顔を出した彼のカノ先生は、一瞥をくれるや、注射器棚に行き、一番でかいべニューラ針(18Gゲージ)を持ってきて、ブスッと左胸の横合いに突き立てたのだ。その途端、ブシューという音と供に【脱気】の快音が皆に聞こえ渡った。「ヒエー、だよ」。【緊張性気胸】といって健康なヒトに起きても、命取りになるようなもので、ましてや人工呼吸器をつけてると肺がつぶされて回復不能になる重症だったのを、レントゲンも撮らず、見た目の胸廓(胸の外側のこと)の動きの左右の差を見ただけで、診断・治療までが2分の、鮮やかな技。見せてもらった。
まだある。この病院は、某南〇〇病院がてこずる・診なくなった重症の喘息患者を多く抱えていた。というのは、小生の大師匠:吉川浩一先生がいたから、なんぼでも集めてしまったのだ。悲しいかな、先生の患者はこの10年の吸ステ全盛期前の、命がけの闘病を繰り返していたために、発作を起こして、テンションの揚がる運転中は病院まで何とか持たせたものの、たどり着いた「安堵感」で、副交感神経が優位になり、駐車場で事切れたのを職員に発見された方もいた。
友人が訪問すると、4畳半の自室でスプレーと受話器をもったままの姿を見つけられたり。
師匠はそのたびに、暗く、葬儀に必ず参列し、侘び、また暗く職場で働く姿が、強く印象付けられた。小生は若く、死と向き合うのがまだ不得手だったから、なお強烈だった。
ICU医長の武勇伝その2。外来まで何とかたどり着いた喘息発作の患者は、受付から車椅子で、30mさきの急患室まで運び込むのが常だったのだが、ある日の患者はそうはいかなかった。事務職が緊急性を診て(皆よく訓練されていた)、看護婦を呼び車椅子に乗せた時点で、この患者は呼吸がほぼ停止してしまった。そのばにカノ医師が居合わせ、なんと、なんと、坐位のまま【挿管】(気道の中に、専用のビニール管を入れて空気の出入りを確保する)してしまったのだ。
この頃の喘息発作では、なくなった方々の気管を検アラタめると、下手をすればブジーという先端の丸くした針金のようなものさえ通らないほど、全く空間がなくなってしまってることが間々あった。つまり、あの場で挿管しなければ、次の瞬間には直径12mmほどのビニール管はもう入れられない。死を意味した。
なんなんでしょうね、カノ医師のセンスは。追いつけそうもないけど、同じ空間で仕事ができることを誇りに思えた。その上、のちに成長してからは、時に代理を任じられたときの喜びは大きい。
小話。武勇伝ではなく、かわいらしいことで。小生、コンピュータは1ボードの「機械語」の頃から、そしてカセット・テープを記憶媒体にした、アメリカ製のPETを医学部の教授から寄付してもらったクラブや、医学部の先輩のシャープ製の8ビットマイコン(マイコンピュータ:この頃の呼称)。ついに富士通FM77AVや、16ビットのNEC9800シリーズを手にして、「Basic言語」という英語の文章だけで、プログラムが組める時代に生きたので、ハード・ウェアはからっきしの癖に、ソフト的な改編・修復は鬼のように得意だった。
先輩のシャープを借りたときは嬉しくて、雑誌のスター・トレック(宇宙大作戦:宇宙戦艦エンタープライズやバルカン星人の冷静なスポック船長、フランス系医師で熱いドク、WAPS典型像らしい果断なカーク船長などなど)のコンピューター・ゲームの元祖を活字から、Basicで入力に10時間、Bugバグ(プログラムの虫:ゴミ)とりに20時間、計30時間たぶんカップ麺1,2食だけで不眠で、動かした。かなりなオタク。
そいつ自体は、本体を返すと供に先輩にプログラム入りのカセットテープごとプレゼントした。
後の時代に、そのシャープが技術の発展ゆえに、手の平電卓の大きさで同じ機能を発売したとき、またまた、移植して、結局10年近く遊んだ。液晶が溶けたのだ。5年目の医師の頃、MR(当時プロパーという呼称)が、そのゲームみたさに叢がってムラガッテ、金曜の昼休み人だかりだった。
この前振りは、何かといえば、当時50人が同じだだっ広い医局に、休憩やカンファレンスや昼食を供にしていたために、人間関係の風通しが良く、なかでも小生が、7,8年目を迎える頃は、DOS-V:IBMが未だ未発達であったために、NECの一人舞台であり、PC9800ばかりが十数人の医師の手にあった。でもって、よく壊れる、壊すのだこの人たちが、先輩諸氏が。だから日常的に18時くらいになると「戸高~、時間ある?」「ほ~い」「実は、うんたらかんたらがおかしいんよ。診てくれん?」
楽しい仕事ですよ。4,5年目までは雲の上の方々。7,8年目になって皆さんからお前はもう横並びの同僚で、もう弟子ではないといわれるようにはなったけど、やはり恩義は厚い。恩返しの安売りでした。
なかでも、カノ医師は、音痴なのです。医療やコミュニケーション、知力において抜群だったのに、こんなものですよね。で、5Bという循環器・呼吸器混成病棟のカンファ・ルームに置いてある、循内専用のPCのところへ行くと、確か記憶では、立ち上げシステムそのものを壊したらしく、かなり重症。下手に賢いから、充分に壊してくれてる。で、18時くらいから夕食もとれず23時くらいまでかかって、修理。完遂。
そのとき、カノ医師が発した言葉が今も残る。「俺、生まれて始めてヒトを尊敬した。」ですって。なんか、わかる。県内ナンバー・ワンの進学校の高校を3年間ろくに勉強もせず、ぶっ千切りの1番で、九大医学部でも上位(1番だったかも)の人物の【孤独】がです。
たまに、小生のホームページの掲示板でも告白してますが、IQ(死語:頭の働きを無理やり数値化)で60以下とかは、世間の救済の手が差し伸べられますが、逆は?
友人との会話で、全力で話し始めると、相手のサーモスタット(もしくは温度ヒューズ)が焼ききれて、バオワーっとついて来れなくなってる虚ろな視線が、目に入り、「無理か。」手加減しなきゃの連続の半生なのです。
カノ医師は35才前後で、生まれて始めて全力で語れる相手を手に入れた喜びの方が、PCの修復より数十倍も嬉しかったのです。
自慢・傲慢に取られかねない顛末なのは重々承知。の助だい~っ!
ただ、「足が速い。運動会のとき小学校の1年から6年まで全部対団リレーに出てた。」は言ってもいいのに。頭脳が、柔軟、連結力・連想力がある、記憶が深いなどの知的能力の高さだけは、自身で語ることが、何故に、タブーなんでしょうね。
人類はその能力ゆえに、万物の霊長になったベースを皆が持ってるために。知的能力の評価が、全人格の否定になるかもしれないという本能的な恐れが、底流にあるように思います。まちがった解釈でしょうかね。??
申し添えると、小生の知ってる方々は、私利私欲にその能力を使おうとかは考えもせず、大学の教授や、研究員、医師になって、【貢献】に生きがいを見出そうとしてます。どちらかというと人間くささが薄れ仙人に近い気がします。小生の人間くささ、闘争心からは遠い。
また、重くなっちまいました。
別の方カタ、こちらも輝くような医師としての誇りを備えた胸部外科医。
大学に入るときは、勉強が足りなかった様子ですが、がんセンターへ研修に行ってから、そこで無茶苦茶に人気だったようです。残れといわれたようなくらい。使命感からか病院に戻ってこられましたが、医療での博識・実績は凄いものです。取り組む姿勢にも気迫を感じます。
あの長身の呼吸器科のオーベンと仲がよく、3人で夜の8時頃に院内のすべてのCT画像のdouble checkの際は、親分肌の呼吸器科医に、2人とも時々伸びるボールペンでペシッペシッっと手の甲をたたかれながら、笑いながら読影したものです。
その3人で、気管支ファイバーで検査をしてたある日、大事件が。
小生が術者だったのですが、当時ビデオ・スコープ化されていたので、お二人はブラウン管で眺めていたのですけれども、3人で「あっ」といったときが始まりでした。
喀血(気管支からの出血)の患者さんを診てたのですが、血栓(血が固まったもの)を手繰っていって、出血してる気管支・気管支枝を探そうと、痰やら血液をソロソロと吸引しながら、ファイバーの先を勧めていくうちに、「ドン」と血栓の塊が先端に吸いつけられてしまい、その奥から信じられないほどの勢いで(多分動脈性出血)血液がとめどなく湧き出し、視野が真っ赤かに。
お二人して「戸高、突っ込めーーー!」です。先端を使って塞ぎ、止血することです。「はいーーー!」で、一応間に合い、口からは喀血せずに済みましたが、止まらない。全然です。1時間しゃがみ込んでファイバーを両手で固定したまま。
「このままオペ室に上がるぞ。」ストレッチャー(移動式の簡易ベッド)に乗ってもらい患者さんと4人でオペ室の1室へ。いざというときには開胸して、止血に挑戦してくださるつもりなのです。条件の悪い、非待機オペ。
結局は、3時間かかって止まりました。
呼吸器のオーベンは、その99%の重々しさとともに、チョイ軽カルのヒトで、すべてが上手く言った後。
「頭ん中で、医師免許がひらひら飛んどった。」だと。そしたら外科先生も「俺も」。小生はただのクタクタのぼろ袋・ぼろ雑巾だった。よき先輩に恵まれた。
もう、朝の3時55分です。
締めます。
後何人か語りたかったのですが、後日。
【吉川師匠】 :患者に対する限りない愛情、優しさに満ち溢れてる医師を見ました。
患者がどんな言動をとろうとも、まるで「迷える子羊」扱い。簡単にはその境地に達せそうにない。食って掛かってきても、ダブル・バインドの罠を仕掛けて来ても(要求が矛盾して、治療法を縛ってくる)、病気による苦悩がそこに追い込んだと解釈して、「どうしましたか?苦しいですね。大変でしょ。」当時の小生には、まるで言えない。
限りない戦いや苦悩を経験されたからこその、本物の深いやさしさでしょう。
小生なりに、なよなよした優しさは偽者とみて、たくましさ・強さを持ったもののみが見せれるやさしさがあると信じてます。それだと思う、これは。
一貫性も感じます。小生のいた頃は、喘息の畑で懸命でした。喘息治療の黎明期からの医師であり、吸ステの可能性(第I世代:ベコタイド、アルデシン)の効用をしきりに語り、いろんなところへ広めようとされてました。まだ、気道抹消への到達が悪く、かなりな数の吸入をしないと実感がわかない道具でしたが、確かに可能性があった。
その実、小生の得意分野のventilation中の患者にTピースという三股を蛇管ジャバラ管につけて、1日に4回2吸入させると、ソルメドロール125mgを1日に8本ぐらい使ってた患者が、それでも快方に徐々にしかいかなかったのが、2,3日から4,5日で離脱(呼吸器が不要)になるケースが続出したのです。吉川先生は、人工呼吸器音痴・ICU音痴だったのでこの知らせをとても喜んでくれました。もちろん小生自身も。
その歴史もない医師が、いま「吸ステさえあれば、全快だ。」と息巻くのはどんなものかな。
ともあれ、小生もそうですが、医師としての成長考想、年齢相応の役割分担を見据え、師は、東区香椎で開業されたのを期に、「在宅みとり」(末期の患者さん・家族の最後を有意義に過ごさせる)の分野に突っ込んでいかれてます。
東区の名だたる病院の院長・教授が、その半生をかけた先生の書籍の出版記念会にほぼ全員顔を揃えられていました。すばらしい評価を、師はいただいたのだなあ。
益々の、ご発展を祈ります。
先生方みなこの意気で、先をあるいてくださいね。H21.4.3 4:18a.m