百姓でいのちき -49ページ目

もも泥棒!!!

桃の収穫をしています。



電気柵をしていますが、未確認動物さんが毎日数個の桃を食べています。

きれいに食べてくれると少しは嬉しいのですが、

ちょっとかじっただけ贅沢に食べ散らかしています\(*`∧´)/

生き物のお世話係ですが、我慢の限界。

話し合ってだめなら、捕獲してみようと思います。


桃の木にいたクワガタさんとカブトムシさん







明日も、早起きおやすみなさい

「Let it Go」♪

近頃は、娘のおかげでこの曲が頭から離れません(・・;)



これは、何かのメッセージ?

とりあえず、畑を「ありのままに」観ることにしました。

これが、なかなか手強いです。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」ユリウス・カエサル

そう、見たくないものは見えてない!

観えてないものが、たくさんありそうです(^^;)

初心に帰って、学びなおすことが近道!

今日は、ありままの自分に従い寝ることにします。

おやすみなさい^^

炭素循環農法HPより引用

リセット
天の啓示や信仰と無関係な我々は先ず、何の理論的根拠もない「人=脳」が作り出した知識や技術(慣行、有機、自然農法など)、自然そのものに対する見方(人=脳が見た自然)を一旦リセット、拘り(人=脳の思い)を捨て、在るがままの自然の姿を、初心に帰って学びなおすことが近道と思います。


はじめにお断りしておきます。

葉色が濃くなる薄くなる、虫が付く、食味の低下など、転換時には必ずと言ってよいほど「施肥障害」が一時的に目立つようになります。

この際、他(資材など)を疑う前に先ず自分を疑い、微生物の生息環境(特に酸欠対策)を見直しください。

自然の側から事象を捉えることを忘れれば(責任転嫁)、真の原因が見えなくなってしまいます。

豊富(余計?)な知識を持つほどに、犯しやすくなるミスです。

土作り=微生物の飼育環境整備をして放し飼い。

常に“息をしている生き物を飼う”という感覚が大切です。

微生物を窒息させない溺れさせない。

そして、知識に溺れない(笑)。

晴耕雨考( ̄ー ̄;

「考える」を「考える」。

普段、何気なく考えているつもりでも、本当は考えているのだろうか?

考えてると思っていることは、今までの知識や経験などの常識で、本当の自分の考えではないのではないか?

考えるとはを学んでいます(笑)

14歳からの哲学 考えるための教科書<著>池田晶子より引用
 
悩むっていうのは、どうすればいいのかわからないってことです、と君は言うね。

そうだろう、君はわからないから悩んでいるんだ。

でも、どうなんだろう、もし本当にそれがわからないことなのだったら、君は、悩むのではなくて、考えるべきなんじゃないだろうか。

あれこれ思い悩むのではなくて、しっかりと考えるべきなんじゃないだろうか。


 考えるというのは、それがどういうことなのかを考えるということであって、それをどうすればいいのかを悩むってことじゃない。

それがどういうことなのか考えてわかっていなけりゃ、それをどうすればいいのかわからなくて悩むのは当然じゃないか。




炭素循環農法HPより引用

自然農法症候群
自然の理に沿った時、どのようになるのか(未来)を、誰も知らないのです。

そこで人は、己の知識(過去の見聞や経験)を基に事象を捉え、法則とは無関係に己の脳(既成概念)を基準にします。

各人・各様、捉え方が微妙に違い、頭の数だけ「自然風農法」が生まれます。

その結果、根拠のない身勝手な結論(自己中心の妄想)を導き出し、自然の理に反する「排除行動」をとります。

排除=防疫・防除=殺し行為。何であれ排除をする限り、施肥・防除の殺し農法と本質は同じ。

本物とは似て非なる似非自然農法。自然風慣行農法(猿真似農法)と呼ぶ所以です。

自然モドキでは混乱しそうなので・・・(笑)。


梅雨入りだワン!

九州も梅雨入り。激しい雨が降っています。

我が家のワンコは、トイレは外。

なにかがお気に召さないのか、おしっこシートではしません( ´(ェ)`)

雨の日は、外につれて出てもなかなかせず、

我慢できないと、座布団や畳の上でこっそりしていますヽ(;´ω`)ノ。

どうしてなのか?ワンコに生き物の気持ちを学ばせてもらっています(^^)



梅雨入り前に、早生(わせ)と中生(なかて)の桃は、袋がけ終わりました。

今回、晩生(おくて)の桃はもう少し様子を観てから袋がけします。


土の中に生き物を増やすことで、おいしい作物ができる「たんじゅん農法」

排水が悪いと、雨で土の中の生き物が溺れ窒息して腐敗側に。。

この梅雨で、さてどうなるか。




炭素循環農法HPより引用

一旦、飼い始めたら(意識を未来側に)
もちろん、生きものを飼うのですから、作物の有無(作付け)と関係なく餌は必要。

一旦、飼い始めたら最後まで飼う。それが生きものを飼うということ。

飼育者として、基本中の基本です。

結果=過去を見ていてはダメ。先を見る。

意識を常に、未来側に置くことが炭素循環農法=自然農法の鉄則。

これができていない内は、自然農法をやっているとは言えません。

「やっている」と「できちゃった」は違います。

袋かけ係3号

今日も、暑かった( ̄_ ̄ i)
昼間は暑いので、桃の袋掛けを早朝からしています。

今日は、高校生の息子が甘い話につられて手伝ってくれました(笑)



今のところ、こんなにたくさんは成らせないので、数個を残して落とします。

しかし、こんなに暑いと、土の中の生き物たちはどうなるのでしょう。。。
袋掛けが終わったら、有機物で日除けなど考えてみます。


炭素循環農法HPより

資材の活用?(今を忘れないで・・・)

「何々のおかげ」。これを裏返せば「何々のせい」。

品種、種苗なども含め全ての資材に対し、よく聞きますが何のことはない単なる責任転嫁、責任逃れ。

また、頭痛に胃腸薬を飲ませたり、熱が下がったのに解熱剤を飲ませ続けるのと、同等な行為をよく見かけます。

そして、そのような者は決まって何々は「効かない。ダメだ」と異口同音に宣うのです。

自己中心に物事を捉え、自然農法の基本中の基本「自然が基点」ということを全く理解していない証拠に外なりません。

どのような結果であろうとも、特定の「何々」の問題ではなく、自分の行為(思考)の結果です。


時には、断食や投薬、補助食品なども必要です。

しかし、回復し始めれば、重湯、おかゆ、普通食へと徐々に戻したり、投薬も止めるのが当たり前。

ところが「効いたから」と特定資材(方法)に拘り、何時までも使い続けて「ああでもない、こうでもない」と悩業?脳業?(笑)。

問題を複雑にして、二進も三進もいかなくなっている例が多すぎます。

特に効果が高い米糠や微生物資材などで、この罠に嵌ります。


もうこうなると病的。特定資材依存症?とても言ったら良いのでしょうか。

「何かを与え作物を作る」これは施肥農法の思考。自然農法ではありません。

裏には自己中心から来る依存心、そして不安と恐怖。


そもそも、万能資材などというものはありません。

物は使いよう。どのような資材でも使い方次第で良くも悪くも作用し、「場」の状況次第で善にも悪にもなります(院内感染:日和見感染がその好例)。


土ができ上がれば餌以外、何一つ必要ありません。しかし、転換期の土壌は日々変化しています。

土(土壌微生物群)に“今”どのような環境を与えれば良いのか、何が必要か。

それが作物の明日にとって何を意味するのか、微生物の「立場」、作物の「気持ち」になって考えればよいのです。

明日(未来)を思えば今が決まります。過去ではありません。

 過去ではありません:
過去は障害でしかない。「これを使ったら微生物が増える。これは抗酸化物質を作る。」などの結果(知識)。未来から見るために必要なものは想像(創造)力、過去に役に立ったもの(結果)ではない。よく観察し頭を使う。

人は下僕(微生物飼育係)。自然が主ということを、くれぐれも忘れないようにして下さい。



サラダ農法

ユンボで掘った土に植えたジャガイモたちに今更ですが、
三角ホーでスギナやヨモギを削って土寄せしてみました。





炭素循環農法HPより引用

サラダ農法 - 無肥料(堆肥やボカシも使わない)。

無施肥による無肥料栽培。結果として無防除(無農薬)です。

無施肥なら無肥料かというと、そうとは限りません。

土壌には自然あるいは人為的な多様な経路から養分供給が行われ、条件次第では特定成分が「肥」となることもあります。

勿論、養分供給が行われなければ作物は育ちません。

作物にとって無肥料ということであり、無養分ということではありません。また、無施肥=無資材でもありません。

「肥」にならないよう適切な資材を使い自然の持つ力を最大限引きだします。

単に、何も使わない、耕さないという自然に対する「甘え」の「自然の猿真似農法=箱庭農法」ではありません。

<中略>

堆肥やボカシ、たとえ緑肥でも作物の肥料になるもの、なるような与え方はしません。

自然の野山を見れば分かるように条件が整えば、植物(作物)の必要とする養分は賄えるようにできています。

無施肥の場合十分な餌を与えれば、微生物による土の浄化(無機態窒素の吸収や腐敗成分の分解)と共に土壌微生物(バイオマス)が著しく増え、餌をたくさん食べるようになり、成育速度も想像以上に早くなります。


<中略>

もし、餌が不足し微生物が餓死したり飢餓状態になれば、作物は栄養失調、成長遅延、野生化(退化現象=小さく硬い、繊維質、青臭くアクが強い)。

肥沃地とは逆に貧栄養に強い雑草が優勢になり、土の浄化もできません。

そして、栄養失調の貧弱野菜は糖やビタミン類も少なく不味くなります。


その典型が過去の「猿真似自然農法」の貧弱な作物や、漢方農薬を必要とする浄化不完全な土です。

成長も早く見かけも立派で虫(菌)も食わず、高収量(慣行並か、その2~3倍)でなければ本物(本来の人の食物)ではありません。


<中略>

団粒化に貢献するといわれる、ミミズや有用センチュウ等の微小生物は、微生物がいて初めてその力を発揮します。

尤も土がフカフカでミミズが沢山いるようではまだ、土ができていない証拠。

現行の有機(堆肥)農法を見れば明らかなように、菌害や虫害が出ます。

炭素循環農法では糸状菌が先に有機物を食べてしまい、細菌類や昆虫、ミミズは消えてしまいます。

微生物が有機物を分解し微小生物の餌とし、微生物自身も彼らの餌となり土壌中の食物連鎖ができ上がります。

尤も実際には、肉眼で確認出来る虫はほぼ全て消えます。

<中略>

生ごみ処理の場合のような、堆肥化は否定しません。

しかし「処理」ではなく「利用」、わざわざ大量の有機物資材を、手間暇かけて堆肥化し、資材が本来持っている力を、無効化する現行の「有機堆肥農法」は、限りある有機物資源と労力の無駄使い。

環境破壊以外の何ものでもありません。

自然の理に従えば最小限の手間や技術、資材で最大限の効果が得られます。

生生生・・・生の有機物の投入により微生物を生かし、土を活かすサラダ農法が第一の基本です。

たんじゅん農法交流会in宮崎

今年は、炭素循環農法の提唱者の林さんがブラジルから来日され日本全国でお話をされています。

先日、宮崎の交流会に参加しました。


マルエス農園さん


てげなっちょファームさん



林さんのお話から、

プロは慣行農法の収量を超えること。生産性をおとすな。

1人で100haをやる心構えが必要。

今実践している人は、条件の悪いところでやって、将来に備える。

たんじゅん農法と慣行農法は、紙の裏表と同じ。
どちらの技術も必要。

余計なことをしない。余計なことをしすぎる。

収量が多いほどおいしい。少ないようではまだまだ。

横のつながりが大事。人も多様化。人間も団粒構造。

腐りやすいから、朝どり、新鮮。古鮮がほんもの。古くなるほどおいしくなる。

たんじゅん農の技術は古いもの。戦前、アマゾン古代文明。

虫を殺した分は、人の命が引かれる。
農業者は人の命をあずかっている。

いのちのエネルギーは、いのちでかえす。

自然は事務的。非情。強い者の見方。強くないと処分の対象。

油は妖怪の食べ物。

廃菌床はいらない。

腐敗した土は黒くなる。

転換期はやせさせない。どこも、やせすぎ。

土が固まるのは、腐敗の結果。

腐敗成分、硝酸窒素、農薬←まずい

発酵成分、やわらかい←おいしい

臓器移植は、究極の共食い。

答えは新しい人にしかもらえない。

自然が先生。

<炭素循環農法HP>とびらより引用
「農法」とは銘打っていますが「自然が“いのち”を生かしている仕組み=“いのち”の生かし方」の応用編(農業編)。

施肥・防除の慣行農法から自然農法と言われるものまで含め、農業面から捉えた、自然全体(そのもの)の説明です。

数ある巷の「○○農法、栽培」と同列次元で考えていては理解できません。

実は炭素循環農法などというもの(農法)はないのです。

ここは、強いて言えば「炭素循環農則」のページです。
 

自然は一つ故に、そこに基準を於いた唯一無二の、人が生きるための術、即ち真の自然農法があるだけ。

今まで「自然農法」と言われているものの全ては、基準が人の側にある「人農法」つまり、自然風慣行農法。

本物とは似て非なるものです。



林さん、ありがとうございました。


画像は悪いですが、林さんのお話が聞けます(電池がきれてしまい、途中まで)。

その1
その2
その3
その4


14歳の君へ

桃の花が咲き、散って、もう小さい実ができています。

これは、3月30日の写真(^^;)



今日は、雨。

頭の方を、耕しています。4◯歳ですが(^^)


14歳の君へーどう考えどう生きるか
(著)池田晶子


「自然」より引用

 じっさい、生きていることが自然なら、死ぬことだって自然なんだ。生命つまり生死の不思議さは、人間の意思なんかはるかに超えているんだ。
 だけどこのことを忘れた人間は、意思で自然を支配しよう、支配できると思い始める。地球上に残された最後の自然としての人間の体、つまり生命が、科学技術によりどんなふうに変えられてゆくか、君も知っているだろう。臓器移植やクローン技術で、難病治療は可能になっても、技術はそれにとどまらない。人間の欲望がとどまらないものだからだ。臓器を取り換えながらいつまでも生きている人間や、同じ顔をした同じような大量の人間が、作り出されることになるだろう。こういう不自然で不気味な世界で、「生きる」とは、いったいどういうことなんだろう。
 死ぬのが嫌で、いつまでも生きていたいと思う人間の欲望が、こういう不気味な世界を作り出すことになる。死ぬという自然を、自然として受け容れてこなかった結果なんだ。むろん命は大事なものだ。だけど命が大事なものなのは、死ぬということがあるからだ。人間は必ず死ぬものだからこそ、生きていることが大事なことになるんだ。死ぬということがなくて、いつまでも生きている命、いくらでも作り出せるような命が、どうして大事なものであり得るだろう。命が大事で、いつまでも生きていたいという不自然な欲望をもったがために、逆に命が大事なものでなくなってしまうんだから、本当に皮肉なことだ。
 こういう愚かしくも不自然なことをする人間は、はたして自然なんだろうか、不自然なんだろうか。宇宙という自然における人間という存在とは何だろう。
 人間の体は自然だけれど、人間の欲望が不自然なんです、と言う人がいるかもしれない。おそらくそれは正しいだろう。そして、この不自然な欲望を作り出しているのは、人間の脳だ、と、現代科学に明るい人なら言うかもしれない。けれど、ここで気がつかないか。その不自然な欲望を作り出す人間の脳を作ったのは、しかし人間じゃない、自然だ。人間の脳を作ったのは決して人間じゃないんだ。
 ここにも、人間と自然との間に、不思議な入れ子の関係があることに気がつくだろう。人間と自然とは、やっぱりどうやっても別なものではあり得ないんだ。この不思議から目をそらさずにいるだけでも、何が自然で何が不自然か、わかるようになるはずだ。あるいは、自然も不自然も超えた何かを、感じるようになるかもしれない。
 これから始まる生命技術の時代、君は、生きているとはどういうことか、何のために生きているのか、いよいよわからなくなるだろう。そんな時、君は、この生命そのものは、決して自分のものじゃない、人間が作ったものじゃないということを思い出すといい。生命は、自然が、宇宙が、人間には絶対わからない神秘によって作ったものだ。いや、生命は宇宙そのものなんだとね。その不思議な一体感は、きっと君を安心させることだろう。

14歳の君へ―どう考えどう生きるか/毎日新聞社


最後の桃

先日、大きいモモ園の借主から、今年のモモの収穫が終わったら返すようにと言われました。

正式に、土地の契約を農業委員会に出してれば良かったのですが、面倒な手続きがあって口約束になっていました。

市役所や振興局に相談はしましたが、契約がないのでどうすることも出来ないそうです。

2010年から借り始め、2012年から無肥料、2013年は無農薬。

昨年12月は、ユンボで畝と畝に溝をほり、溝に木のチップを入れています。

木のチップは、軽トラ約50台分。

毎年、新しくモモの苗を補植しています。今年は約40本。

まだまだ、転換中ですが2,3年後を楽しみにしていました。

こちらに新規就農できてから、自分たちのやりたい農業をするために、まずは結果を出すことを優先し取り組んできました。

その結果、他人を批判するつもりではなくても、知らず知らずのうちに相手を拒否していると思われていたのかもしれません。

自分たちのしていることは正しいという勝手な思いが、周りとの関係がうまくならなかった原因にも...

この事を真摯に受け止め、円満に解決出来る道を考えていこうと思います。




炭素循環農法HPより

続 神様の気持ちになって(天動説は生きている)

人々の平和の願いや反戦の叫びと一切無関係に、人が「正義」を叫ぶ限り、
あらゆる場面で殺し合い(戦争=テロ・殺人・拷問、犯罪、いじめ、葛藤、抑圧など)は続きます。

願えば、叫べば、祈れば、何とかなるなんてことはないのです。

自然(天)の仕組み(法則)の問題だからです。

天の義はただ一つ「命を生かす」。

正義は地の義、人の義、己の義。

組織の数だけ、人の数だけ、個の数だけ、際限なく生まれてきます。

人々の意識が天動説から地動説に転換しない限り、この世から殺し合いはなくなりません。



「“いのち”を生かす」

そして、全てを生かす。

残された時間で、畑に生き物を増やすこと。

どうなるかわかりませんが、おいしい桃が出来るように畑のお世話を続けます。

春も近づいて、蕾も膨らんできました。


畑でパラダイムシフト(地動説)

大分にも、昨日は雪が降り、そして今日は雨。

モモ園の溝のチップ詰め、モモ園のエンジンドリル穴あけ、
モモ・ブドウの剪定などなど

慌ただしい毎日だったので、久々の自宅待機。

ちぃ剪定ちう(注:今日ではありません)



そして、読書週間(習慣)。


炭素循環農法HPより引用

指導者はいない(新しい者が先生)


<引用はじめ>

土や作物は「作る」ものではなく「できる」もの。

バランスは「取る」ものではなく「取れる」もの、自然の側が決めます。

ですから、人ではなく相手(自然=仕組み=法即性)が指導者(基準)です。

土、作物、虫、微生物などや、自然農法を知らない者、新しい者(後輩)、
より若い者が実際に教えてくれる先生となります。

基点(視点)の逆転により当然、上下関係も逆転。

「自分は誰の言うことも聞かない。誰からも教わらない」

これが本物(自然農法の本質を理解した者)の言葉です。


<中略>

自然農法の先輩(実践者など)から教わることは何もありません。

先に知った者は、それを伝えるだけで何一つ教えることが出来ないのです。

自然農法の創始者(岡田茂吉)は、
自然農法に指導者は「要らない」と言いましたが、
正確には「出来ない」。指導しては「いけない」です。

先輩からも貰えますが、それは「問い」。

これも逆転し、何らかの「答え」を出すと、後からその「問い」が出てきます。

人が指導しようとした途端、自然農法ではなくなります。

人から教わろうとしたその瞬間、学ぶことを放棄したのです。


<引用おわり>


なんだか難しい事が書いてありますが、これは、職人の世界に近い。

以前の電気関連の仕事も、人に教えてもらったよりも、
(たくさん)失敗しながら自分で考えて学んでいきました。


炭素循環農法HPより引用

見かけは二義的


<引用はじめ>

では、いったい何をもって「自然」と冠することができるのでしょう。

人の思い(拘り)は各人各様。

人の数だけ、組織の数だけあり、時々の都合や時代背景、技術の進展などで変わります。

一般に自然農法の基準(不耕起、無化学肥料、無農薬、非遺伝子組み換え、無除草、
種子の自家採取など)と言われる、見かけは二義的要因であり、必須ではありません。

あくまでも、結果としてそのようになるのであって、方法(手段)ではないのです。

答えは、単純・明快『地動説』。

つまり、相手(天=自然)に基点を置き、自然の側から全ての事象を捉え、その都合に合わせる。

自然の仕組み=法(則性)は如何なる場合でもぶれることはありません
(人が知る知らないは無関係)。

“普遍かつ不変の基準”があってこその定義です。

これで、もう惑わされることはないでしょう。


<引用おわり>


これは、自己啓発書の『7つの習慣』のよう??

「7つの習慣」Wikipediaより引用

インサイド・アウト(内から外へ)

人が物を見る時には、ある種のレンズのような物(パラダイム)が存在し、
それが認識、理解、解釈、行動、態度を決めている。

従って、そのパラダイムを転換させることにより、自分のあり方を大きく変えることができる。


第一の習慣・主体性を発揮する

・自分の身に起こることに対して自分がどういう態度を示し行動するかは、
自らで決めることができる。

・問題解決に向け率先してことを行う。

・自分の身の周りのことに対して、自分が動かされるのではなく、
 自分が周りの環境に作用を及ぼす。

・自分がコントロールできないことでなく、自分がコントロールできる、
 影響を及ぼすことができる事柄に集中する。

・より良いものを持つのではなく、自分がより良くなる。

・失敗したときに、自分の間違いを認め修正をはかる。


なんだか難しくて怪しげですが...

方向性はあっているかわかりませんが、畑で生き物たちのお世話をしながら、

相手の気持ちになってパラダイムシフトも出来たら、

とっても美味しい作物が出来ちゃうのかもしれません(^^)



パラダイムシフトWikipediaより引用

広義でのパラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるため、
厳密な定義は特になく「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」、
「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイディアにより時代が大きく動くこと」まで、
さまざまな意味で使われている。