これ以上、なんの手のほどこしようもないと思えたとき、
声の限りに祈ってみよう。
そしたら、どういうわけだか、力が湧いてくるよ
- ハイワサのちいさかったころ (ほるぷ海外秀作絵本)/ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー
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日本には、基本的に宗教がありません。
それぞれ個人的に信仰している人や、行事としての神事はありますが、
国民性の中に、宗教というのはあまり統一されたものはないと言えるでしょう。
それは、一つの思想(宗教観)に縛られない精神の自由だし、
自分で神を選ぶか、あるいは無宗教で行くのかさえも選べる、信仰の自由の保証ともいえます。
しかし、逆にいえば、いざ、本当に大変な、自分の力でどうしようもなく思える出来事があったときに、
心を落ち着けるための集中する時間を、自分の中で作れなかったり、
すがるものがないので、絶望してしまう弱さでもあるようにも思えます
祈ることを知っている人は、祈りの中で心を落ち着けていきます
祈りの言葉を繰り返し唱えることで、無心になれます。
そのなかで心を解き放ち、あるいは発散し、気持ちをまとめる術を身につけています
信じることや、現実を受け止める力も、祈るという行為の中では、強く得られるのではないでしょうか
かく言う私は、無宗教です。
じっとするのが苦手だった私を、「この子は祈ることで、心の落ち着きをもてるのではないか」と母が考え、
キリスト系の幼稚園に通ったのですが、祈るためにじっとするのが苦手で、さぼって怒られてばかりいました
でも大きくなるにつれ、この「祈りの力」を強く感じるようになりました。
父は、いつも大変な時には、手を合わせ、ブツブツとなにかお祈りを唱え、気持ちを強く持っています。
私も、苦しい時やかなしい時、うれしくって仕方ない時、何かにお礼が言いたい時など、
何に祈っているのか、具体的な神があるわけではありませんが、森羅万象の神に祈る気持ちです
そういう意味で、インディアンたちなど、数々の先住民が土地を奪われ、奴隷にされたりするなど、
過酷な状況下にあっても、そのスピリットを忘れなかったのは、信仰の強さかもしれません
「ハイワサの小さかった頃」は、私の大好きな絵本です。
自然の中に多くの神がいる。
力を与えてくれている。
そう思えるからです
と、言うわけで、(前置きが長くなりましたが)、昨日の「とぶくじら広場」では、
みんなでインディアンの祈りの踊りを作りました。
といっても、表現の中ですることですから、宗教教育ではないし、
その声も「ウォッホ ウォッホ」「ハイヤ~ ホウ」など、直接的なものではありません。
でも、みんなで繰り返し繰り返し、声を出し、床を踏み鳴らし、肩をゆすり、祈りの気持ちで踊っていくと、
不思議な高揚感に包まれました
大変な時には、祈ること。
嬉しい時には、感謝すること。
これは人間の素晴らしい文化だと私は思いました。