こないだ、学童保育で子どもにせがまれ、本をいくつか読みました。
昔話がいくつか入った本だったのですが、そこに『三枚のお札』しもありました。
私は大阪で『三枚のお札』の語りをしていましたから、この話が入っていたことが嬉しくて、
気合いを入れて読みました。
子どもたちはヤマンバに怖がったり、小僧さんを応援したり、気がつくと最初は2~3人だったのが、
私の周りに10人くらいが集まって話を聞いていました。
でも、私は話を読み終えてガックリ
私が今まで語ったものとは、根本的に違ったからです。
私がしていたのは、瀬田貞二さんが再話したものでした。
うちの母は、そういう昔話の再話者や、外国文学の訳の読み比べ研究みたいなものをしていて、
私の家にある本はどれも母のこだわりのものです
最初、それらがそうも文学的に違うのか疑問でした。
でも、子どもに対して声を出して読んでいて、本によって同じ物語でも、ぜんぜん違うことを体験しました。
言葉にひそむの音楽性、イメージ、感情の微妙な表記、文章の構成・・・
素晴らしい文学は、すべてにおいて生き生きしています
瀬田貞二さんの『三枚のお札』は、本当にすばらしいです
ヤマンバは「のんのん」小僧を追いかけ、川の水を「ゴビゴビ」飲むのです。
そういう擬態語や擬声語もイメージがわきやすいですし、とにかくテンポがいいのです。
でも残念ながら、子ども受けを狙った文章は、読んでいて声がはずんできません。
言葉につまずきます。もっとひどいものになると・・・子どもが離れていきます。
昔話の後、別の子にたのまれて、別の本を読んだら、さっきまでいた子は、すっかりいなくなりました。
そして、その本を手渡した張本人ですら、「この本、おもしろくない」と、文句を言いました。
もちろん、人によって文章の書き方の好き好きはありますし、どれが素晴らしくて、どれが劣っているなんて、
一概には言えません。
私の声が活かしやすい作品、活かしにくい作品、それもあります。
でも、作者がこだわって、洗練されて作られている文学は、読むと伝わり方が違うように思えます。
宮沢賢治の言葉も、まるで声を出して作られたかのように読みやすく、
イメージが色にいたってまで鮮やかです。
子どもにはぜひ、心にイメージや感情が沸き起こる、そして「内動(自分の内側が動くこと)」がある作品に、
たくさん触れて、大きくなってほしいなあと思いました