帰省中です。

今回はファザコンとか父親に対する未完了の感情とかの発見以来初めての帰省で、しかもちょっと長い。

という状況のもと、予想どおり(?)父親とぶつかりました。

まだ2泊しただけだけど、私一気にブスになりました。どんどん私の好きじゃない私が表面に現れてきます。目も一重になって、明日は高校卒業以来みんなに会う同窓会なのに、とか思ってる。。

いろんなことを考えてるようだし、何も考えてないようでもある。

そこでちょっと瞑想してみました。しかも家族の縁であり鎖の象徴である仏間で。

瞑想してたら、結局のところ私が愛で満たされるしかないんだって思った。

私が自分を愛で満たすことしか、私にできることはない。

私が愛に満たされてればそれで良い。

父親が何を言おうが

母親が何を言おうが

そのドラマに巻き込まれる必要はなくて

だってドラマにはいろいろ背景があるんだけど、見え方は視点ごとに限られてて、全体像なんて結局わかんない。

私はただそこにある愛にフォーカスすれば良い

怒りや悲しみや拗ねやケチんぼになっちゃうその態度の裏側にある愛にフォーカスする。

それが私の世界を生きるってことなんだと思う。




 

最近瞑想にはまってます。

空に導かれる瞑想でね、普通のとちょっと違うんです。

雑念がどうとかじゃなくて、テーマを設定して頭の隅に置きながら、あとは瞑想にお任せする。

 

今朝起きがけの夢に前の前の彼が出てきたから、その人をテーマに瞑想してみた。

夢の中では、その人は私のドロドロとつながってて、思い出すとちょっとどろどろした気分だった。

 

でも瞑想してる途中に、ああ、当時の私はファザコン現役バリバリ時代だったのねーって理解し始めた。

そして私は私が欲しかったものをその彼からしっかりもらってた。

彼も、その時にほしかったものを私からもらってた。

それだけのことだった。それをファザコンともこが被害者ドラマで脚色してただけだった。

 

なんだかスッキリして、さよならーありがとうねー、バイバーイと心の中でつぶやいたら

その後前の彼(つまりその次の彼)が出てきた。

こっちは、もうちょっと根が深そうです。

今も私の中では彼は素敵な人で、好きだって声が大きい。

でも、純粋に好きって気持ちだけじゃなくて、その奥にどろどろした何かを隠してる感じ。

一回の瞑想じゃ消えないような何かがそこに残ってそう。

 

私は、誰かが欲しいって言ったものをすぐにあげてしまいます。

ハワイのリトリートで価値観ゲームをしたときも、「くれって言ったらすぐに何でもくれるからつまんない。なんで?」って言われた。「委ねる」とか「surrender」って言葉の意味をちょっと勘違いしてるんだと自分で思う。与えられないものを欲しがっちゃダメだし、誰かが喜ぶなら大事なものを差し出しちゃう。我慢してないつもりだけど、たぶん我慢してる。すぐに主導権を明け渡しちゃう。前の彼との関係でもそうだった。

 

こういうとき、美しい私だったらどうするだろうと自分に問うてみた。

私が私のままで素晴らしいとしたら主導権を明け渡すだろうか。

 

オラクルカードに助けを求めたら、「シカのスピリット」だって。

 

相手の言いなりになるのではなくて、

相手が本当にほしいもの、私が本当にほしいものに耳を傾けよう。

もっともっと聴こう。

そして私のソウルを信頼しよう。

 

そういうことかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともこそわそわしてます。

 

食事相手の男性とか、ヨガクラブ会場の管理人さんとか、ボランティア仲間とか、何をどう考えてるんだろうって無意味にCPUフル稼働させてます。

 

そして、ヨガクラブの生徒さん達がかわいすぎて、尽くしたい欲求が空回りしてます。

 

先週感じてたThis is me!!がちょっと息切れして、feeling goodからdoing goodつまり「ただただ楽しくて幸せ」から「○○すべき、○○じゃなきゃ」ってほうにシフトしちゃってる。

 

内側から出てくる美しいエレガントな笑顔を思い出したい。

 

そんな時、今の私には緑が一番助けてくれます。

言葉は分からないけど、木や草、キノコと話してるとなんかグラウンディングする。

 

今のともこは、自分に戻りたいとき、緑のなかに入ったらいい感じがする。


仕事の流れから久しぶりに職場関係者達との飲み会に参加しました。しかも一週間に2回も。

ハワイと湘南で自分の女性性との対話にどっぷり浸かり、やっと自分を生き始めようとしてたところだったのに、飲み会に行っておじさん達に囲まれた瞬間、お酌したり、大げさに楽しそうに話したりして、どっと疲れてしまったのでした。一進一退。

なので、昨日は最低限の仕事だけしてたーくさん眠りました。瞑想もたくさんした。お部屋掃除に床拭きもしてみた。

そしたらちょっと楽になりました。


ホッと一息ついたところで、この2回の飲み会で初対面にもかかわらずすっかり打ち解けた同い年独身男性から、食事のお誘いの連絡がありました。


これはどっちなんだろうか。

酔っ払ったファザコンともこが引き寄せた男子?
それとも、いろいろ気付いたともこが会いたかった人?

どっちだったとしても、良くも悪くも私が望むものが何なのか教えてくれる人かもしれません。
感謝しつつ、自分の気持ちに向き合おう。






「私は美しい」と思えなかった私。
根底にとっても深い自己否定があった。

どんなに枝葉をお手入れしても、根っこで自己否定が岩のように頑なに存在していれば、エネルギーの土砂崩れは起き続ける。

ハワイ島でのリトリートでのテーマとも繋がってた。それは男性との関係(自分の女性性との関係)を変えること。

私は既婚者のおじさんにばかりモテる。
その原因はーーー

どうやら父親に対する未完了の感情があるらしい。
とても意外だった。だって父は私のこと好きですよ?

でも、承認欲求が強くて、何かと被害者意識で言い訳するおじさんに無性に腹がたつとか

別のおじさんには、いつもどおり普通に振舞ってる私に「アピールしてくるよね笑」と言われて、ひどくショックを受けるとか

そういう私の無意識の反応は、全部未完了の感情が原因だって分かった。

未完了の感情は、なんとも言えない不安定さとして非言語的に表現されていて、同じ匂いのする人同士を結びつける。

自分が放ってる匂いが、周りの人を規定してる。


そして、この未完了の感情は、自己否定と直結してる。

もっと愛されたかった

もっと価値ある存在でありたかった

私には価値がない

いい子でいないと愛されない

何かを差し出さないと愛はもらえない



「誰か私のことを好きになってくれませんか。愛してくれるなら、何でもしてあげたい。」

「あなたが何をしても私は許します。だから、私のこと嫌わないで」


誰かが愛のようなものをチラつかせると、必死で掴みにいく。

この愛をつかまなければ、私に愛を注ぐ人はもう二度と現れないかのように。

そして一旦愛を確認したならば、こんどはその愛が消えてしまわないか心配になる。



こういう感情は全部、自己否定から生まれるのだ。


私は美しい。

誰に認めてもらう必要もなく

ただ当然に美しいのだ。




美しい私は、ただそこに存在するだけでよい。

それだけで、十分に価値があるから。


頑張りたいなら頑張ればいい。

ワクワクすることを夢中で頑張ればいい。

そして思い切り楽しめばいい。

喜びと幸せに満たされて

そんな日々を感謝しながら暮らしていけばいい。


世界は美しい

世界は本当はとても美しいのだ。