空・色・祭(tko_wtnbの日記) -9ページ目


彼(フロム)は、死の本能、生の本能という「二元性は、死の本能が最後に勝利をおさめるまでたえず戦う生物学的な二つの本能の二元性ではなく、生命を保存したいという一次的で、もっとも根本的な生命の傾向と、この目標に失敗したときに生ずるその矛盾(生命の否定)とのあいだの二元性である」と考えた。つまり死の本能は、生の本能が成長しなければしないだけ成長し、それにとって代わる悪性の現象である。それゆえ、死の本能は精神病理学が扱うもので、フロイトの見解のように正常な生物学では扱えないものである。生の本能が一次的な潜勢力(ポテンシャル)で、死の本能は二次的な潜勢力である。適当な温度や湿度で与えられれば種子が生育するように、生に適当な条件が与えられれば愛生的な傾向が発達し、与えられなければ愛死的な傾向が発達するとフロムは考えた。


安田一朗『フロム』





西郷南州の西南の役における死に思い及ぶと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によって貫かれていることにわれわれは気がつく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのはうまれてからのちに生ずる情であって、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生れる前の性質であって、肉体を離れて初めてこの死の性質をみることができる。したがって、人は死を恐れるという気持のうちに死を恐れないという真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、という意味のことをいっている。


三島由紀夫『行動学入門』


海はその雲の真下から、こちらへ向って、ほとんど偏在している。海は陸地よりもはるかに普遍的で、入り江も海もとらえているという印象を与えない。ことにここの湾口はひろいので、海が正面からすべてを犯しているように見えるのである。


三島由紀夫『真夏の死』