空・色・祭(tko_wtnbの日記) -7ページ目

彼は、以前、やはりあのように、母が怒り、きびしくはねつけたことを思い出した。その時は、兄だった。「殺したろか?」と兄は言った。すかさず母は、「おう、殺してみよ。殺すんやったら殺せ」と答えた。「腹を痛めて産んで、身を粉にして育てた子に、ちょっとは楽に暮らして行きたいと思ったら、殺されるんか」母は言った。それから、殺すことも、刃物を振り上げて暴れることもできなくなった、酔いがさめかかっている兄に、「おまえのような子供は知らん。この土地でくだくだするのも見たくない。一人前の男になっとるんやったら、女を町で引っかけて、飯場へでも行ってこい」と追い打ちをかけた。彼は、いまでも、その母を覚えている。兄が帰った後、母は泣いた。一言、二言、ききとれないほど低い声で義父の声がきこえ、母は、「悪いのはわたしやよお」と長く語尾を引いた泣き声をあげた。それは、先ほどまでの母の声とは、まるっきり違っていた。「わしが悪いんやよお。罪つくりなんよお」という声は、耳をふさいでも、彼にはきこえた。悪いのは兄だ、罪つくりなのは、兄だ、母ではない、と彼は、母の泣き声と一緒に体が震え、心が震え、どうするてだてもなく、蒲団の中で身を海老形にまるめた。別れる、別れない、と二人は、言っていた。彼は泣いた。母と義父が離別すれば、彼は生きていけない気がした。


中上健次『岬』



日本における仏教の第一期は、西暦五五二年、朝鮮から仏教が正式に導入されたときにはじまる。それは飛鳥時代と呼ばれている。七一〇年に最終的に奈良に移されるまで、その地方に首府があったことによる呼称である。そしてこの時代は、アソカ・カニシカによる統合を経て、新しい信仰の水を中国にもたらしたところの抽象的観念論の本源の流れが日本の発展に及ぼした影響をその意味としている。


岡倉天心『東洋の理想』


歴史の黎明は、かれら大和民族を、戦いに臨んで精悍、平和の諸芸において温雅、太陽の子孫の伝説とインドの神話にはぐくまれ、詩歌を愛し、女性に対する大いなる尊敬の念をいだく一個の緊密に団結した民族としてあらわし見せている。神道、すなわち神々の道、として知られているかれらの宗教は、先祖崇拝の簡素な儀式であったーーそれは、神秘の山高天原(アマの高原)、すなわち太陽の女神を主神とするオリンパスの山上に、神々の群に呼び集められた父祖の霊を敬い祀るものであった。日本ではいずれの家族も、かの太陽の女神の御孫が八重の雲路をこの島に降臨されたとき、彼につき随った神々の末裔であると主張し、かくて万世一系の皇統をめぐって集結する国民精神を強固にしている。


岡倉天心『東洋の理想』