中上健次『岬』からのメモ | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)

彼は、以前、やはりあのように、母が怒り、きびしくはねつけたことを思い出した。その時は、兄だった。「殺したろか?」と兄は言った。すかさず母は、「おう、殺してみよ。殺すんやったら殺せ」と答えた。「腹を痛めて産んで、身を粉にして育てた子に、ちょっとは楽に暮らして行きたいと思ったら、殺されるんか」母は言った。それから、殺すことも、刃物を振り上げて暴れることもできなくなった、酔いがさめかかっている兄に、「おまえのような子供は知らん。この土地でくだくだするのも見たくない。一人前の男になっとるんやったら、女を町で引っかけて、飯場へでも行ってこい」と追い打ちをかけた。彼は、いまでも、その母を覚えている。兄が帰った後、母は泣いた。一言、二言、ききとれないほど低い声で義父の声がきこえ、母は、「悪いのはわたしやよお」と長く語尾を引いた泣き声をあげた。それは、先ほどまでの母の声とは、まるっきり違っていた。「わしが悪いんやよお。罪つくりなんよお」という声は、耳をふさいでも、彼にはきこえた。悪いのは兄だ、罪つくりなのは、兄だ、母ではない、と彼は、母の泣き声と一緒に体が震え、心が震え、どうするてだてもなく、蒲団の中で身を海老形にまるめた。別れる、別れない、と二人は、言っていた。彼は泣いた。母と義父が離別すれば、彼は生きていけない気がした。


中上健次『岬』