空・色・祭(tko_wtnbの日記) -5ページ目



前代の主流的文芸思潮であった自然主義は、明治四十三年の幸徳事件を境にして、根本にあった反逆精神をうしない、運動としては終焉しましたが、藤村を中心として、秋声、花袋、白鳥、秋江、泡鳴らの文学者たちは客観描写的なまたは私小説的傾向の強い円熟した作品を大正時代も次々に書き、日本文壇の底流として強い力を保っていました。しかし大正時代の主流的存在は、先に述べた鴎外、漱石のニ巨峰を中心とした反自然主義的な文芸思潮といえましょう。そしてこの対立するニ巨峰の影響下に、大正時代の文学が形成されていくのです。87p




「トルストイの『戦争と平和』もドストエフスキイの『罪と罰』もフローベールの『ボヴァリィ夫人』も、高級は高級だが、結局偉大な通俗小説にすぎない、結局作りものであり、読み物である。・・・・・・すべての芸術の基礎は『私』にある。それならば、其の私を、他の仮託なしに、素直に表現したものが、即ち散文芸術に於いては『私小説』が明らかに芸術の本道であり、基礎であり、真髄であらねばならない」と久米正雄が大正十四年に大胆に述べたごとく、私小説が全文壇的に重んじられたのです。作家たちは社会から隔絶した文壇の中で、おたがい信仰生活に近い文学修行を競い合いました。88p




「白樺」派、「新思潮」同人などの東大系、あるいは「三田文学」系の反自然主義的文学史傾向に対立するものとして、雑誌「奇蹟」に集まる新早稲田派の文学者たちがいます。そのひとりである葛西善蔵は青森県の故郷を捨て、エキザイルとして都会を放浪する貧しい苦しい破滅的な生活をみずからに課し、その体験を自虐的に告白した『子をつれて』(大正七年)、『椎の若葉』(十三年)、『湖畔手記』(同年)などの私小説的短編を書きます。彼の作品には、師である秋声ゆずりの厳しさやペシミズムのはてに、なにか酒仙的な詩心が漂っていますが、文学に憑かれた性格破綻者的な生き方は泡鳴、秋江の奔放無頼の文学につらなるものであり、さらに『根津権現裏』(十五年)の藤沢清造や昭和期の嘉村礒多、牧野信一、梶井基次郎、太宰治、坂口安吾、田中英光とつながる苛烈な破滅型無頼派私小説の先駆的存在ということができます。96p




ではこれらの江戸の末期からの戯作文学は、後の大衆読物小説へつながる以外、日本の近代文学へ何の影響も遺産も残さなかったかというと、そんなことはありません。政治や思想への無関心、社会からの逃避、特殊な閉ざされた世界へののめりこみ、感覚や情緒の偏重、理論性の欠除、新奇な風俗への旺盛な好奇心、負け犬的なコンプレックスなど、文章のユーモアやあそびや粋さを伝奇的性格、虚構性、物語性をうしないながらも、日本の近代文学の中に今日までまぎれもなく受け継がれているのです。11p



散文というつねに功利性、実用性、思想性を含んで成立する小説というジャンルは、時代思想や現実から逃避し自己を超然と守ることが許されないのです。ここに、つねに時代とともに自己をこわしながら進んでいかなければならない小説という芸術の栄光と悲劇があります。15p



おなじ自然主義といわれながら、藤村、秋声、白鳥らの冷静な観察者の生き方と対照的な作家に岩野泡鳴がいます。彼は日本の自然主義文学運動が含んでいた既成秩序に対する破壊の情熱と、実践性を含む自己主張と、生活の露出的な告白の要求を『蒲団』に示唆され、ぎりぎりまで拡大しました。神秘半獣修行を唱え、刹那の享楽を通して永遠の霊をめざそうというモティーフによって『耽溺』(明治四十二年)、『毒薬を飲む女』(大正三年)などの自伝的五部作を書きました。醜悪を敢えて描きながらも、その奔放な生涯と求道的情熱とは、泡鳴の本質が浪漫主義であることを示し、破戒的、無頼派的私小説の始祖といえます。58p

最近読んだ中島晴矢著『オイル・オン・タウンスケープ』から、いつでも読み返せるように、気に入った言説を引用という形でメモさせてもらいます。



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初めて油絵を描いたのは、高校の美術の授業だった。

友人の顔を描くという課題で、私は美術室でたまたま席が近かった寺田くんの横顔を描くことにした。ややぐんずりとした背格好にメタルフレームの眼鏡、何よりチリチリの毛髪に、件(くだん)の総書記の面影が刻印されていた。北朝鮮が耳目を集めていた当時、無遠慮な中高一貫の男子校で、寺田くんは入学直後から必然的に「正日」、なんなら「ジョン」と親しげに呼ばれていたのだ。




美学校に戻ると、受講生たちの友人を中心とした来客で賑わっていた。彼らに私が講義の中で出したのは、「根拠地を示す」という課題だ。「根拠地」とは、例えば故郷や家庭、性別、あるいは人種など、その人にとって自らの足場になっていると思える要素である。その提示こそが、表現者として出立するにあたっての第一歩だと考えるからだ。




「勝手口」の修了展では、自分が出した課題を回収する形で、現在の根拠地を示すことにした。もちろんニュータウンをはじめ、これまでにもいくつかのルーツを作品化してきたが、おそらく芸術は、その時々に自らの〈いま・ここ〉を記述することができる裁量の手段の一つである。浮浪して刻み続ける原風景ーーそんなわたしにとっての根拠地は、二年ほど前に引っ越してきた、荒川区の町屋だ。




総じて西台は、決して味わうような街ではなかった。だが、かと言って全く味わえないというわけでもない。無機質で、無味乾燥としていて、寂寞(せきばく)たる西台を、私たちはそれでもなお噛(しが)んでいたし、噛んだ際に滲み出る灰汁(アク)のようなものを、愛してさえいたのかもしれない。




既に競技場は落城していたが、しかし未だスタジアムとして機能しておらず、建築というよりもむしろ、巨きな楕円形の物体として空間を占拠している。神宮の杜にできた最新の墳墓ーーそれはあたかも、祝祭の後に廃墟化する〈未来のレガシー〉を先取りしているかのようだ。そんな予見性を胚胎したオリンピックの聖地に、規則的な機械音が虚しく木霊している。




私にとってその事実は、受験地獄に垂らされた、蜘蛛の糸の如き一筋の光明に思えた。




文学とは、ごく簡単に言ってしまえば、表面だけ見てもわからない、人間の〈奥底〉を描くものだ。それゆえ、文学はある種の危険性を孕むものでもある。読者の首根っこを引っ掴んで、幾ばくかでもその人生観をねじ曲げてしまうこと。それこそが文学であり、実際、私は何篇かの小説にそんな影響を受けて、これから文学をやろうとしているのであった。当時まだ若かったとはいえ、それは今でも文学のみならず、芸術一般に対する自身の理解でもある。




そこには三島に対する自分なりの批評性を込めていた。その死に様に魅せられる部分と、滑稽に感じる部分とが交錯する両義的な心性。あるいは、「大きな物語」を生きられた時代への憧憬と、自分たちの世代的な矮小さへの諦念。そうしたアンビバレンスをそのまま投げ出したのが、このパフォーマンスだった。




現在この国は、三島が『果たし得ていない約束』で予見したような、「無機質な、からっぼな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目のない、或る経済大国」にすら及ばない、いろんな意味で下降している最中である。




この展示で掲げたのは、「散歩はラジカルである」という提言だ。日本近代文学のパイオニア・坪内逍遥が、まさに「逍遥」と名乗ったように、芸術は、気ままに漫(そぞ)ろ歩くことから始まったと言って過言ではない。そもそも近代芸術の道程とは、神の裁きを失した後の人間が自我を求めて彷徨(さまよ)い歩く、散歩道そのものではなかったかーーそうした視座は今も変わらず、私が街を歩き見る際の基準になっている。



オイル・オン・タウンスケープ