中島晴矢『オイル・オン・タウンスケープ』からのメモ | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)

最近読んだ中島晴矢著『オイル・オン・タウンスケープ』から、いつでも読み返せるように、気に入った言説を引用という形でメモさせてもらいます。



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初めて油絵を描いたのは、高校の美術の授業だった。

友人の顔を描くという課題で、私は美術室でたまたま席が近かった寺田くんの横顔を描くことにした。ややぐんずりとした背格好にメタルフレームの眼鏡、何よりチリチリの毛髪に、件(くだん)の総書記の面影が刻印されていた。北朝鮮が耳目を集めていた当時、無遠慮な中高一貫の男子校で、寺田くんは入学直後から必然的に「正日」、なんなら「ジョン」と親しげに呼ばれていたのだ。




美学校に戻ると、受講生たちの友人を中心とした来客で賑わっていた。彼らに私が講義の中で出したのは、「根拠地を示す」という課題だ。「根拠地」とは、例えば故郷や家庭、性別、あるいは人種など、その人にとって自らの足場になっていると思える要素である。その提示こそが、表現者として出立するにあたっての第一歩だと考えるからだ。




「勝手口」の修了展では、自分が出した課題を回収する形で、現在の根拠地を示すことにした。もちろんニュータウンをはじめ、これまでにもいくつかのルーツを作品化してきたが、おそらく芸術は、その時々に自らの〈いま・ここ〉を記述することができる裁量の手段の一つである。浮浪して刻み続ける原風景ーーそんなわたしにとっての根拠地は、二年ほど前に引っ越してきた、荒川区の町屋だ。




総じて西台は、決して味わうような街ではなかった。だが、かと言って全く味わえないというわけでもない。無機質で、無味乾燥としていて、寂寞(せきばく)たる西台を、私たちはそれでもなお噛(しが)んでいたし、噛んだ際に滲み出る灰汁(アク)のようなものを、愛してさえいたのかもしれない。




既に競技場は落城していたが、しかし未だスタジアムとして機能しておらず、建築というよりもむしろ、巨きな楕円形の物体として空間を占拠している。神宮の杜にできた最新の墳墓ーーそれはあたかも、祝祭の後に廃墟化する〈未来のレガシー〉を先取りしているかのようだ。そんな予見性を胚胎したオリンピックの聖地に、規則的な機械音が虚しく木霊している。




私にとってその事実は、受験地獄に垂らされた、蜘蛛の糸の如き一筋の光明に思えた。




文学とは、ごく簡単に言ってしまえば、表面だけ見てもわからない、人間の〈奥底〉を描くものだ。それゆえ、文学はある種の危険性を孕むものでもある。読者の首根っこを引っ掴んで、幾ばくかでもその人生観をねじ曲げてしまうこと。それこそが文学であり、実際、私は何篇かの小説にそんな影響を受けて、これから文学をやろうとしているのであった。当時まだ若かったとはいえ、それは今でも文学のみならず、芸術一般に対する自身の理解でもある。




そこには三島に対する自分なりの批評性を込めていた。その死に様に魅せられる部分と、滑稽に感じる部分とが交錯する両義的な心性。あるいは、「大きな物語」を生きられた時代への憧憬と、自分たちの世代的な矮小さへの諦念。そうしたアンビバレンスをそのまま投げ出したのが、このパフォーマンスだった。




現在この国は、三島が『果たし得ていない約束』で予見したような、「無機質な、からっぼな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目のない、或る経済大国」にすら及ばない、いろんな意味で下降している最中である。




この展示で掲げたのは、「散歩はラジカルである」という提言だ。日本近代文学のパイオニア・坪内逍遥が、まさに「逍遥」と名乗ったように、芸術は、気ままに漫(そぞ)ろ歩くことから始まったと言って過言ではない。そもそも近代芸術の道程とは、神の裁きを失した後の人間が自我を求めて彷徨(さまよ)い歩く、散歩道そのものではなかったかーーそうした視座は今も変わらず、私が街を歩き見る際の基準になっている。



オイル・オン・タウンスケープ