『日本文学史』(奥野健男著)からのメモ2 | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)



前代の主流的文芸思潮であった自然主義は、明治四十三年の幸徳事件を境にして、根本にあった反逆精神をうしない、運動としては終焉しましたが、藤村を中心として、秋声、花袋、白鳥、秋江、泡鳴らの文学者たちは客観描写的なまたは私小説的傾向の強い円熟した作品を大正時代も次々に書き、日本文壇の底流として強い力を保っていました。しかし大正時代の主流的存在は、先に述べた鴎外、漱石のニ巨峰を中心とした反自然主義的な文芸思潮といえましょう。そしてこの対立するニ巨峰の影響下に、大正時代の文学が形成されていくのです。87p




「トルストイの『戦争と平和』もドストエフスキイの『罪と罰』もフローベールの『ボヴァリィ夫人』も、高級は高級だが、結局偉大な通俗小説にすぎない、結局作りものであり、読み物である。・・・・・・すべての芸術の基礎は『私』にある。それならば、其の私を、他の仮託なしに、素直に表現したものが、即ち散文芸術に於いては『私小説』が明らかに芸術の本道であり、基礎であり、真髄であらねばならない」と久米正雄が大正十四年に大胆に述べたごとく、私小説が全文壇的に重んじられたのです。作家たちは社会から隔絶した文壇の中で、おたがい信仰生活に近い文学修行を競い合いました。88p




「白樺」派、「新思潮」同人などの東大系、あるいは「三田文学」系の反自然主義的文学史傾向に対立するものとして、雑誌「奇蹟」に集まる新早稲田派の文学者たちがいます。そのひとりである葛西善蔵は青森県の故郷を捨て、エキザイルとして都会を放浪する貧しい苦しい破滅的な生活をみずからに課し、その体験を自虐的に告白した『子をつれて』(大正七年)、『椎の若葉』(十三年)、『湖畔手記』(同年)などの私小説的短編を書きます。彼の作品には、師である秋声ゆずりの厳しさやペシミズムのはてに、なにか酒仙的な詩心が漂っていますが、文学に憑かれた性格破綻者的な生き方は泡鳴、秋江の奔放無頼の文学につらなるものであり、さらに『根津権現裏』(十五年)の藤沢清造や昭和期の嘉村礒多、牧野信一、梶井基次郎、太宰治、坂口安吾、田中英光とつながる苛烈な破滅型無頼派私小説の先駆的存在ということができます。96p