空・色・祭(tko_wtnbの日記) -2ページ目
一九五〇年代の日教組の教研集会では、在日児童の問題は、沖縄や被差別部落の問題、そして米軍基地周辺の風紀問題や平和教育などとともに、「民族教育」として同一の分科会で討論されることが多かった。そして「日本民族の自覚」を育てることは「朝鮮民族」との共存のためにも必要であるとされた。一九五八年一月の第七次教研集会で、討議をまとめた井上清は、こう述べている。


日本にいる他民族からその民族的権利を奪い、これを差別迫害することは、実は日本人自身の民族的自覚・民族愛をさまたげるものである。このことは、端的に言えば在日朝鮮民族を一段低いものとする日本人は、アメリカ人には卑屈なものであるという目前の事実をみれば明白である。朝鮮民族の民族的権利の尊重は、同時に日本人の民族的権利の擁護と一体にあるものである。ことに教育の場では、朝鮮民族子弟の教育をいいかげんにするという事実を見せながら、日本人の子どもに正しい国際理解や世界平和の擁護や民族的自覚をもたせることはできない。・・・・・・朝鮮民族子弟に正しい民族教育をすることが、とりもなおさず日本人子弟にも正しい民族教育をほどこす場である・・・・・・。372p

一九五五年には、共産党にかぎらず、政界の大規模な再編が進行していた。共産党が六全協で武装闘争路線を放棄したのと前後して、再軍備の是非をめぐって分裂してきた左派社会党と右派社会党が合体し、日本社会党が結成された。これに対抗して、保守政党の側も自由党と民主党が合同し、自由民主党が結成される。いわゆる「五五年体制」とよばれる政党地図ができあがったのは、このときであった。そして一九五六年の経済白書には、流行語ともなった「もはや『戦後』ではない」という言葉が登場する。


いわばそれは、一つの「戦後」の終わりであり、もう一つの「戦後」の始まりであった。共産党の武装闘争放棄に象徴されるように、革命と闇市に象徴される激動の「戦後」は、敗戦後一〇年で終わりを迎えていた。それに代わって、高度成長と「五五年体制」に象徴される、安定と繁栄の「戦後」が始まろうとしていたのである。292p

八〇年代には、パート労働で小金を稼いだ女性と若者が、「消費者」として文化の担い手とみなされる傾向さえあった。一九八五年には「フリーター」という言葉が生まれたが、アルバイト紹介雑誌『フロムエー』の一九八七年の紹介文によれば、それは「既成概念を打ち破る新自由人種。敷かれたレールの上をそのまま走ることを拒否し、いつまでも夢を持ち続け、社会を遊泳する究極の仕事人」と定義されていた。38p