空・色・祭(tko_wtnbの日記) -12ページ目

自宅待機の期間が終わり、11月1日から仕事がはじまるということで、休みも今日一日となりました。

 

丁度1ヶ月もの間、自宅待機扱いだったということで、分かったことがひとつあります。

 

時間を持て余しても、ひとりでいては、大変退屈だということです。

 

なにせお金がないものですから、ここ一ヶ月、遊ぶにも遊べなかった。

 

そこで、家で読書をしたり、YouTubeを観たりとしていたのですが、退屈で、更には時折、鬱蒼とした気分も感じるようでした。

 

時間はあるが金がないので何もできない。

 

それよりかは、時間がないがお金はあるという状況の方が好ましく思える。

 

と言っても、これから働くにしろ、安賃金で尚且つ、カード会社のローンを返さなければならないので、お金がないのには代わりがないですが。

 

そこで、簡単な家計簿を付けて、一体いくらぐらい一ヶ月に遊びに費やせるか計算してみたいと思っています。

 

できれば、月1万7千円ぐらい、遊ぶ金に費やせれば良いのですが、確保できるか分からないです。

 

奨学金の返済に3万円

カード会社のローン返済に6万円

食費などの経費に5万円

 

お金のことはあまり書けませんが、ざっと計算していくと確保できそうです。

 

あと、少し話が変わりますが、今まで自分は、将来の自分の為にいくらかお金を投資するということをしてきました。

 

しかし、それらがほぼ全て空回りし水の泡となっています。

 

ので、これからは将来の自分に投資するのではなく、道楽にお金を使いたいと考えています。

 

人生を楽しむこと、これを第一に考えて行きたいと考えています。

 

 

 

 


東洋哲学の諸伝統は、形而上学の極所を目指して、さまざまな名称を案出してきた。

曰く「絶対」、曰く「真(実在)」、曰く「道」、曰く「空」、曰く「無」等々。

いずれも、本来は絶対に無相無名であるものを、それと知りつつ、敢えて、便宜上、コトバの支配圏内に曳き入れるための仮の名(『起信論』のいわゆる「仮名」)にすぎない。




「真如」の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を、全部一挙に払拭する(=空じ去る)ために、どうしても「空」という概念を立てることが必要になってくるのである。

もし我々が分節意識の、存在単位切り出し作業を完全に止めてしまうならば、空ずべき何ものも、いや、「空」そのものすら、始めからそこには無いのだ。

本来的には、空ずべき何ものも無い、いや、「空」そのものも無いという、まさにそのことが、ほかならぬ「空」なのである。




『意識の形而上学』(井筒俊彦)

捉えどころなくもモヤモヤしている。

 

人生とは何か。

 

生きるとは何か。

 

色々本を読むが、それらの疑問に明確に答えた本に出会ったことがない。

 

唯一心に残っているのは、不条理に関する言説だ。

 

人間は皆死を宣告されている。

 

この世は監獄であり、人は皆死刑囚だ。

 

そのなかで人は必死に生きなければならない。

 

そんな言説を読んだことがある。

 

悲観的かもしれないが、腑に落ちる部分が多く、そう考えた方が生が楽ではないかと思わせた言説である。

 

所詮皆死ぬ。

 

人生に取立てて意味はない。

 

そう考えた方が楽なことがある。

 

人生に意味はないのだ。