空・色・祭(tko_wtnbの日記)
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もちろん世論調査では、岸政権への不支持は多かった。しかし六月に行われた長野県の農村調査では、安保賛成はごく少数だったものの、目立った抗議行動はおこっていなかった。そして賛否の意見の特徴は、「安保反対は戦争に、賛成は経済に結びついていることが多い」ことだった。

この特徴は、東京でも同様だった。六月四日のストのさい、新聞記者が聞いた労組合の会話では、一人が「ここで安保をお断りしたら、アメリカは日本に援助しなくなって、日本は経済的に困る。みんなひどい貧乏をしなきゃあならんのじゃないか」と述べ、もう一方が「それなら、みんなが歯を食いしばってでも、耐久生活でやるべきだ」と反論していたという。敗戦直後のように、平和の主張と経済の復興が結びついていた時代は、アメリカに従属した経済成長の進展とともに終わりつつあったのである。544p




勝敗の位置づけがどうであったにせよ、安保の自然承認と岸首相の退陣以降、デモの波は急速に退いていった。もともと五月一九日以降の運動の盛りあがりは、安保そのものへの反対よりも、岸に対する反感と、全学連に代表される「素朴」な正義感に裏打ちされていた。岸が退陣し、安保の自然承認によって「素朴」な正義感からすれば敗北が明らかになった以上、運動が退潮するのは避けられないことだった。546p






安保闘争の終焉後、保守論者の間で、愛国心の低下を嘆く論調が流行した。右翼団体の「新日本協議会」の代表理事だった安岡正篤は、一九六一年に、戦後の愛国心低下の原因が「進歩陣営の愛国心否認論であることは、誰しも知る通り」と述べた。福田恆存は一九六ニ年に、「戦後教育は、まず過去の文化を否定してかかった」「愛国心を否定するかたちで、いきなり平和やヒューマニズムを子供に押しつけた」と主張した。こうした保守論者たちは、愛国心やモラルの低下が、占領政策や「戦後民主主義」の影響で引きおこされたという主張をとりつづけた。548p




一九六〇年の安保闘争は、戦後日本の進歩派が「愛国」や「民族」といった言葉で表現していた心情が、最大にして最後の噴出をみた事件だった。岸に代わって首相となった池田勇人は、就任直後に「所得倍増計画」を発表し、高度経済成長の本格的な幕開けが訪れようとしていた。そして戦後日本の「民主」と「愛国」をめぐる言説も、変動の時代に入ってゆくことになるのである。548p

こうして社会党の左派と右派、そして共産党などは、いずれも一九五五年を境に、自党の社会構造を棚上げにすることで「国民的」な護憲運動に参加した。それによって、戦前体制への回帰を阻止した意義は、確かに大きかった。しかしその代償として、お互いが未来にむけた社会構想をぶつけあうダイナミズムは失なわれた。そのなかで、「護憲」「平和」「民主主義」といった言葉が、保守勢力の攻勢から戦後改革の成果を「守る」という、防衛的なスローガンと化しつつあったことは否めなかった。494p





改憲の圧力が弱まるにつれて、それに代わるように浸透していったのは、自衛隊は憲法が禁じる「戦力」ではないという憲法解釈だった。改憲論者だったはずの鳩山も、憲法問題に深入りしたくないという議員たちの圧力をうけて、一九五四年一ニ月には自衛隊合憲論を打ちだした。495p





『世界』一九五一年一〇月号の講和特集で、荒正人はアジアへの賠償について、こう述べている。


僕は危惧します。賠償は一応日を繰りのべられはしたが、形を変えてもつと過酷な内容で、そして、理不尽な方法で、実質的に支払わねばならなくなるのではないか、ということです。支払うべきときに借金を支払わぬ以上、これはむしろ当然のことです。相手方を責めるよりまえに、その日ぐらしの自分の智恵のあさはかさを嗤うべきでしよう。二十世紀の現実というもつとも手きびしい相手がこんな厖大な借財をただで見逃してくれるなんてことがありうるでしようか。498p





一九五〇年前後の非武装中立論と護憲論は、新しい時代における国家理念を模索し、「自主独立」の日本を構想しようとする試みだった。その試みが挫折に終わったあと、日本は対米従属を決定的にするという代償を支払うことで、戦後賠償を逃れて経済成長を達成した。その過程において、戦後日本のナショナリズム・アイディンティティの混乱は、その後も解けない問題として残されていったのである。498p

「自主憲法」の制定が、アメリカへの従属を深めることにしかならないという事態は、日本の保守系ナショナリストにとって、深刻なジレンマとなった。自衛隊を愛した作家の三島由紀夫でさえ、「『憲法改正』を推進しても、却つてアメリカの思ふ壺におちいり」、「韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終わることは明らか」だと認めていた。463p




再軍備反対論は、純然たる平和志向だけから発生してきたのではなかった。その根底にあったのは、アメリカによって戦後日本のナショナル・アイディンティティがねじまげられることへの抵抗感と、アメリカに従属して復活をはかろうとする旧勢力への反発だった。そして当然ながら、護憲と非武装中立の論調は、そうした心情を基盤として発生してくることになるのである。464p




もちろん、日本の「自主独立」を主張するのに、アメリカから与えられた憲法を掲げることは、一種の矛盾ともいえた。しかし逆にいえば、その憲法を逆転して利用することは、アメリカへの最大の抵抗力となりえた。清水幾太郎は、「憲法がアメリカの押しつけによるものであることは明らかである」と認めたうえで、こう主張している。


・・・・・・〔アメリカは〕朝鮮戦争のころから、即ち、アジア侵攻作戦における日本人の利用を考え始めてから、事毎に憲法を邪魔なものにし、これを骨抜きにする手を打って来ている。日本を再軍備させようとするアメリカ側の要求と、憲法を通じて新しく生れ変った民衆に怯える日本の支配者たちの要求とが、ここで内外から結び合わされることになる。それゆえに、憲法の学習と実践と擁護とは、国家からの独立という意味で国民的主体性を帯びるだけでなく、アメリカからの独立、というより、アメリカへの対立という意味で国民主体性を帯びるものとなる。・・・・・・・・・・・・ただ反米というものではない。アメリカの行動を審く尺度がわれわれの手のうちにあるのである。アメリカは地上最強の国かも知れぬ。この最強の国との対立において、われわれが憲法を学習し実践し擁護することを通じて、日本は本当に独立するのであろう。対外的主体性を獲得するのであろう。472p





逆にいえば、敗戦直後には批判の多かった憲法が、一九五〇年ごろから「国民主体性」を表現する媒体として再評価されたのは、アメリカ政府と日本政府が憲法を捨てたからであった。竹内好は一九五ニ年五月に憲法を評して、敗戦直後には「外国から与えられたということが、心理のシコリとしてあった」のだが、「為政者の憲法無視が、逆に憲法擁護の気持を起させた」と述べている。473p