こうして社会党の左派と右派、そして共産党などは、いずれも一九五五年を境に、自党の社会構造を棚上げにすることで「国民的」な護憲運動に参加した。それによって、戦前体制への回帰を阻止した意義は、確かに大きかった。しかしその代償として、お互いが未来にむけた社会構想をぶつけあうダイナミズムは失なわれた。そのなかで、「護憲」「平和」「民主主義」といった言葉が、保守勢力の攻勢から戦後改革の成果を「守る」という、防衛的なスローガンと化しつつあったことは否めなかった。494p
改憲の圧力が弱まるにつれて、それに代わるように浸透していったのは、自衛隊は憲法が禁じる「戦力」ではないという憲法解釈だった。改憲論者だったはずの鳩山も、憲法問題に深入りしたくないという議員たちの圧力をうけて、一九五四年一ニ月には自衛隊合憲論を打ちだした。495p
『世界』一九五一年一〇月号の講和特集で、荒正人はアジアへの賠償について、こう述べている。
僕は危惧します。賠償は一応日を繰りのべられはしたが、形を変えてもつと過酷な内容で、そして、理不尽な方法で、実質的に支払わねばならなくなるのではないか、ということです。支払うべきときに借金を支払わぬ以上、これはむしろ当然のことです。相手方を責めるよりまえに、その日ぐらしの自分の智恵のあさはかさを嗤うべきでしよう。二十世紀の現実というもつとも手きびしい相手がこんな厖大な借財をただで見逃してくれるなんてことがありうるでしようか。498p
一九五〇年前後の非武装中立論と護憲論は、新しい時代における国家理念を模索し、「自主独立」の日本を構想しようとする試みだった。その試みが挫折に終わったあと、日本は対米従属を決定的にするという代償を支払うことで、戦後賠償を逃れて経済成長を達成した。その過程において、戦後日本のナショナリズム・アイディンティティの混乱は、その後も解けない問題として残されていったのである。498p