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リハビリのこと、庭のこと、コペンのこと



ついに、コペンです!いやはや、どこから見てもカッコイい!



もちろん、bulldogもカッコイいけど、もうバイクは乗りたくないので!
認知症の方の「問題行動」といわれるもののひとつに「徘徊」がある。

人によっては、不眠不休で歩き続けて、100km離れた場所で発見されたこともある。



理学療法の論文で、徘徊について述べているものがあった。

「歩行は全身運動であり、健康維持に欠かせない生活動作である。徘徊者は、長時間歩行するので、徘徊しない認知症患者よりも健康である。安全な歩行路を確保して、徘徊を運動機会として有効に活用すべきである。」

これを読んだ時、腹が立つと同時に、理学療法士が嫌いになった。

バカも休み休み言ってもらいたい。もう、頭の中にウジが湧いているとしか思えない。寝言は寝て言えスペシャルだ。

徘徊者の顔を見た上で言っているのだろうか。

焦った表情、不安げな表情、苦しい表情、泣きそうな表情、みんな困っていて、どうしたら良いか解らずに歩き続けているのだよ。それを、散歩と変わらないように捉えて考察するなんて。論文を書くようなエラい先生が、そんなこともわからないのですか。

とは言っても、長期療養を前提とした病院か施設で働くスタッフなら誰でも感じることでもある。徘徊する人の方が、うつで引きこもる人よりも長生きする。歩かなくなり、食べなくなると、「もう先は長くないね」とスタッフがささやきあうことになる。

そういう場面に何度となく遭遇しているうちに、徘徊でも良いから歩いて欲しいと思うようになる。スタッフも辛いんだなと。長く勤務して理解した。





「徘徊」を「散歩」にできたら、素敵だなぁと、最近思って、そういう関わりを意識している。

ベッドでぼんやり横になっているよりは、徘徊している方がマシ。同じ歩くなら困って歩くより笑って歩く方がマシ。

梅雨空の景色を眺めながら、「あら~雪が降ってきたね~今年はイラ早いで」と話しながら、のんびりニコニコ歩けるようになれば、それは徘徊じゃなく散歩になっているんではないかと。
「失行」というのは、リハビリ職なら必ず勉強する障害のひとつです。

ある動作や行為をするように指示されたとき、その動作や行為を理解していて、やる気があって、運動機能的にはできる能力があるのに、できない。そういう状態を失行と言います。

認知症があると、できないことがあれば、認知症のせいにされます。つまり、「理解できない。やる気がない。」と判断されるのです。

でも、認知症になる方の多くは、高次脳機能障害を合併しています。脳血管性の認知症の場合は特にそうです。



失行が疑われる場合、指示の仕方を変えるとすんなりできるかどうか確認します。

「この階段を昇りましょう」といってできないなら、上の階を指差して「あっちまで行きましょう」といってみます。全く足が出ない人が、びっくりするくらいすんなり階段を昇れたりします。まぁ、これで「観念運動失行」が確定するんですが。


リハビリの専門家なら誰でも知っている失行ですが、身近な存在であることを知っているリハビリ職が意外と少ない。


動作がどこかぎこちなかったり、場面によってできる能力が大きく変わる場合、「理解できているのに、やる気はあるのに、できない。そのことをうまく伝えられない。もしかしたらそういう状態かも」と思って、対応の仕方を変えてみて下さい。


言葉のかけ方、たったそれだけのことで、その人が生きやすくなる可能性があります。それに気づいてあげられるのは、身近なリハビリ専門職だけかもしれません。
老化とは、全てを失うこと

ではない。彼らと向き合って仕事をしていて強くそう思う。

色んなモノを失って、記憶まで失っているが、常に新たに何かを作り出している。
...
失うことは多いが、人生の総決算というか、その人なりのまとまりは、どんな形でも美しいと思うし、尊敬する。

それは、こちらから引き出してあげるものではなく、彼らが自然に生み出しているもの。

ケアする側は、そこに焦点を当て、自分たちがそれを尊重しているというメッセージを伝えていくのだろう。

失われることでできた隙間を埋めていく作業ではなく、生み出されるものを掘り起こしていく作業ととらえている。

現場のケアスタッフは皆、そういう想いで働いています。

治療技術とやらに、そういう想いがないのだとしたら、私は治療よりケアを、施しより自立支援を尊重します。
「見立て」は大切です。特に医療専門職には、何よりも見立てが大切です。治療技術がなくてもしっかり見立てられれば、技術がある人にお願いできます。見立てられないと、どんなに治療技術を磨いても、患者さんのためになる仕事ができなかったりします。

介護分野では、最も大切なのは「自己選択」だと言われます。利用者さんに選んでもらう。簡単そうですが、実は難しい。表面上の希望と、心の奥にあるニーズが異なる場合があるからです。見立てようとせずに、言われた事だけ聞き入れていると、結果として利用者さんのためになる仕事ができなかったりします。

そう考えると、介護分野でも一番大切なのは「見立て」だということになりますね。

医療専門職と同じように、介護専門職も、専門家としての「見立て」が何よりも大切です。
被災地支援に行って、現地の医療スタッフから「手技的な事はしないでほしい。」と言われたセラピストの話。

現地スタッフの言い分は「継続してフォローできない人が自分にしかできない手技で中途半端に治されると、患者も混乱するし、スタッフもフォローできない」という。それに対して憤るセラピストたち。「患者は混乱しない。混乱するのはスタッフだけ。学ばないセラピストを擁護するために困っている患者を見捨てることはできない。」

そういうことじゃないでしょう。

大災害を乗り越えるために必要なのは運動機能や精神機能だけじゃない。人とのつながり、地元のコミュニティー、支え合う人間関係こそ必要だろ。

特に地方の、良くも悪くも密な人間関係は、一度崩れると回復するのは大変じゃないの?

余所から来た自信満々なセラピストに魔法のような手技で痛みを取ってもらった人達が、それができない地元のセラピストと、良好な人間関係が築けなくなったら、それは地元のセラピストが悪い。そうかもしれない。それで、患者は困らないの?運動機能障害に無効なセラピストが、心の支えとなっている可能性はないの?

何故整形外科の外来がサロン化しているのか、考えないの?

その患者は、日常生活ですら老いや障害に対する不安を抱えている人達で、大災害後、一番必要なのは、運動機能の専門家の傾聴だと、現地スタッフが言うのを無視して「患者のため」と言い切れるの?

バカなの?

だから嫌なんだよ。手技にこだわるセラピストは。
趣味と仕事を比較して、仕事の方が重要だという人って、可哀想だなぁと思います。趣味と仕事とどっちが大切かなんて考えは、右足と左足のどっちが大切かと言うのと同じです。どっちも大切で、どっちが欠けても辛いものですよね。

長年付き合ってきたbulldogとさよならして、コペンに乗ることにしました。

趣味の大切さを理解してくれる、素敵な妻のおかげです!
自分の器の小ささは、その出来事が起こってからしばらくたって自覚するもので、時すでに遅し、後悔先にたたず、むしろ後悔後を絶たず、なわけだが、最近は、出来事の最中に自分の器の小ささを自覚することが多々あり、私なりに成長しているのかなぁと感じる。不惑の世代になって、ようやく。大器晩成過ぎ。



Android携帯からの投稿
病棟での高齢者のリハビリでは、リスクを最小にすることに注意が向きます。

例えば、認知症があって転倒歴がある場合、退院してもとの生活に戻れば間違いなく転倒します。

入院するほどの「激しい症状」が出て、それをお薬で調整しているわけですから、どんなに入院中にリハビリで歩行能力を強化しても、転倒の危険性は「激しい症状」がでる前よりも確実に高くなっています。

5年ほど前、そういうケースに出会いました。

徘徊・転倒を繰り返していた認知症の患者様です。入院中に服薬調整し、症状は落ち着きましたが廃用症候群で歩行が余計に不安定になりました。歩行練習により、伝い歩きはできるようになりましたが、自宅に退院してデイケアに通所することになったので、通所先の理学療法士には次のように申し送りました。

<認知症の程度と運動機能から考えると、歩行による生活は危険と思われる。車椅子生活を前提としてリハビリプログラムを組んでほしい>

通所先の理学療法士から返事がきました。「歩く能力はまだまだ向上すると見込んでいる。利用者様のQOL向上のためにも、歩行自立を目指していく」

退院後、デイケアでの積極的な個別リハビリと、フロアスタッフを巻き込んで歩行の機会を増やす「生活リハビリ」で、杖を使用して見守り歩行が可能となったそうです。ただ、自宅ではよく転ぶらしく、顔や腕はアザだらけでした。それを本人も家族も理学療法士も承知の上で、歩行自立に挑戦していたようです。数ヵ月後、自宅で転倒・大腿骨の骨折で入院、その後施設入所となりました。


何が正しかったのか、今でもわかりません。病院にいると、リスクを減らすことに注意がいきますが、在宅に関わっていると、リターンを増やすことに目がいきます。

どちらが正解というのはないのかも知れないですが、重要なのは、本人が何を望んでいるのかということだと思います。




本人の望む形で、新たな幸せを叶えてほしいものです。
「楽しむ」なんてことは、機械にはできないので、何となく高次元なことだと思っていました。ヒトだから楽しめるけど、動物は楽しんでいるようにみえても、反射的に行動しているだけだと思っていました。

最近脳機能の記事を読んだところ、大脳辺縁系は快不快の判断をする部位だそうで、好奇心や楽しみなどの感情が発生する部位だそうです。

大脳辺縁系は古い脳で、動物にも存在しています。犬猫も遊びを楽しむことが出来るんだと、納得しました。

父親は、スズメが屋根を滑って遊ぶ姿を見たと言います。数羽が交代しながら何度も屋根を滑っては飛び立つ行為を繰り返していたそうです。遊んでいるとしか思えなかったと。

鳥類にも大脳辺縁系があるようです。さらには、魚類にも感情があるとか。

生き物は、感情で動くようにできているんですね。