こんにちは、受験パパ@NAGOYAです。
今回は、なかなか悩ましい問題であり、これだという解決策がなかなか見いだせない「『落ちこぼれ』と『吹きこぼれ』問題」について、少しお話したいと思います。
さて、皆さんは、「落ちこぼれ」という言葉は、ほぼすべての人が聞いたことがあろうかと思います。
簡単に言えば、ある集団が求める能力(レベル)についていくことができず、その集団から離脱してしまうことです。
勉強でもスポーツでも、いや会社を含めた社会のあらゆる中に、常に「落ちこぼれ」は存在し、 皆さん自身も何かしらの分野では「落ちこぼれ」ではないかと思います。
ちなみに私は、スポーツの中でも球技がからっきしダメで、完全な「落ちこぼれ」です。
特に野球ポールより小さいボールを使う球技は、ド下手くそです。
例えば、野球(ソフトボールはまだ少しまし)、テニス、卓球、ゴルフはいくら練習しても、全く上達しません。
昔、「ゴルフは社会人としての嗜みである!」と自分に言い聞かせ、結構練習したのですが、スコ ア1 00を切ることがどうしてもできず、そのうち肩に炎症を起こすようになり、今ではすっかりご無沙汰です。
一方、ボールがそれなりに大きい球技、例えば、サッカー、バレーポール、バスケットボール、ハンドボールは、うまくはないけれど、他人の足を引っ張らない程度にはできていたと思います。
なお、ボールを一切使用しない、陸上(投てき競技除く)、水泳は、小・中学校時代は学校代表とし て大会に出場したこともあるので、まずまずの出来だったと思います。
このように「落ちこぼれ」体験は、ほぼすべての人が何かしらの経験があり、容易に理解もできるかと思います。
それに引き換え、「吹きこぼれ」は、自分のまわりの生徒との能力差があまりにもありすぎるため、 同級生との話が噛み合わなかったり、授業がつまらないと考え、授業に身が入らない現象等をいいます。
日本の学校教育は、長年「落ちこぼれ」対策に相当な力を入れてきた一方、「吹きこぼれ」については全くノーケアである場合が多かったと思います。
「短時間で理解し、習得できるのだから、それでよいではないか。」というのがその理由かと思います。
でも、今の日本といいますか、世界を俯瞰すると、この「吹きこぼれ」た生徒をうまくコントロールし、思う存分に才能を伸ばしていくことが急務になっていると思います。
特に科学技術・理論の最先端では、大学卒業レベルでは到底理解できず、博士号を取得していても正確に理解することは厳しいと聞いたことがあります。
例えば、「量子コンビュータ」は、どういうロジック(仕組み)で答えを導き出すのか、私にはさっぱりわかりません。
日本は、明治維新以降の教育改革の中で、富国強兵の一貫として全国民に最低限の知識を習得させるべく、学制を整えました。
加えて、当時は小学校だけとはいえ「義務教育」とし、強制的に一定レベル以上の学力を習得することを求め、お金も人材も惜しみなく投入してきました。
そして、全国津々浦々まで小学校を設置するとともに、各都道府県に師範学校を設立し、いわゆる「学校の先生」を量産してきました。
ちなみに戦前の師範学校は、教師の養成は国家にとって早急に必要なことであり、かつ貧しくとも有能な人材を掘り起こすべく、陸軍=海軍兵学校等と同じく授業料が無償でした。
また、明治政府は、(ここが偉いなと思うところです)それだけは全く足りないと考えたが故に 才能ある若人を世界中に留学させ、特に欧米の最先端の科学技術・理論等を学ばせました。文豪 と言われる森鴎外や北里柴三郎がその典型例です。
その結果、留学先から帰国した若人は各界の若きリーダーとなり、持てる才能を思う存分開花させていきます。
今の日本では、この「思う存分才能を開花させたい」と望み、十分にその力を有する生徒の処置に公立学校の先生方が困っているとの新聞記事を読んだことがあります。
どうも「吹きこぼれ」た生徒は、まわりの生徒との「能力差」が疎ましくなり、友達付き合いも疎遠となり、最悪の場合は不登校になるケースもあるそうです。
現実としては、都市部の「吹きこぼれ」た生徒は、超難関中高一貫校に進学し、その学校で同等の才能をもち、同じように「吹きこぼれ」た生徒と親交を深め、切磋琢磨しているケースが多いのではないかと思います。
正直なところ、「吹きこぼれ」た生徒の才能を開花させることは、転勤もあり、かっ教員の学歴も「大学卒」が多い公立学校では相当難しいのではないかと考えています。
ですから、特に市町村の教育委員会はどう対処してよいのか、全くわからないのではないかと思います。
あくまで推測ですが、愛知県を含めた地方では、一部の私立中高一貫校や国立大学教育学部附属学校が、結果として「吹きこぼれた」生徒を引き受けているのではないかと思われます。
私がお話ししていることは「エリート教育」を礼賛しているわけではありません。むしろ、子供たち個々の才能にあった教育を実施すべきだということを申し上げたいわけです。
ですから、必死になって中学受験の勉強をし、(偶然といっては失礼ですが)超難関中学校に合格しても、その学校で「深海魚」 になってしまうくらいならば、やや難易度を下げ、同じような能力、興味・関心を持ったクラスメイトと心身ともに健康な状態で切磋琢磨した方がより確実に能力が向上すると思います。
割合は圧倒的に高いにしても、灘高校卒業生全員が東大や京大に進学しているわけではありません。
私が卒業した田舎の県立進学高校でも東大に進学した者が何人もいるわけですから、一人ひとりの子供の性格をよく把握し、それに似合った教育を施ししていく、指導していくことが重要かと思います。
また、以前、「飛び級入学」して千葉大学に入学した生徒の「その後」について記事を読んだことがあります。
当然、飛び級入学に恥じず、世界第一線の研究者になっている人もいれば、持てる才能はあるものの、研究者としての立場を離れ、全く別世界で生計を立てている人もいました。
やっぱり、才能を伸ばすということは難しいなと考えてしまいます。
世界中の英才が競う「最先端の研究」は、野球で言えば、アメリカ大リーグで活躍するようなものなので、その厳しさが容易に想像できます。
とはいえ、理想論であることは十分に承知しつつも、個々の子供たちがその才能をいかんなく発揮して、多種多様な分野で「最先端」の逸材になっていくようになればいいなあと思います。
結局、小・中・高・大学のどの段階で「能力別」にきめ細かい教育を全員に手厚く施していくかは、学校教育の永遠の課題のように思えてきました。
今回は、まったくまとまりのない話で申し訳ありません。 ごめんなさい。