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目に見える世界は、次々と浮かんでは消え行く空を流れる雲のようであるが、その背景には、目には見えない風の流れや温度などの複雑な要素が絡み合う・・・

これまでの私たちにとっての世界とは、この地球上の狭い範囲の身近な日常の出来事が、それぞれにとっての全てであった。
しかしながら、間もなくやって来る愛と光(情報・真実)の新時代の到来は、その原始的で窮屈な世界観から私たちを解放するだろう。

その時私たちは、この宇宙という広大無辺な世界に住んでいるのだという現実に直面することになる・・・。
新たな広大な認識への扉が開かれ、以前の狭い世界だけでしか通用しない価値観念は、徐々に溶けて消え去って行くだろう。

愛と光、私たちがこれから吸収して行くことになるその情報量は、想像を遥かに超えて膨大である・・・

 

 

私たちは今、闇の時代の終末を見ている。 しかしながら、その支配体系の広報部門を司っているマスメディアが、その帰属している体制の敗戦過程の真実を伝えることは最後まで無い。 それは過去の戦争を例に取っても、敗戦したどの国もがそうであったように・・・。 その『最後』は、間もなく訪れるだろう。 そして始まる。全くそれを知らされる事が無かった私たちの敗戦後のショック・大混乱とともに、愛と光の新時代へ向けての再建への歩みが・・・。

この無限で永遠の時空間における営み中にあって、不可能なことなどは何もない! ありえないことなどは何もない!

ただわたしたちは未知への恐れゆえに、『科学的にはありえない』と断定し、その一言でもって未知への探求の道を閉ざす。
それは科学という道具を自らを守るための手段として誤用しているのにすぎない。

科学とはそもそも未知を探求する為の道具であり、本末転倒である。

さらに他の側面において、『科学的にはありえない』との体制による断定は、一般人を欺くための詭弁でもある。
 

そのどちらも結局は、『私たちの自我(自意識)は永遠の時空間の中における一時の夢でしかない』という真実を受け入れる事に対する潜在意識的な恐れ、そして自己防衛を表しているのだ。

私たちが彼らに直面した時に感じるのは、その極限の恐れである。ゆえに殆どの場合、私たちの意識は自動的にシャットダウンするだろう。

彼らの高い波動(意識)は、瞬時に私たち自身の内なるそれ(先の気付き)をも誘起する。するとそれに対して全く無知な私たちの日常の自我は、そのショックからアイデンティティー守るために自動的にシャットダウンしてしまうのだ。

 

しかしながら、到来している光(真実・情報)の新時代において輝きを増しつつある光は、やがてこれらの事実を浮かび上がらせるだろう・・・

 

自らの内に閉ざした恐れ(闇)への気付きが、愛と光の新時代へ向けての第一歩であり、その一歩が新たな可能性を見通せる場所に私たちを立たせるのである。

 

 

 

 

 

私たちは、自身の病みに全く気付いていない。
そしてそれが世界の悲しみ・苦しみを永遠と引き延ばしてきたのだ。
 

しかしながら今、強烈な光(情報・真実)に曝露されつつある私たちは、その巨大な病み(毒)を膿として浮かび上がらせる。
その身体の底深くに沈められ表に出ないように封印してきた病みは膨大であり、(クラッシュ症候群のように)浮かび上がるその毒に持ちこたえることが出来ず失われる命も沢山あることだろう。
 

本番はこれからだ。

数年の歳月は要するのかもしれないが、それに持ちこたえ乗り越えた時には、私たちは今まで想像だに出来なかった無限の喜びと希望・健康に満ちあふれる世界を見出すだろう・・・

 

幕裏で行われてきた人類の存亡をかけた光と闇の激しい戦いに終止符が打たれ、ついには全てが公にされることだろう。

私たちが知らされてこなかった真実は、膨大を超えてさらに膨大である。

その心に受ける衝撃は計り知れず、これから何年もの時間をかけて、それぞれの心に落とし込んで行く過程をたどることになるだろう・・・

愛と光がその過程を勇気づけるだろう・・・

闇の時代においては利権の網の目に阻まれて実を結ぶ事が出来なかった無数の善意が、はじめて花を開き実を結ぶことが出来るようになるだろう・・・

この詩は今の世をも良く表しているのではないだろうか。
私たちが知る闇の全ては、現実だと思い込んだこの夢(唯春の夜の夢のごとし)の中にのみ存在し得たのだという事を、やがて私たちは知るだろう・・・

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『平家物語』冒頭

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

口語訳

祇園精舎の鐘の音には、
諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。
沙羅双樹の花の色は、
どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、
春の夜の夢のようである。
勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、
まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。

私たちが外界を見て、その善悪の追及に集中し続ける限り、その闘争は私たちの想像も遥かに及ばないレベルの操作によって継続し続けるだろう。
なぜならば、善悪という観点から生じる激しい闘争それ自体が、闇の時代を支配してきた存在達にとっての生存の糧なのであり、ゆえに永久に続けさせたいことだからだ。
遥か昔、その善悪という観点は、彼らからの私たちへのプレゼントであり、旧約聖書創世記ではそのことを『蛇にそそのかされたイブがアダムと共に禁断の木の実を食べた』という比喩で伝えている。

それ以来私たちは、この善悪という観点・判断(無知)を、自らの王としての地位に据え、本来王の地位であったはずのハート(全知・創造の源泉)をその足の下に置いたのだ。
ゆえに私たちは、本来誰もが持っていた力(創造性)を忘却の彼方へと押しやり、無知になった。

 

自分には望む人生・世界を創造する力が無いということを信じるようになり、代わりに権威にその力を預けて依存し、導き指導してもらう事を願ったのである。

すると、同じコインの裏側では他者を支配して力を得たいと願う人々が現れ、表側の人々に向かって『その願いに私が応えましょう』と言うのである。

 

ゆえに、私たちの間には絶え間なく分離闘争の火種が置かれ続けてきているのであり、そして現在にまで至っているのだ。

しかしながら今、光によって照らされた混沌の窯の中では、光による変性の過程を経ながら新たな認識が芽を吹き、新時代の基盤が静かに醸成されつつある・・・

 

本来私たちは皆、ハートを通して一つである。

天使や悪魔、一般にはたわいない空想でしかないこれらの表象には、実際的な意味がある。

天使の矢がハートを射る時、その矢の威力(本質)とは、自分の胸に手を当てて想像し得る、また同時に想像を超える純粋さの極み(開かれた目)であり、その瞬間私たちは、真の自分自身の正体を目の当たりにする・・・

益々強まる光(情報・真実)は、私たちの内側をも貫通し、それぞれの本性を浮き彫りにする。
より強烈になる光(封印されてきた現実との直面)の中においては、もはや自らを取り繕う余裕など無くなるからである。
 

それをイエスはこう表現される
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マタイ第10章
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
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パンドラの箱が開封され、それぞれの中からは、怒り、悲しみ、憎しみ・絶望・恐怖・・・、ありとあらゆる悍ましい怪物が飛び出して来るだろう。

今私たちは、これら自らの中に内在してきた怪物を、外界の特定の対象に向かって、写し鏡のようにして見る。
そして、私たちは互いに、鏡に映った自分自身に向かって剣を手に取るのである。

対する、イエスはこう言われた。

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ヨハネ第8章
7 あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい

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