「固有名詞でない固有名詞」の問題というのがあります。
2023年現在、「天才ピアニスト」と云えば、多くは上沼恵美子のモノマネで評判の女性お笑いコンビを思い浮かべるでしょう。「街で天才ピアニストを見かけた」と云われて、彼女たちのことを知らない人だけが、「清塚信也さん?」とか答えるはずです。しかし、彼女たちが芸能界を去って20年の歳月が流れたとしたらどうでしょう? 「天才ピアニスト」と云っても、彼女たち女性お笑いコンビを思い浮かべる人はいないでしょう。清塚信也などを指す一般名詞としか誰も思わないはずです。

2023年現在、『愛してます』、『ラブレター』というその単語だけで、
河合奈保子の3枚目のシングルね。7枚目のシングルね。
そう答える人は、コロムビアレコードの人にもたぶんいないと思います。
これらを河合奈保子の持ち歌として伝えるには、前後の文脈が必要になります。

ところが、『スマイル・フォー・ミー』と云えば、「ああ、河合奈保子の歌ね」と、それだけで通じてしまうんですよ。2023年のいまでも。「わたしのために微笑んで」という一般的な文節で解釈する人は、まずいません。この曲名がまず素晴らしい。

河合奈保子はデビューから『夏のヒロイン』までの約二年間、まさにアイドルらしい正統・王道のアイドルソングを歌い続けました(ここでは便宜上、「アイドル期」と呼びます)。その中でも、『スマイル・フォー・ミー』は、その象徴であったように思います。彼女を紹介する映像でも、この曲を歌う彼女が映されることが、多かったように思います。
理由は、なんといってもその曲調でしょう。彼女の歌は、意外と「陰性」――陰のある歌が多いのです。音楽的に音楽的に云えば「マイナー調」。『ヤング・ボーイ』『愛してます』『17才』『ラブレター』『愛をください』――これらは一様にマイナー調です。その点で、やや「ポップ」さに難があります。
『大きな森の小さなお家』『ムーンライト・キッス』は「陽性」ですが、ミディアムテンポ。陽性かつアップテンポとなると、あとは『スマイル・フォー・ミー』と『夏のヒロイン』を残すのみ。このどちらを選ぶとなったら、やはり前者になるのではないでしょうか。明るくポップで、まさに「奈保子ちゃん」のイメージそのままです。

『スマイル・フォー・ミー』はオリコンチャートで4位(初のトップ10入り)、セールスで26万枚と、彼女の「アイドル期」の歌としては最高を記録しています。「紅白」初出場を果たしたのも、この歌です。
と同時に、河合奈保子にとっての芸能人生の中でも最大最悪の災難もまた、この歌に関係しています。
※ウィキペディア参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/河合奈保子

あわや一生車いすという大けがを、彼女は番組リハーサル中に負ってしまいました。二か月の療養を経て、復帰の舞台は、なんと「NHK紅白歌合戦」! それも初出場。トップバッターです。芸能人がその生涯で何度あるかの大舞台です。普通の状態でも、大プレッシャーです。それに大けが明けの初の舞台として臨んだのです。
しかもその舞台は、「レッツゴーヤング」で大事故を起こした、当の現場なのです!? かつての怖ろしい体験がフラッシュバックして、蘇ったことでしょう。日本で最も注目される歌番組の生放送のステージで、もしも歌えなくなってしまったりしたら……同情は集まるにせよ、歌手としては致命的だったに違いありません。

彼女が味わったであろうと恐怖と、プレッシャーと、そしてそれらに立ち向かい、見事『スマイル・フォー・ミー』を歌い切った歓喜――それは一体、どれほどのものだったのでしょうか。

当時の映像を、DVDで視ました。他の紅組歌手たちに囲まれて『スマイル・フォー・ミー』を歌う彼女は、そんな悲壮さなど微塵も感じさせない、明るく、朗らかで、可愛らしい、「いつもの奈保子ちゃん」そのものでした。でも、そのことを知ったうえでこれを視ると、その様子にかえって、彼女の健気さ、がんばりに、また泣きそうになってしまいます。歳のせいか、涙もろくなっていけません。

それは弱冠十八歳の女の子が経験するには、あまりにも過酷な試練だったと思います。
しかし、だからこそ、この出来事はドラチックであり、感動的でもあります。

これは「映画」になり得る題材ですし、是非そうしてほしいと思います。観たいです。
でも、それが叶わぬ望みであるなら、自分でやるしかありません。自分でできる限りのことを。

これは「小説」ではありません。「小説」以前の設定――「創作ノート」です。それを「作品」として発表します。それがいまのワタシにできる、精一杯だからです。

ワタシの創作衝動は、「設定」と「シーンの断片」とがセットで訪れます。ここまでは云わば、「人知の及ばぬインスピレーション」の領域です。
これをちゃんとした「小説」にするには、それらシーンの断片を結ぶための筋立てを考え、ひと繋がりの物語にする――「人知」の領域での作業が必要になります。これが大変なのです。これができる人が、「創作者」なのだと思います。

ワタシは「創作」の真似事しかできません。後者の作業をするだけの時間も、自信も、根性もありません。そこで前者だけで、ワタシなりの「作品」にしてしまおうと思います。「映画の予告編」みたいなものですね。実機を製作するだけのお金もマンパワーも無いから、アイデアだけでも、想像図だけでも、というわけです。
今回、「オープニング」部分だけは、小説っぽく書いてみました。あとは設定で、みなさんがご自由に想像の翼を広げてみてください。ほかにもインスピレーションを得たシーンの断片は幾つかあるので、近いうちに「映画の予告編」的に発表できたらと思います。
「書きたい」「書ける」――そう思ったピースを順不同で発表していって、気がついたら全てのピースが埋まっていた。――そうできたら、理想的ですね。

※当時の映像を収録したDVD

 

 


●タイトル
スマイル・フォー・ミー

●題材および概要
河合奈保子の1981年10月のNHKホールで起きた重傷事故から、その年の紅白歌合戦のステージで復帰した実話をもとにしたフィクション。

●あらすじ
沢合素直は昨年デビューしたアイドル、18歳。念願の「紅白歌まつり」初出場を前に、番組収録のリハーサルで重傷を負ってしまう。全治二か月――。復帰の舞台は初出場の「紅白歌まつり」! だがそのステージは、重傷を負った、その同じ場所なのだった……!?
(ストーリーの骨子だけ抜き出すと、事実そのまんま。)

●劇中に登場する歌曲
タイトルである『スマイル・フォー・ミー』を始め、歌曲は実際のそれを使用する。よって主人公のライバル・杉村星奈が歌うのは、『夏の扉』であり『白いパラソル』である。ここを創作のオリジナルにしては、決して現実には太刀打ちできない。

●人物・団体名等
登場人物、プロダクション、放送局、番組名などは全て創作のオリジナルにする。たとえば、「NKH(日本国営放送)」の「紅白歌まつり」「ゴーゴーヤング」といった具合に。
ただし、「山口百恵」の名は実名で登場する。物語の舞台となる1981年時点で、すでに引退しているからである。

●主な登場人物
《実在のモデルがいる人》
沢合素直(さわいすなお)
本作の主人公。GAプロダクション所属。性格:おとなし目。スタイル:ぽっちゃり目、バスト大き目。学業:優秀。運動:苦手。星奈とは「ライバル」と目されるも、歌の順位は十位圏内がやっとで、1位が定席の星奈に対しては常に後塵を拝する格好となっている。豊満なスタイルの素直の水着姿は世の男性たちを魅了し人気を博していたが、そんな仕事ぶりをライバルの杉村星奈には何かとばかにされている。
星奈のドS発言に常に涙目になるだけの素直だったが、一度だけ自分のファンを侮辱されたことで星奈を平手打ちにしたことがある。これはクライマックスの「紅白歌まつり」の重要な伏線となる。口癖は元気のよい「ハイ!」。

杉村星奈(すぎむらせいな)
サンセットミュージック所属。性格は超勝ち気な自信家。出す曲はことごとく1位を獲る当代のスター。均整のとれたプロポーションの持ち主だが水着は完全拒否、周囲を残念がらせている。「わたしは歌手。オナペットになるために、この世界に入ったんじゃない」。ことあるごとに素直の水着仕事をばかにする。「そうやって“性”少年のオナペットになってなさいよ」。それでいて、ことあるごとに素直のバストを揉みしだいては、その感触を愉しんでいる。口癖は素直のバストを鷲掴みにして曰く「あんたに負けてるのは、ココだけ」。さらに、「あんた見てると、イライラする」。

竹内かぐや
シンガーソングライター。結婚以来、スランプに陥っている。素直の隠れファン。のちに『けんかをやめて』を提供し、素直の歌手人生に転機をもたらすことになる。
「この娘は、もっとしっとりとした、バラード調の歌だって絶対似合うと思う」
「書きたいわぁ、この娘の歌!」


山脇達雄
かぐやの夫。同じくシンガーソングライター。素直×星奈のアイドル競争を冷静かつシビアに分析する。

松濤院弓子(しょうとういんゆみこ)
高名な人気アーティスト。愛称は“ゆ~みぃ”。杉村星奈のこの先のシングル(『赤いスイートピー』か?)を彼女が作曲するらしいとの山脇が小耳にはさんだ噂として、名前のみ登場する。

《モデルがいない本作オリジナルの人》
三枝薫(さえぐさかおる)
GAプロダクションの素直の担当女性マネージャー。仕事は敏腕で、素直の良き味方でもある。
「私はこの会社のマネージャーである前に、人間として申し上げているつもりです。一体あなた方の血は、何色なんですか!?」

宮本洋(みやもとひろし)
GAプロダクションのチーフマネージャー。薫の上司であり、彼女の新人時代の教育係。「パワハラ」なんて言葉はなかった時代の昭和の男。薫が素直に寄り添い過ぎるあまり、彼女とは衝突することも。
「泣くな! 泣くなら家で泣け! 泣くのは俺らの仕事じゃない!」

相原小夏(あいはらこなつ)
NKHに出向しているヘアスタイリスト。女性のような名前だが、れっきとした男。名前通りの中性的な容姿で、女性タレントからの評判は良い。素直と星奈を担当。特に素直の妹と同じ名前だった縁もあり、素直とは親しい間柄でもある。ひそかに素直に想いを寄せていることは絶対の秘密だが、星奈にはそのことを見抜かれており、何かとからかわれることに。「プラトニックな片想い」を信条としていたが、つい視てしまった「芸能人水泳大会」のオンエア映像の前に、彼の禁忌は脆くも崩れ去ってしまう!?
「ごめん、素直ちゃん。赦して――。こんなことをするのは、これが最後。最初で最後だから――。でも、君だって、いけないんだよ? そんな格好で、歌って踊られたりしたら、もう、我慢できないよ――」

来宮静子(きのみやしずこ)
素直の入院先での介護士。24時間体制で素直を介護する。ネーミングは「人狼戦線」(平井和正)から。この名前しかないと思いました。
「気にしないでいいの。いまのあなたは“赤ちゃん”なんだから」

●登場人物について
名前のつく登場人物としてのアイドルは、素直と星奈の二人に絞る。群像劇にしてもしょうがない。杉村星奈はその名のとおり、松田聖子だけでなく中森明菜のイメージも投影されている。星奈の不良っぽさやプロポーション、水着完全NGのポリシーなどにそれが現れている。
素直と星奈は「ガラスの仮面」の北島マヤと姫川亜弓のようなライバル関係にあるが、一方で素直のバストを揉みしだく星奈と、真っ赤になって嫌がりつつ、どこか気持ち良さげな素直の様子は、女同士の「ヤオイ」関係のようでもある(>筆者のシュミ全開)。星奈の素直に対する日頃のドSな言動は、屈折した好意の現れなのかもしれない。
イメージキャスティングについて。素直はかつての同じ年頃の河合奈保子をおいていないが、逆に云えばいま現在の実在するタレントにはいないということになる。星奈は断然、今田美桜さんである。彼女しか思い浮かばない。
筆者が一番興味をそそられるのは、竹内かぐや。なんといっても名前がいい。神がかり的なナイスネーミングだと思う。実在の竹内まりやさんを離れて自由に彼女のことを描くのは愉しいと思う。

 


完成稿(1)「オープニング・はじめのおわり」

一歩踏み出せば、そこには別世界が広がっている。
日本中の注目を集める、そこは夢の舞台。
時は1981年12月31日、午後9時を少し回ったところ。
「NKH紅白歌まつり」――歌手を生業とする者なら、一度は出てみたいと夢見る、この国の大晦日を彩る、国民的行事と云ってもいい歌番組。
華々しいオープニングセレモニーと審査員の紹介を終え、司会はすでに進行を始めている。

少女はひとり舞台中央階段ゲートの手前に立ち、一番手の出番を待っている。
先程までの早鐘を鳴らすような心臓の鼓動は、いまは落ち着いている。
花をあしらいキラキラした宝石を散りばめたカチューシャで髪を飾り、純白のドレスを身にまとった少女は、(なかなかボリューミーな)胸に掌を当て、そのことを確かめる。
うん、大丈夫――そう、自分に云い聞かせているかのようだ。

「いまからおよそ三か月前、このステージで、痛ましい事故が起こりました――」
(あンの、バカ司会者――!!)
その瞬間、マネージャー・三枝薫は、鬼の形相で司会者を舞台袖から睨みつけた。
(わざわざ、思い出させるようなことを――!!)
「彼女は、三か月間の休養を余儀なくされました。長く辛い、苦しい入院生活、リハビリを経て、このステージに再び、彼女は帰ってきてくれました。全国のファンが、どれだけこの時を待ち望んだことでしょう。お帰りなさい! また、君の笑顔を見せてください! 歌声を聴かせてください! 沢合素直さんです。歌うは――」

殺気を孕んだマネージャーの視線を、司会者は知る由もない。
もちろん少女――沢合素直も、そんなことは知らない。そして、司会の言葉に動揺した様子もない。そんなものは意味をなさぬ、ただの「雑音」でしかなかったのかもしれない。少女はただ、前奏の始まりに、全神経を研ぎ澄ましている。

指揮者がタクトを振り、前奏が始まる。
少女は踏み出す。眩いライトに照らされた、日本中の視線が注ぐ、夢の舞台へ。
日本全国のテレビに大写しにされる曲名のテロップ。それはそのまま、この物語のタイトルとなる。

 


スマイル・フォー・ミー
 


Smile for me♪
Smile for you♪

素直がステージに登場するや、コーラスの歌声を掻き消すような大歓声がNKHホールに爆発した。
満面の笑顔で、両腕を高く上げる。ホールの声援に応えるように。

パンプスを履いた足で軽やかにステップを刻みながら、
時計回りに、右ターン。
反時計回りに、左ターン。

怪我とブランクの影響は、微塵も感じさせない。

止まらないの はずむ心は♪

カラーのスタンドマイクは、特別製。この歌のために用意されたものだ。ハート形のキャラクターが取り付けられている。この日のカラーは、もちろん紅。

ホップコーン みたいに踊る♪

ステージ上の天真爛漫な素直の笑顔とは裏腹に、三枝薫を始めとするGAプロダクションの面々の表情は真剣そのものだ。いや、真剣というより、こわばっていると云ったほうがいいかもしれない。その表情は、まるで祈るかのようだ。何事もありませんように――と。

そうよ そっと二人 つなぐ指先に♪
恋が 芽生えているの♪


そのステージの模様は、杉村星奈の楽屋にもモニターで映し出されている。独りカップのお茶を飲む彼女の姿勢はモニターに対して斜めを向いており、無関心を装っているかのようだ。それでいて、星奈の目線は真っ直ぐにモニターに向けられ、それを外そうとはしなかった。

あなただけよ ほかには何も見えないの♪
もっとそばにいさせて 肩がふれあうくらい♪


ロビーではNKH出向のヘアメイク・相原小夏も、大勢のギャラリーとともにモニターの前にいる。彼――女性のような名前だが、れっきとした男である――は両掌の指をガッチリと組み合わせ、はっきりと祈っている。それでも目はつぶらず、瞬きすら忘れて、モニターを凝視していた。
(がんばれ、素直ちゃん――!)

めぐりあって 見つめあって 光にとけて♪

広げた両の腕の掌を、自分の胸へ。

Smile for me!♪

その掌を、今度は観客に向けて。

Smile for you!♪

(よし!)
ガッツポーズのように、三枝薫が拳を握る。

あなたが あなたが まぶしいわ♪

素直は両の掌を観客に差し出すように前へ、伸ばした両腕を左右に大きく広げてゆく。

Smile for me♪
Smile for you♪

コーラス、そして間奏。
軽快なステップを踏み、手拍子。観客がそれにあわせて、さらに強く手拍子を叩く。

(一番は終えた! その調子で、どうかこのまま――)

そう祈るように素直のステージを見守っているのは、三枝薫ら関係者だけではない。
渋谷区・NKHホールから遠く離れたマンションのリビング、そのテレビの前に釘付けで、生放送の「紅白」を食い入るように見つめる彼女もまた、その一人だった。

竹内かぐや。結婚し、いまは休業中のシンガーソングライター。同じくシンガーソングライターの夫・山脇達雄は、うしろのキッチンでコーヒーを淹れている。実は彼女が長いスランプに陥っていることを、夫である彼だけが知っている。

彼女が大の、沢合素直の隠れファンであることも。

のちに彼女は沢合素直に楽曲を提供し、素直の歌手人生に大きな転機をもたらすことになるだが、それはまだ先の話。

ここでは時間をちょうど半年前に巻き戻し、竹内かぐや夫妻の一幕を描くことにする。

完成稿(2)「山脇達雄の憂鬱」

『スマイル・フォー・ミー』の音声は前のシーンから継続して流れ続け、いまは二番に入っている。だが、テレビに映る素直と番組は半年前のものである。

「スマイル フォー ミーッ♪」
「スマイル フォー ユーッ♪」
「あなたが あなたが♪」
「まぶしいわァァァァァッ♪」

振り付け完コピで、テレビの前でいっしょになって歌い踊るその姿は、ただのファン以外の何者でもない。
これでもプロのミュージシャンである。それも“シティ・ポップ”でその名を馳せた、けっこう有名な。

そんな彼女の様子を夫で同業者のシンガーソングライター・山脇達雄は、微笑まし気に、同時に苦笑交じりに眺めながら自慢のコーヒーを淹れている。

「今日、6月1日、いま聴いていただいた、わたしの新曲が発売になりました。『スマイル・フォー・ミー』といいます。みなさん、応援してください、よろしくお願いします!」
歌を終え、司会者とのトークで沢合素直がしゃべっている。
「――できたら、買ってくださいネ」
エへへ、と茶目っ気まじりに付け加えることを忘れない。
ちゃっかり宣伝してるね、と司会者が返している。
「買ったよーっ」
ニコニコとうれしそうに、レコードをテレビ画面に突き出す姿は――向こうに伝わるはずもないのに――やはりどう見てもただのファンそのものだ。

 


彼女はその『スマイル・フォー・ミー』のレコードジャケットをボーッと眺めている。テレビの歌番組は素直の出番を終え、演歌歌手の熱唱に変わっている。

「浮かない顔だね」
淹れたてのコーヒーを差し出して云う。
「新譜、買ったばかりだっていうのに? いい曲じゃないか? いままででピカイチだよ。実に、この娘らしい」

「そうなんだけどさ――」
彼の淹れてくれたコーヒーを口にして応えた。
「いつまで、こんな――これはこれでいいと思うよ? わたしも大好きだし。でも――いつまで、こういう方向のアイドルソング続けるのかな? この娘は、もっとしっとりとした、バラード調の歌だって絶対似合うと思う。もっと、そういう歌だって歌っていかないと――」

「――杉村星奈との差は埋まらない。引き離される一方だって?」
彼女が飲み込んだ言葉を、彼はハッキリと口にした。
いやいや認めるように、彼女はコクリと頷く。

「これは、聞いた話なんだけどね――。まだ他所では云わないでくれよ?」
「業界」の秘密の話に、彼女の眼が輝く。思わず身を乗り出してしまう。

「杉村星奈のこの先のシングルの作曲者にどうやら、松濤院弓子が控えてるらしいよ」

(!)
彼女は口にしたコーヒーを吐き出しそうになった。
「あの“ゆ~みぃ”が、星奈の曲を? 信じらんない!?」

「サンミューさんも、いよいよ本腰だね。アイドルを超えたシンガー・杉村星奈のスター街道、女王の座は盤石というわけだ」
「サンミュー」とは、「サンセットミュージック」の略称である。杉村星奈の所属事務所だ。
「フンッ!」
彼女ははっきりとそう口に出して、異議を表明した。
「あっちが“ゆ~みぃ”で来るなら、こっちはこの――」
バン、と自分の胸を叩いて啖呵を切る。
「竹内かぐやがついてやろうじゃないの! どうよ?」

やれやれ、とでもいうように彼は頬杖をつく。
「なによぉ? 不足?」
「君が不足とは云わないけどね。わかるだろう? この娘はね――」
レコードを指で持ち上げて説明した。
「70年代型の“アイドル”を継承しているんだよ。その戦略は正しいと思うよ、ぼくもね。なにしろ、この可愛らしさだものね」
レコードジャケットを見てそう云う。
「そうでしょ? そうなのよ! そう思うでしょ? ホントこの娘、可愛いの!」
ニコニコと、とろける笑顔でそう云う。人に褒められると、すぐにこうして御機嫌になるのだった。まさに「親ばか」そのものである。

「星奈の真似をしたってしょうがない。あっちがアーティスティックな路線で来るなら、こっちは正統・王道のアイドル路線でいく。というわけさ。残念ながら、君の出る幕はないと思うよ?」
「それは、わかるんだけどさあ……」

(その70年代を征したのは、あの人なんだけどね――)
そこから先の思索を、彼は口には出さなかった。
暗い過去を背負い、闇色のオーラを放って他を圧倒し、70年代のアイドルシーンに君臨した女王――。

 交差点では隣の車がミラーこすったと
 怒鳴っているから私もついつい大声になる
 馬鹿にしないでよ

(山口百恵の引退が1980年。杉村星奈のレコードデビューも同じく80年。これは偶然だろうか? 怖ろしい偶然だ――)
(杉村星奈が山口百恵を継ぐ、“アイドルを超えたアイドル”なのだとすれば――)
(杉村星奈と沢合素直の闘いは――)
(山口百恵を継ぐ“アイドルを超えたアイドル”と、70年代型のアイドルを継承する“アイドルらしいアイドル”との闘いということになる。だとすれば――)

(おそらく、この娘に勝ち目はない――)

『スマイル・フォー・ミー』のレコードジャケットに視線を落として、山脇達雄はそんな思索を紡いだのだった。
「なによお、黙っちゃって?」
「――いや。もうしばらくの辛抱だと思うよ? それこそ、この娘が“しっとり”とした大人になるまでのね。せいぜい、あと一~二年ってところじゃないのかな?」

「書きたいわぁ、この娘の歌!」
夢見るように、かぐやが云う。
「オファー、来ないかなあ……?」
「………」

妻のその言葉を山脇達雄は黙って聴いて、そしてこれにも何もコメントしなかった。
(そういう問題では、ないはずだよ)
(書きたければ、書けばいいんだ。商売になる、なるならないは二の次だ。ぼくたちは、そういう種類の人間のはずだよ)
(君は「創る」ことから無意識に逃げている。「オファーがない」ことを口実にして)
だが、それを指摘したところで、何の解決にもなりはしない。それもわかっている。だから、黙っている。もどかしいが、彼女が自ら気付き、克服するのを「待つ」しかないのだ。

山脇達雄はすっかり冷めてしまったコーヒーを口にした。その味は心なしか、いつもより少し苦い気がした。
時は1981年6月1日。

――運命の「事故」まで、あと4か月と5日。

(未完)

 

あとがき

自分で云うのも憚りですが、ここまでお読みいただいて、「続きを読みたい」「書いてほしい」という声のひとつふたつはあると思います。
でも、これは一番書きやすい、ストーリーらしいストーリー展開もなく、ひらめいたインスピレーションのほかに付け足しの必要もなく、それでいて「華」があるという、まことに好都合なオープニングだったのです。だから、書けました。
この先は……ワタシがインスピレーションを得たシーンを「映画の予告編」風にご紹介するつもりです。近いうちに。さすがに、ちゃんとした「小説」に仕上げるのは難易度が高すぎ、すぐには取り掛かれません。河合奈保子さんについて語るべきことを語り尽くしたら、トライしてみたいと思います。

沢合素直は河合奈保子とは違います。似たような特長を具え、同じ歌を歌い、そして同じ目に遭ってしまうわけですが、あくまでも別人です。それは彼女が物語の主人公として、さらに描かれることになれば、より明確になっていくでしょう。
ましてや、シンガーソングライター夫婦に至っては、完全にワタシの創作です。竹内まりやさんのことは、ほとんど存じ上げませんが、少なくとも、あんなアイドルヲタみたいな人ではないことは確かでしょう。借りたのはあくまでお名前と、アウトラインだけです。ミュージシャンであるよりは、完全にアイドルヲタ。心情派と理論派のアイドルヲタ夫婦です。お似合いの夫婦ですね。

「完成稿(2)」のサブタイトルは当初「竹内かぐやの憂鬱」になるはずでした。キャラの重要度からいけば、そうしたかったし、そうであってしかるべきでもあるのですが、書き上がってみれば、どう考えてもこっちだなと。おいしいところ、持っていき過ぎですよね。コーヒー淹れてるだけの端役のくせに。

そして、これはお詫びしておかなければなりません。作者自らツッコミを入れておきます。
腰の骨を折って退院したばかり、コルセットを着けた状態で、そんな派手な振り付けができるかあッ!!!
すみません。ここは大きく、盛らせていただきました。81年紅白の現実そのままでは、「絵」にならないのです。どうか、大目に見てください。素直ちゃんには元気いっぱい、健康そのものの状態同様に頑張っていただきました。鬼ですね。

位置的にはエンディングですが、これはオープニングです。多摩市・カナメさんからのリクエストは、もちろんこの曲、『スマイル・フォー・ミー』。うってつけの動画がありました。
こちらをご覧いただいて、よろしければもう一度、本文を読み返してみてください。
ワタシの拙い文章では、よく思い描けなかった「絵」が、鮮明にイメージされるのではないかと思います。

 

 

2023.10.14 一部変更
2023.11.20 加筆・一部変更
2024.06.01 一部変更