今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -8ページ目

今日という日【5月14日】

■名古屋城焼失

1945年5月14日。

名古屋城」は、尾張国愛知郡名古屋(現:愛知県名古屋市中区・北区)にあった城。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。

名古屋城」は、「織田 信長」誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、「徳川 家康」が九男の義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金の鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。

大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが「名古屋大空襲(1945年5月14日)」によって天守群と御殿を焼失した。戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

今日という日【5月13日】

■カクテルの日

1806年5月13日。

カクテル」という名称が生まれた日(アメリカの雑誌「バランス」1806年5月13日号にて)。

カクテル」は、ベース(基酒)となる酒に、他の酒またはジュースなどを混ぜて作るアルコール飲料。
原始的なカクテルが作られはじめたのは、古代ローマや古代ギリシャ、古代エジプトの時代だったと考えられている。これは、当時のアルコール飲料(ワインやビールであった)の質が現代に比べてはるかに劣るものであり、その味を補正するための手段であった。古代ローマ、古代ギリシャでは、そのまま保存したのでは劣化・酸化してしまうワインに熱を加え、凝縮したうえで副材料(草根木皮や粘土など)を混ぜたものを保存していた。それを水で割って飲むことが一般的なワインの飲み方とされていた。

近年では、氷を用いた「コールド・ドリンク」が主流であるが、そうしたカクテルが登場するのは19世紀末から20世紀初頭になってから。「氷は近代になるまで貴重品であったから」というのがその理由だったが、1876年に「カール・フォン・リンデ」が製氷機を開発したことによって、一年を通していつでも氷を入手できるようになった。これにより、「マティーニ」や「マンハッタン」といった、新しいジャンルの、現在ではカクテルの代表格とされるレシピが発案されていった。
新しいカクテルはアメリカで生まれたものであったが、第一次世界大戦と禁酒法により職を失ったバーテンダーがヨーロッパへ移っていったことによって、全世界に広がっていくことになった。

今日という日【5月12日】

■アッツ島の戦い

1943年5月12日。

アッツの島の戦い」は、太平洋戦争(大東亜戦争)時にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘。「山崎 保代」陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末、玉砕した。

日本軍は1942年(昭和17年)6月に海軍の「ミッドウェー作戦」の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称。アッツ島には第7師団の穂積部隊約1,000人を配置したが、アッツ島部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に移転した。しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の空襲に遭いながらも米川部隊2,650人が進出してアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始した。
1943年(昭和18年)になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された。4月18日に守備隊司令官として「山崎 保代」大佐が着任した。

日本軍の損害は戦死2,638人、捕虜は27人で生存率は1%に過ぎなかった。アメリカ軍の損害は戦死約600人、負傷者約1,200人。アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍は「キスカ島撤退作戦」を実施し、「木村 昌福」少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した。
アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた。「森山 康平」によれば、その際に次のようなエピソードがあったとされる。
昭和天皇は報告をした「杉山 元」参謀総長へ「最後まで良くやった。このことを伝えよ」と命令。杉山はすかさず「玉砕して打電しても受け手が居ない」と言った。これに対して昭和天皇は「それでもよいから電波を出してやれ」と返答した、という。
しかし、5月30日の陸軍少将「眞田 穣一郎」(当時参謀本部第一部長、のち陸軍省軍務局長)の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。眞田第一部長はこの上奏を起案した「瀬島 龍三」の直属長官であり、瀬島は杉山参謀総長とともに車で宮中に赴いている。もし上記のような命令がされていたのであれば、かならず上司である眞田にも報告があったはず。よって、上記の昭和天皇とのやり取りが創作ではないかという指摘もある。