太陽のシーズン
ども!TK89です。
日曜日、今シーズン2度目の海へ遊びに行ってきた。今回は毎年行ってる福井県でも美しい海として有名な水晶浜内の竹波海水浴場。
水がホント綺麗で、海の底が見えるくらい。
原発の「もんじゅ」が近くにあって、奥に写ってる。今は稼働してないから気にならない。ちょっとこの写真、盗撮みたいになっちゃった。モチロンそんなつもりはないけどね!
で、やっぱり美味いカップヌードル!ビールとコイツは絶対外せないマストアイテムだね。
今回は天気良かったし、太陽が眩しいぜってな感じだったから良かった。
帰りは助手席でビール片手に爆睡しちゃったから、ごめんよ我が親友!いつもお世話になってます!!
来週は週の前半頑張ればいよいよ夏休み。まだまだ夏を楽しみたいなぁ。
チャオ!
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今日という日【8月7日】
■タマちゃん現る
2002年8月7日。
「タマちゃん」は、多摩川に現れた雄の「アゴヒゲアザラシ」の愛称。
多摩川の丸子橋付近に出現し、新聞やニュース等でも取り上げられ、話題となった。その後、神奈川県横浜市港北区の鶴見川の大綱橋付近や同市西区の帷子川の横浜駅近くなどに出没。「タマちゃん」の動向が報道されることにより、市民の関心が薄かった都市河川や東京湾の状況に関心を持たせる効果を生んだ。
「タマちゃん」は「アゴヒゲアザラシ」の迷入個体だったが、結局無理な捕獲はショック死させる可能性が高い為、あえて静観という対応がとられた。また野生のアザラシに近づくのは危険だという側面もあった。
鶴見川に現れた頃、横浜市より特別住民票を与えられ西区民となった。登録氏名は「西玉夫(にし たまお)」。これに関して、在日外国人20人が「動物を住民登録するのなら私たち人間にこそ住民票を」とアザラシのコスプレをして抗議行動を行う一幕もあった。
その後、埼玉県朝露市の荒川にも出没した。2004年4月12日午前2時のライブ映像を最後に、以後の消息は不明。2004年7月には「タマちゃん」は海に還ったという報道もされている。
今日という日【8月6日】
■ヒロシマ、原子爆弾投下
1945年8月6日。
午前8時15分17秒、アメリカ軍が広島市に「原子爆弾」を投下した。これは実戦で使われた世界最初の「核兵器」であった。この一発の兵器により、当時の広島市の人口35万人のうち約14万人の命が奪われた。
当時、8月6日は月曜日で、週末の休みは無くj、朝は8時が勤務開始の時間。大半の労働者、徴用工、女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生たちは、「三菱重工」や「東洋工業」をはじめとする数十の軍需工場で作業をしていた。7時9分の空襲警報で市民は一旦は防空壕に隠れたものの、7時31分に警報が解除されたため、外へ出て1日の活動を開始していた。
そして、アメリカ軍「B-29爆撃機 エノラ・ゲイ」により「原子爆弾 リトルボーイ」が広島市に投下された。
爆心地500m圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊。木造建築は全数が全壊した。鉄筋コンクリート建築である「産業奨励館」は垂直方向の衝撃波を受け、天蓋部は鉄骨を残して焼失、一部の外壁を残して大破。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。
また、強力な熱線により屋外にいた人は、内臓組織に至るまで全身の水分が蒸発。炭化した遺体が道路などに大量に残された。爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、惰性力で暫く走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま亡くなった女性運転士もいた。
爆心地での生存者は極僅かであるため、詳細な実態報告は少ないが、投下直後は「原子雲」と爆風で舞い上げられた大量の粉塵が太陽の光を完全に遮断し、一寸先も見えない闇の世界であったという。
爆心地1km地点では、野外にあっても運良く堀や建物などの遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃を避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受けた体の部位が一瞬にして重度の火傷を負った。野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生、女学生などは隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校も多かった。また彼らは熱線直後の爆風で数十mから十数m吹き飛ばされ、地面や構造物に強く叩きつけられ昏倒。さらにこの爆風は屋外の被爆者の衣類を剥ぎ取り、ほとんどは裸となった。そして、爆風は火傷を負った表皮をも皮膚組織から剥ぎ取り、昏倒から覚めた被爆者は、自分の腕の皮膚が剥がれて垂れ下がり、爪のところでようやくつながっていることを知る。背中全体の皮膚がはがれ、腰からぶら下がっている者もいた。強い衝撃で眼球が眼窩から飛び出した者、腸が腹腔から飛び出した者などもいた。
建物の内部にいた者は熱線の直撃からは逃れられたものの、強力な「放射線」からは逃れられなかった。次の瞬間に襲った爆風により、爆心地より2km圏内の木造家屋は一瞬にして倒壊、瓦礫の下に閉じ込められた。自力で脱出した者、他者に助けられた者の他は、熱線により起こった家屋の火災に巻き込まれて焼死した。火災は同時多発し大火となったため、家屋の下敷きとなっている生存者を知りながらも逃げるしかなかった者も多かった。逃れた者の大半も家屋倒壊の際に様々な外傷を受けていた。鉄筋コンクリートの建物内にいた者の多くは、爆風で吹き飛ばされたガラスや建材等の破片が頭や体に突き刺さり、そのままの状態で避難の列に加わった。彼らは水と安全なところを求め、市内を流れる川へ避難し、水を求める被爆者は次々と川へ飛び込んだ。
爆心地から500m以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90%を越え、500mから1km以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60~70%に及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25%が死亡していった。
「原子爆弾 リトルボーイ」の破壊力は、音速を超える爆風、熱線エネルギーは5.3兆カロリー、放射線、黒い雨、二次被曝などをもたらした。人体への影響として、熱傷、外傷、放射能症、放射線症、胎内被曝など恐ろしい影響を与えた。


