生きるってなんだろう | at null

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備忘録。

大晦日に重いタイトルでブログ書きます。
というのも、「喪中」につき新年の挨拶を控えさせていただくからです。

夏に祖母が亡くなりました。

祖母は私が物心のついた時から認知症で、ここ10年くらいは寝たきりの状態でした。
寝たきりで認知症ですから、その時その時の記憶が新たに作られていくのか…よくわかりませんが、そもそも話すこともままならない状態で10年くらい生きていたことになります。

でもそれって「生きてる」って言えるんでしょうか?

もちろん、生命システムとしては機能を満たしているから生物学的に?医学的に?あるいは法的に?「生きている」とは言えるのでしょう。
周りからは「生きている」と思われるでしょう。

でも当人はどうなんだろう?

そもそもそんな判断ができないのかもしれませんが、自分のことがわからないのに生物として稼働しているってどういう状況なんだろう?って思うことがあります。


寝たきりになる前は家で同居していたり、グループホームにいたりしましたが、その時も近い過去の記憶があるのかは怪しく、同居していた時代は毎晩のように母に怒っている姿が印象的でした。(嫁姑問題に認知症が合わさる最悪のパターン)

おかげで自分の幼少期の記憶ってあんまりいいものがなくて…
「祖母が家にいるから」旅行も行けないし、「祖母が家にいるから」夜になると嫌な思いをしなきゃいけないし。

ちなみに認知症になってから妹は「存在を認識されていない」と思います。


そんな状況で生きていたって何になるんだろう?
少なくとも今の自分からしたら、そういう状況になりたくないな。さらっと死にたいなって思います。

もちろん家庭を持って守るべき人、自分が死ぬと悲しむ人がいるとその考え方って変わるんだと思いますが、少なくとも今の私の状況からしたら、そんなことを考えるような感じでもないので、長く生きることよりも自分が動ける短い時間にちゃんと生きたいなって思います。




「人生100年時代」なんていう言葉を最近よく聞くようになってきました。

でもその中で自分の意識通りに動ける期間ってどれくらいあるのでしょうか?もちろん100年まるまるそれができる人もいるでしょう。科学技術の進歩によって、肉体の衰えを補助することができれば意識通りに動ける期間は長くなるでしょう。
でも、意識をすることができなくなったら、それはやっぱり何もできないんじゃないかって思うんです。

制御工学の分野では制御の3要素はセンサ、コントローラ、アクチュエータであるとされています。ヒトの場合、センサ(=感覚器官)やアクチュエータ(=運動器官)は科学技術で補助することはできるでしょう。でもコントローラ(=脳など)だけは変わってしまったら自分じゃなくなるんじゃないか?そう思うんです。

人工知能とか言われてるけど、ヒトの脳みそまるまるコンピュータ上に乗っけることはまだまだ時間がかかるでしょうし、乗っかっても、それって自分なのか?って。


そういう意味では「生きている」ということは自分の中では「自分の肉体で考えることができること」なんだと思います。
それができる間、本当に刹那的な期間なのかもしれませんが、できるだけやりたいことしたいですね。

来年もよろしくお願い致します。