事業の集中と分散
昨日、こんな質問をされました。
「なんで、そんなに、複数の事業をそれぞれ伸ばそうとするんですか?」
事業は、やるからには成長させる必要がある!
と確信をもっていた私にとっては、新鮮でした。
ひとつの会社で複数の事業をもっている場合、
それぞれの事業に専念して働く人はいるわけで、
そうなると、それぞれの事業をやる人に、
叱咤激励?しながら、
それぞれの事業の収益を出させようとする。。。
ところが、ひとりで複数の事業をみるとなると、
マルチタスクになるので、
どれも中途半端になってしまうのではないか?
どうやら、そういうことを言いたかったようです。
入試もそうですよね。
得意な科目を伸ばして、合格を狙うか?
それぞれの科目を無難にこなして、合格を狙うか?
入試であれば、入学試験の一発勝負ですが、
事業では、日々、収益が問われます。
個人事業や副業の場合は、どうでしょうか?
ひとつの事業に絞って成功を狙う?
それとも、複数の事業を並行して成功を狙う?
リソースは限られています。
アーリーステージでは、
1本に絞って、まずは立ち上げるのが王道でしょうか。
それとも、リスク分散の観点から、並行していくつか挑戦する?
アーリーステージは、本業をまずは創り、安定させ、
その上で、芽の出そうなものを伸ばしてゆく。
ある程度、事業が立ち上がっている状態であれば、
それぞれの事業にコアとなる人材・システムを固めたうえで、
それぞれの事業を並行して伸ばすことを考える。
人材・システムが欠乏しているときは、ムリしない。
常に成長のネタは探したいところだが。。。
そういう考えが、一般的な経営者の感覚のように思います。
自分の生活も同じ。
本業を固めて、収益が出たら、
それを、自己投資あるいは金銭投資する。
本業をおろそかにして、
副業で夢をみたり、リスクの高い投資をするのは、
いかがなものか?
そういうところに気づかされた質問でした。。。
じゃ、また。
「なんで、そんなに、複数の事業をそれぞれ伸ばそうとするんですか?」
事業は、やるからには成長させる必要がある!
と確信をもっていた私にとっては、新鮮でした。
ひとつの会社で複数の事業をもっている場合、
それぞれの事業に専念して働く人はいるわけで、
そうなると、それぞれの事業をやる人に、
叱咤激励?しながら、
それぞれの事業の収益を出させようとする。。。
ところが、ひとりで複数の事業をみるとなると、
マルチタスクになるので、
どれも中途半端になってしまうのではないか?
どうやら、そういうことを言いたかったようです。
入試もそうですよね。
得意な科目を伸ばして、合格を狙うか?
それぞれの科目を無難にこなして、合格を狙うか?
入試であれば、入学試験の一発勝負ですが、
事業では、日々、収益が問われます。
個人事業や副業の場合は、どうでしょうか?
ひとつの事業に絞って成功を狙う?
それとも、複数の事業を並行して成功を狙う?
リソースは限られています。
アーリーステージでは、
1本に絞って、まずは立ち上げるのが王道でしょうか。
それとも、リスク分散の観点から、並行していくつか挑戦する?
アーリーステージは、本業をまずは創り、安定させ、
その上で、芽の出そうなものを伸ばしてゆく。
ある程度、事業が立ち上がっている状態であれば、
それぞれの事業にコアとなる人材・システムを固めたうえで、
それぞれの事業を並行して伸ばすことを考える。
人材・システムが欠乏しているときは、ムリしない。
常に成長のネタは探したいところだが。。。
そういう考えが、一般的な経営者の感覚のように思います。
自分の生活も同じ。
本業を固めて、収益が出たら、
それを、自己投資あるいは金銭投資する。
本業をおろそかにして、
副業で夢をみたり、リスクの高い投資をするのは、
いかがなものか?
そういうところに気づかされた質問でした。。。
じゃ、また。
変化、変化・・するとどうなる?
今回は、「変化、変化、変化。すると、どうなる?」です。
いままで、いろいろなものが流行し、廃れてきました。
その中で、残るビジネス、消え失せてしまったビジネス、
そして、別の形になって生きているビジネスがあります。
いまも、変化、変化、変化。
じゃ、これから、どうなるのだろう?
そういうことを考えるときのヒントとして、書いてみます。
どんなアイデアでも、
最初は、定石が見えているわけではありません。
だから、いろいろなことを試す。
そして、生き残った者がスタンダードになってゆく。
また、新しいアイデアが入り込み、
既存のビジネスを破壊してゆく。
これが、一般的な流れですね。
黎明期のときは、成熟期が想像できないし、
成長期のときは、誰が生き残るかわからない。
成熟期になってから、どんなビジネスモデルが出るか?
いつになっても、ビジネスチャンスは見つけにくいもの。
チャンスは、自分なりに見つけるしかないですが、
我々は、世の中の変化を、どう理解し、
どういう考えをもったら、自分なりに未来を予想できるのか?
そんな視点で、思うことを書いてみます。
■ 最後は、シンプルなものに到達し、安定する。
結局、人間ですから、最初は試行錯誤。
でも、熟練してくると、シンプルかつピュアな、
それでいて、負けない(風雪に強い)ものが残る。
最初は、不純物が入っていても、価値がある。
参入者が多くなると、淘汰が始まる。
(いわゆる本物が残る)
そして、成熟すると、非常に純粋に王道を極めたものが残る。
ビジネス上の紛争・交渉も、同じ。
結局、シンプルで本質を突いている側が勝つことが多い。
確かに、先駆者は強い。
先駆者といっても、単にやみくもに早く着手した者ではなく、
最初に、「王道を見極めて、果敢に挑戦し続けた者」です。
やりながら、極めてもいいのでしょうけれど。。。
孫さんは、よく、「志」というけれど、
結局、志は、シンプルなもの。
シンプルかつ力強いものが、未来を創ってゆく。
■ 極めれば、王道を極めようとする者が勝つ。
人は、王道を極めようと挑戦する者に共感します。
最初は、物珍しいだけでも興味は惹きますが、
本質を目指す会社でないと、長続きしない場合が多い。
本業をおろそかにして、多角化で失敗する会社は、
やはり、王道を極めるよりは、直近の利益を目指して、
本質的な(ときに、非経済的な)ところに、
向き合わないことがある。
ビジネスである以上、継続性・価値を創造してゆくべきで、
その観点からずれば、自分らしいところで王道に挑戦した者が残る。
■ 最後は、極めて人間的なものに近づいてゆく。
大昔の(昔話に出てくるような)集落をイメージしてみて下さい。
ご近所があって、顔見知りの人たちがいて、
「よろず屋」があって、周囲の人は、
自分のことをある程度、知っていて、
いいところも悪いところも認められる社会。
昔は、物理的に、土地とか地域で縛られていたものが、
いまは、プライベートや、ネットや、そういう別なところで、
同じ環境を作ろうとしている。
昔は、有線のダイヤル式の黒電話だったのが、携帯電話になり、
昔の井戸端が、ネットに現れて、ソーシャルメディアを形成している。
でも、衣食住の基本は、みんな大切にしていて、基本的な欲求に変化はない。
不審な人を嫌い、幸せ、安全を求めるところも、昔と変わらない。
いま、ソーシャルネットワークが流行しているけど、
いままで空間的・時間的に離れていたものが、
技術の進歩によって、便利になっただけで、基本は変わらない。
ちょっと売り込みしても売れた時代から、
信用がないと売れない時代になったのも、
昔(人間としての本来の姿)に戻っただけ。
普通の社会を違った方法で実現してゆく。
エネルギー問題だって、資源・農業分野だって、
製造業だって、サービス業だって、方向は同じ。
そういう視点で、いまの世の中をみてみると、
冷静に、かつ、ぶれないで、未来に挑戦できるかもしれません。
いままで、いろいろなものが流行し、廃れてきました。
その中で、残るビジネス、消え失せてしまったビジネス、
そして、別の形になって生きているビジネスがあります。
いまも、変化、変化、変化。
じゃ、これから、どうなるのだろう?
そういうことを考えるときのヒントとして、書いてみます。
どんなアイデアでも、
最初は、定石が見えているわけではありません。
だから、いろいろなことを試す。
そして、生き残った者がスタンダードになってゆく。
また、新しいアイデアが入り込み、
既存のビジネスを破壊してゆく。
これが、一般的な流れですね。
黎明期のときは、成熟期が想像できないし、
成長期のときは、誰が生き残るかわからない。
成熟期になってから、どんなビジネスモデルが出るか?
いつになっても、ビジネスチャンスは見つけにくいもの。
チャンスは、自分なりに見つけるしかないですが、
我々は、世の中の変化を、どう理解し、
どういう考えをもったら、自分なりに未来を予想できるのか?
そんな視点で、思うことを書いてみます。
■ 最後は、シンプルなものに到達し、安定する。
結局、人間ですから、最初は試行錯誤。
でも、熟練してくると、シンプルかつピュアな、
それでいて、負けない(風雪に強い)ものが残る。
最初は、不純物が入っていても、価値がある。
参入者が多くなると、淘汰が始まる。
(いわゆる本物が残る)
そして、成熟すると、非常に純粋に王道を極めたものが残る。
ビジネス上の紛争・交渉も、同じ。
結局、シンプルで本質を突いている側が勝つことが多い。
確かに、先駆者は強い。
先駆者といっても、単にやみくもに早く着手した者ではなく、
最初に、「王道を見極めて、果敢に挑戦し続けた者」です。
やりながら、極めてもいいのでしょうけれど。。。
孫さんは、よく、「志」というけれど、
結局、志は、シンプルなもの。
シンプルかつ力強いものが、未来を創ってゆく。
■ 極めれば、王道を極めようとする者が勝つ。
人は、王道を極めようと挑戦する者に共感します。
最初は、物珍しいだけでも興味は惹きますが、
本質を目指す会社でないと、長続きしない場合が多い。
本業をおろそかにして、多角化で失敗する会社は、
やはり、王道を極めるよりは、直近の利益を目指して、
本質的な(ときに、非経済的な)ところに、
向き合わないことがある。
ビジネスである以上、継続性・価値を創造してゆくべきで、
その観点からずれば、自分らしいところで王道に挑戦した者が残る。
■ 最後は、極めて人間的なものに近づいてゆく。
大昔の(昔話に出てくるような)集落をイメージしてみて下さい。
ご近所があって、顔見知りの人たちがいて、
「よろず屋」があって、周囲の人は、
自分のことをある程度、知っていて、
いいところも悪いところも認められる社会。
昔は、物理的に、土地とか地域で縛られていたものが、
いまは、プライベートや、ネットや、そういう別なところで、
同じ環境を作ろうとしている。
昔は、有線のダイヤル式の黒電話だったのが、携帯電話になり、
昔の井戸端が、ネットに現れて、ソーシャルメディアを形成している。
でも、衣食住の基本は、みんな大切にしていて、基本的な欲求に変化はない。
不審な人を嫌い、幸せ、安全を求めるところも、昔と変わらない。
いま、ソーシャルネットワークが流行しているけど、
いままで空間的・時間的に離れていたものが、
技術の進歩によって、便利になっただけで、基本は変わらない。
ちょっと売り込みしても売れた時代から、
信用がないと売れない時代になったのも、
昔(人間としての本来の姿)に戻っただけ。
普通の社会を違った方法で実現してゆく。
エネルギー問題だって、資源・農業分野だって、
製造業だって、サービス業だって、方向は同じ。
そういう視点で、いまの世の中をみてみると、
冷静に、かつ、ぶれないで、未来に挑戦できるかもしれません。
なぜ、いま、自己啓発なのか?
今回は、いつも鋭い!
TJBCメンバーの精神科医のおくさんから。
なぜ、いま、自己分析なのか?を斬ってみます。
では、どうぞ。↓
。。。。。。。
なぜ今「自己啓発」が必要か、マジメに考えました。。。
お久しぶりです。
今回は、少し私の専門分野を使って、
なんで今、「自己啓発」を求める人が多く、ブームになっているのか?を考えてみました。
市場経済(資本主義)と統合失調症(いわゆる分裂症です)の関係性を中心に書いていきます。少し専門的かもしれませんが「へぇ~」と思って頂ければ十分です。
近年(といっても大分以前からですが)、分裂症(ここではこう呼びます)を個人の家族関係や意識の中で考察していくアプローチに否定的な立場に立ち、市場経済(資本主義)の鏡像現象(まぁ、鏡写しってことですね)として理解するアプローチがあるんですね。
今回はそんなアプローチを。
近代以前の、伝統的な社会は、個人を共同体に同一化し埋め込んでしまう「コード化」することによって、その安定を維持してました。
一方、君主制国家というのは、それをより広範な「超コード化」によって軍事的に統合管理していく、というシステムです。
では市場経済(資本主義)は、というと今までの秩序や安定を破壊する「脱コード化」することでイノベーションを誘発し、利益を生み出して資本として蓄え、蓄積する、というものですね。既存のルールや因習にとらわれていると、イノベーションは生まれにくい。たとえ生まれても、その速度は緩やかです。
この資本主義、世界の歴史的に俯瞰すると、非常に変なシステムであり、長期的に維持することは困難なものなんですね。
人間は、安定を求めます。それには「コード化」が必要ですが、資本主義はその「コード」を「脱する」ことにその根幹があるわけです。西ヨーロッパで興った都市国家は、だからすぐに消えてしまったのかもしれません。
しかし近代のイギリスから始まった産業資本主義だけは、戦争や競争に生き残り、今日ではほぼ世界の全域をおおうに至っています。
その秘密は何でしょうか?
今回のアプローチを取る「先生」たちは、その理由を、資本主義が脱コード化によって生まれる利潤を財産権によって「再コード」し、国家という公理系(制度)に回収するメカニズムを備えていたため、だと説明しています。
ここで「おや?」と思った人は、非常に鋭い方です。
そうです。個人には厳しいイノベーションを求めながら、一方ではそれを国家という枠に統合するシステムは根本的に矛盾を内在したシステムだとは思いませんか?
そして、この矛盾したシステムが個人の投影されてしまうと、自己の統一感覚を失ってしまう分裂症が発症する、ということになります。
このアプローチによると。。。
ここで、これを現在の日本に投影して考えてみると、どうなるのか?
平和がながく続いていた日本では、ローカルな共同体による「コード化」が数千年にわたって続いていたという、それこそ驚愕ものの国です。それが、近代になり、天皇制という超コード化が持ち込まれるんですね。これは第二次世界大戦によって破綻し、代わってGHQによって「脱コード化」の資本主義が導入される、という変化が、ほんの短期間に発生したわけです。
そんな短期間、しかも自律的に発生したものではない分余計に、日本社会には現在においても、数千年にわたって蓄積されたコード化の精神構造の残滓があり、戦後70年ぐらいで消滅するとは考えにくいですね。
1980年代まで世界を席巻した「日本型」企業統治は、この構造をうまく活用したものではないかと思います。
ところが冷戦構造の終結とともに、このシステムが突然崩壊してしまうんですね。
「脱コード化」した社会が、それでもそれなりにまとまり、「コード化」されていた冷戦構造が終わり、いきなり「グローバル」という「超脱コード化」が興ったためではないかと思います。
つまり80年代までは、人々は「会社」という繭にくるまれて資本主義の脱コード化メカニズムから身を守って来ていたのですが、90年代後半以降、「グローバル」の名の下に企業が破綻すると、パンツもはかない、素のままの個人が、激烈な変化が発生しているコードのない環境に放り出されたのです。
この結果、鬱病の発症(社会関係の崩壊)増加につながっているのではないでしょうか?
一方、丸裸で寒風吹きすさぶ荒野に立たされた個人(ビジネスパースン)は、自分自身をすさまじい勢いで進む、イノベーションに適合すべく、自己啓発、自己研鑽に励んでいます。
現在日本で自己啓発ブームが起こっているのは、歴史的な必然なのかもしれません。
そして、このブームは結構長く継続するのではないかな?と考えています。
今回は少し長くなってしまいました。
タコつぼ専門的な内容にお付き合い下さった方々に感謝です。
それでは、また次回。La revedere!
TJBCメンバーの精神科医のおくさんから。
なぜ、いま、自己分析なのか?を斬ってみます。
では、どうぞ。↓
。。。。。。。
なぜ今「自己啓発」が必要か、マジメに考えました。。。
お久しぶりです。
今回は、少し私の専門分野を使って、
なんで今、「自己啓発」を求める人が多く、ブームになっているのか?を考えてみました。
市場経済(資本主義)と統合失調症(いわゆる分裂症です)の関係性を中心に書いていきます。少し専門的かもしれませんが「へぇ~」と思って頂ければ十分です。
近年(といっても大分以前からですが)、分裂症(ここではこう呼びます)を個人の家族関係や意識の中で考察していくアプローチに否定的な立場に立ち、市場経済(資本主義)の鏡像現象(まぁ、鏡写しってことですね)として理解するアプローチがあるんですね。
今回はそんなアプローチを。
近代以前の、伝統的な社会は、個人を共同体に同一化し埋め込んでしまう「コード化」することによって、その安定を維持してました。
一方、君主制国家というのは、それをより広範な「超コード化」によって軍事的に統合管理していく、というシステムです。
では市場経済(資本主義)は、というと今までの秩序や安定を破壊する「脱コード化」することでイノベーションを誘発し、利益を生み出して資本として蓄え、蓄積する、というものですね。既存のルールや因習にとらわれていると、イノベーションは生まれにくい。たとえ生まれても、その速度は緩やかです。
この資本主義、世界の歴史的に俯瞰すると、非常に変なシステムであり、長期的に維持することは困難なものなんですね。
人間は、安定を求めます。それには「コード化」が必要ですが、資本主義はその「コード」を「脱する」ことにその根幹があるわけです。西ヨーロッパで興った都市国家は、だからすぐに消えてしまったのかもしれません。
しかし近代のイギリスから始まった産業資本主義だけは、戦争や競争に生き残り、今日ではほぼ世界の全域をおおうに至っています。
その秘密は何でしょうか?
今回のアプローチを取る「先生」たちは、その理由を、資本主義が脱コード化によって生まれる利潤を財産権によって「再コード」し、国家という公理系(制度)に回収するメカニズムを備えていたため、だと説明しています。
ここで「おや?」と思った人は、非常に鋭い方です。
そうです。個人には厳しいイノベーションを求めながら、一方ではそれを国家という枠に統合するシステムは根本的に矛盾を内在したシステムだとは思いませんか?
そして、この矛盾したシステムが個人の投影されてしまうと、自己の統一感覚を失ってしまう分裂症が発症する、ということになります。
このアプローチによると。。。
ここで、これを現在の日本に投影して考えてみると、どうなるのか?
平和がながく続いていた日本では、ローカルな共同体による「コード化」が数千年にわたって続いていたという、それこそ驚愕ものの国です。それが、近代になり、天皇制という超コード化が持ち込まれるんですね。これは第二次世界大戦によって破綻し、代わってGHQによって「脱コード化」の資本主義が導入される、という変化が、ほんの短期間に発生したわけです。
そんな短期間、しかも自律的に発生したものではない分余計に、日本社会には現在においても、数千年にわたって蓄積されたコード化の精神構造の残滓があり、戦後70年ぐらいで消滅するとは考えにくいですね。
1980年代まで世界を席巻した「日本型」企業統治は、この構造をうまく活用したものではないかと思います。
ところが冷戦構造の終結とともに、このシステムが突然崩壊してしまうんですね。
「脱コード化」した社会が、それでもそれなりにまとまり、「コード化」されていた冷戦構造が終わり、いきなり「グローバル」という「超脱コード化」が興ったためではないかと思います。
つまり80年代までは、人々は「会社」という繭にくるまれて資本主義の脱コード化メカニズムから身を守って来ていたのですが、90年代後半以降、「グローバル」の名の下に企業が破綻すると、パンツもはかない、素のままの個人が、激烈な変化が発生しているコードのない環境に放り出されたのです。
この結果、鬱病の発症(社会関係の崩壊)増加につながっているのではないでしょうか?
一方、丸裸で寒風吹きすさぶ荒野に立たされた個人(ビジネスパースン)は、自分自身をすさまじい勢いで進む、イノベーションに適合すべく、自己啓発、自己研鑽に励んでいます。
現在日本で自己啓発ブームが起こっているのは、歴史的な必然なのかもしれません。
そして、このブームは結構長く継続するのではないかな?と考えています。
今回は少し長くなってしまいました。
タコつぼ専門的な内容にお付き合い下さった方々に感謝です。
それでは、また次回。La revedere!