絢香長野コンサート | ニャンコの音楽とオーディオでまったりした日々

ニャンコの音楽とオーディオでまったりした日々

ヤフブロから移ってきました。
ゆるゆるニャンコとツバメ、動物と音楽とオーディオでまったりした日々をおくっています。

オーディオは以下のとおりです。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12481502923.html

たくさんの美しい歌をありがとうございました。

そうして、大好きなブドウ ナガノパープル農家とコンサート中に2列目のリスナーにおられてよかったですね。


コンサートの感想、オーディオマニア、PA観察マニアとして大ホールと今回の音響。もうす上映の信州映画とステンドグラスで絢香さんと繋がったこと、絢香さんご自身のことの順で簡潔に書いてみたいと思います。

「長野公演」
遊音倶楽部で絢香さんを気に入って、オリジナル・アルバムを遡っていったことはつぶやきました。

ぶっ通しで休憩なし。2F席。前半のファーストシングル I believe、4枚目 三日月の連続では、涙腺が破裂しました。

後半のはじまりのときにもまた破裂。

コンサート、ライブで涙腺が緩むことはそうはないのですが、2回も。

歌が上手いのももちろんですが、心を込めてというか、魂が歌っていたからですね。
2F席までしっかり伝わってきました。

途中で集中力が切れることもなく、未発表曲では歌詞に耳をそばだてました。


「音響」



コンサートのあったホクト文化ホールは多目的ホールです。
響きはNHKホール相当の響かないホールで、ここで何度もクラシックを聴いていますが、デッドな残響に辛い思いで聴いています。

今回のような軽音、そうして歌詞をはっきり歌われる絢香さんのようなコンサートには、響かないことはマイナスになりませんね。

ラインアレイの現代型PAスピーカーも相まって明瞭でした。

編成はバックはお二人、ギターとキーボードだけ。キーボードだけといっても、ドラムラインの打ち込みの再生に、場合によってはベースラインも打ち込みであったり、片手はベースラインであったり、
そうして、メインはエレクトリックピアノです。エレクトリックといっても、本物のピアノ相当の音色を彷彿させるものでした。

編成もあって、ロックのような大音響ではなく、部屋でいつも聴いている音量で、耳が疲れることもなかったです。

いい音響であったと感じました。


「信州映画と絢香さん」
ローカルの信越放送70周年記念で間もなく封切られる、剛力彩芽主演のステンドガラスもテーマとなる映画の予告編。
https://sbc21.co.jp/persephone/

なんと主題曲は監督の要望で絢香さんが作られたそうです。

そうして、この撮影場所が、信州でも大好きな蕎麦屋がある、萱さんが入る長野市の隣の千曲市の坂井銘蔵の同社公式サイトにある写真の建物が多用されているそうです。


そうして剛力さんたちにステンドガラス指導をしたのが、先日完成して音楽室にとりつけられた、その中にも支店があるステンドガラス作家さん。

ステンドグラスを通じて、映画、そうして絢香さんと繋がったのは僥倖です。

これがそのステンドガラスです。作家と自分でデザインしました。

 

 




「絢香さんのこと」

半分はウィキペディアからの抜粋引用です。

実は絢香さんというシンガーの名前は存じ上げていましたが、しっかり聴くようになってから1年くらいです。
での声質まで様々に変えた歌、そうして原曲とは異なるバック演奏と相応の音質確保されていて、この1年で10回以上。
 




シンガーの中で一番繰り返し聴いたのがこの2枚だったからです。




特に好きなのは、ミスチルのシーソーゲームのカバー。
絢香さんなりに素敵な調理に聴こえまして、マイフェバリットとして、ミスチルと同じ位聴いたかもです。

彼女は自分で作詞したり、作曲した曲も多く歌っていて、ご承知のとおり、代表曲は高校生のときに作詞した三日月、ファーストシングルのI believeなどでしょうか。

コンサートに行くに当たって、彼女の来歴を調べたら、高校時代にすでにプロになるはっきりした目標を持って努力してきたこと、バセドウ病と戦って来たことを知りました。

以下その部分のウィキからの引用です。
高校1年生の冬、学校の「自分の曲を作ろう」という授業で初めて曲を作った。ただメロディを作るだけのものであったが、カバー曲を歌うのとは違う感覚が生じた。
「自分の曲を届けたい」という気持ちが芽生えてきたが、ちゃんとした曲の作り方やその広げ方が分からなかった。そんなときに知人の紹介で西尾芳彦が塾長を務める「音楽塾ヴォイス」の存在を知った。

2004年5月(高校2年生)、毎週末に大阪-福岡間を片道4時間かけて「音楽塾ヴォイス」に通い始める[10]。西尾による指導のもとで音楽理論を学び、本格的に創作活動を開始。また、高校も福岡市内の第一経済大学付属高等学校(現第一薬科大学付属高等学校)に転学する。

この頃、「上京するため地元を離れる」ということが段々現実的になり始め、「三日月」を作詞する。その歌詞には、それまでずっと一緒にいた地元の友人たちや家族への想いが、反映されているという。