空気の意見  -19ページ目

空気の意見 

過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。

 吉田松陰を使った教育が故郷の行政によって推奨されていると聞いて、
馬鹿げたことだなあ、とちょっと恥ずかしい気持ちがした。
論語や大学や中庸とか、プラトンやソクラテスやアリストテレスなど、
他にたくさんあるだろうになぜ吉田松陰なのか?

はっきりいって松蔭は兵法家と教育者としては有名だけれども、
活動家や思想家としては失敗した人物だ。
その人物を子ども達の教材として第一に取り上げるというのは馬鹿げてるだろう。
ただ行政の人々が、子ども達のなかに真っ当な行動によって、
政権・行政転覆を狙わせるほどの野心が育つことを期待している、のなら賛成してもいいけども。

 正直、松蔭は過大評価されすぎている。
 幽囚録での戦略眼は直感的に優れているが、その根拠はいい加減な神道的文献にあると思う。
そもそも先住民族の生活圏や推測的な自民族の行動圏に影響力を持とうとしている時点で、
外敵排除を考えすぎてひどく話が偏っている。もちろん、あの時代だから仕方がない。
 最後の顛末にしても、ついつい以前と同じような説教をやってしまい、
死罪になるのだから、あまりにもお粗末な結果だ。
むしろ、その先の牢獄からのエピソードに最大の魅力がある人物。
 松蔭のような過激な活動に走った人物を、
「テロリスト」などと当たりもしない言葉で非難する人間がいるけれども、
国際政策と外交を巡って天皇と将軍で真っ二つに割れたあの時代の人間達が、
単純なレッテルでおさまらないユニークな人間達であったことを知ってもらったほうがいい。
それに幕府の存在は整合性を多大に失っていたところだってあるのだ。
外国との交易を幕府だけで進めようともした。

 そのように松蔭だってそこまで教育者として優秀なわけでもない。
だいたい優秀な人物はこっそり外国留学した場合もあるのだから、
松蔭死後の塾生達の活躍を、松蔭だけのものにするのはどうかと思う。

 批判的な感情は誰でも持つけれども、そこに批判的精神を養うのは難しい。
批判的精神は精神が判断していく際の、
明確な手続きの正否に対してのこだわりみたいなものだろうけれども、
これはまったく難しいじゃないか。
スキルのある大学生でもなにかを考えることになると、まったく変なことを言い出す時勢だ。
もちろん僕だってほとんど変だろうし。
それでも、子どもが読みやすい哲学の本でも読ませればずいぶんいいだろう。
プラトンと論語でも読ませるのが王道だろう。
それか最初に三木清の『哲学入門』を読んでみるとか。
他にはフランクルの『死と愛』が多いに得る所があったけど。

哲学入門 改版 (岩波新書 赤版 23)/三木 清
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 今回は心霊現象を錯覚と繋げて感性的なことで探っていきたいですね。
まずはコックリさん、みんなで硬貨に指を乗せて文字表を動かすヤツ。
仕掛けは簡単、誰かが故意に適当に文字を動かしてるんですね。
で、そんなのみんな分かってる、と突っ込まれそうですけど、
じゃあなんでコックリさんで誰かが一時おかしくなっちゃうなどの騒ぎが起きちゃうのか。
人間は心理・感覚的な実感を感じると強い影響力を受けてしまうものなのです。

 たとえばあなたがコックリさんに参加して指を動かさずにいる、
でも誰かのせいで指と硬貨は動くという状況になったとしましょう。
あなたはいま指が勝手に動くという状況にある。
そして、この場にいない存在に対して問いかけの言葉が飛び交い、問答が成立していってしまう。
あなたはコックリさんが居るのだと感じて、
誰かが指で主導して動かしている硬貨が勝手に動いているものだと感じることができる。
考える必要はないんです。そう感じてしまえることが重要なんです。

 ゲームの主催者に一種の演技的な才能があれば、あなたが映画やお芝居や小説に感動するように、
コックリさんのゲームはあなたに神秘的な心霊的な状況を与えうることができてしまえる。
怖い話を聞いていて、後ろを振り返るのが怖くなる心理状態になったことはありますか?
そういった心理状態と心霊的な錯覚が組み合わさると、
場合によってはあなたは本当に心霊現象を感じる。
 つまりコックリさんがいるのだと思ってしまえる。
この指、この硬貨、コックリさんが自分達のなかに居て、いま答えている!

 ここで問題なのは、主催者役、
まあゲームの勘所が分かっていて、自分の演技で人をおもしろくゲームに参加させるような役の人、
そういった人でも、ゲームのなかに、ある心理状態に激しく反応し錯覚に強く吸い込まれる人が居ると、
騙し役でさえときに、コックリさんが居るのだ、と感じてしまうところが問題というか見逃しがちな点です。
こういった心理を引き起こす手段は結構な普遍性がある。そのうえに影響力が強い。
だから子ども達なんかが、このゲームをやると、コックリさんをやると、
ゲームの肝、誰かが主導してゲームを成立させていることを分かっている子どもですら、
もしかしたら、自分が動かしていなかったのではないか、あるいは、
他の子の心理状態に影響されてパニックを起こしてしまう。

 普通は、本当に混乱した人間なんて、目撃することは滅多にありません。
恐怖のために、それは心霊的なもの、にパニックを起こす人を目撃したなら誰でも驚いてしまう。
演劇などは自己暗示を自分にかけたように演技を引き出しますが、
そういったように自己暗示、心理状態、錯覚によって感じたものに、
強く突き動かされる人たちは普通に存在しています。

 なんというか思考型一辺倒の人間よりも、
演技才能、暗示的な素質が強い、感受性の高い人は特に気をつけたほうがいいでしょう。
心霊現象を信じるかどうかよりも、
そういった普遍的な状態や錯覚が人間に存在すると考えたほうがこういったことに対処しやすいはずです。
理知的なだけ科学精神だけで幽霊がいないなどの否定を済ませるひとは、
案外にこういった心理状態に飲み込まれてしまう可能性が高い。
心理的な経験が少ないからこそ、一気にこういった体験を与える仕掛けにやられてしまうわけです。

なぜ、あんな頭の良いあの人があんなとこに?

 といったことが結構ありますけど、確かにこの世に保留されて否定しきれないものが存在するとはいえ、
それに飲み込まれなくともよいはずなのに、多くの錯覚を起こすゲーム、心理状態によって、
突如、素晴らしい精神的な体験を味わってしまうわけです。
そういったゲームを提供する人が安全な人ならいいですが、
すべての人がそうであるわけではありません。

イタコさんや占い師を馬鹿にする人たちもいますが、
相談+演技+芸事等占い、
でそこそこの手間賃・手数料で人気やうまさに比例して値段が変わるくらいなら、
科学的に反していても、見方を変えればかえって健全なビジネスでしょう。


 といっても、こういったことが分かってしまえれば、
そういった心霊事よりも、小説・演劇・映画、にその心理状態・錯覚・自己暗示を駆使できれば、
お約束を受け入れた世界でもっと健全に、
登場人物達と一緒にあるいは自分が登場人物と一体となって、どれくらい楽しめるでしょうか!
フィクションの世界にはたくさんのジャンルがあります!
あなたの心と錯覚のきっかけを使って、現実で無理に、人類を救済しようだとか行動せずに、
何度、多くの人々と世界を救え、または挫折することができるでしょうか?

そして、あなたは奉仕の義務による仕事にすべてを拘束されずに、
社会に参加して、投票や議論や勉強の機会をなんとか完全に失わずに済むでしょう。
現実に人類を救済する活動は幾らかの肉体と金銭の犠牲を求めるものですから。
それにそこで参加した救済を疑うことは許されないでしょう!
しかし社会の内側にある状態は、何を疑って何に対して質問をしても許されるはずです。

つまり、コックリさん系統のものよりは、
もっと楽しいことが我々の現実にあなたを待っているわけなのです。

水彩画プロの裏ワザ (ザ・ニュー・フィフティーズ)/奥津 国道
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 ある者の非人道的行為を国家的義務とし、
また別人がそのような国家的義務がまさに存在してしかるべきだと考えるとき、
両者がお互いに行うであるだろう行為に人間の道徳なる価値は極小化してしまい、
お互いともにそれを裁くいかなる掟がありうるだろうか? と考えてしまう。

 戦争犯罪についての問答がこれにあたる。
ある彼が敵国の捕虜を義務として過酷に扱ってなにが悪いのか?
また私も虐待や拷問を受けても彼を責めることはできない。
ここは簡単に彼が私に拷問を行い、私が彼の拷問を受けたとする。

さらに、道徳が個人の規範を捨てて、国家という概念におさまった国家的道徳に変貌した、
と認めうるのならば、そして一般人と一般人の拷問が純然たる犯罪行為となるなら、
国家的道徳を背負ったという人間の拷問が、つまり官吏がそれ故に、
特別な拷問権限を持ちうるのならば、原理として、
我々は一般人同士の拷問犯罪というものが最初から存在しなかったのではないか?
と疑うことになる。

 実はここで本来の人間精神を主体とした道徳は、
書類と任命手続きによりも低い扱いを受けてしまっている。
なるほど、彼が国家と契約した、というならばまだ考えようもあるが、
しかし実際は彼は、自分が不当な自由の制限や拷問などを受けぬようになるために、
それと、つまり国家と契約したのだ。
手続きがある権限を拡大することはあっても、
元の権利を別の拡大した権利がそれそのものを変容させるなら、矛盾を含んでいるように思える。
個人の生存権が認められながら、
極限状態で死んだ仲間の死体から人肉を食して生き残ったときに、
いかに根本的な権利から拡大してきたような延長線上の監督権などといえども、
生存権を無視して極しまい、限状態を生き残るために人肉を食した人間を、
刑事罰に問うたのでは、
もちろんそこにはつまるところ個人の生存する意志や権利は認められないことになる。
そしてこれを判断するのは名称と権限を帯びようとも個人の道徳的観念である。

誰も不当に扱われないが、不当に扱える誰かが居る。
それでは困るというわけで、そこで一般人から犯罪者に、人間は名前換えをされる。
今回のケースでは、兵士と獄吏である。

 さて、もしも義務の正しさが人間の道徳的観念で決定されるのであれば、
命令の正しさは、義務の正しさとはまったく別の正しさを求めるだろう。
 獄吏の拷問遂行の義務が命令とは乖離して、
ただ単に自分はそれを実行するだけであるという任務の正しさだけであるなら、
どこまでもそれがなんであろうと義務の遂行を目的とするなら、
命令というものは遂行するべき正しさをそれ自身と義務として実行するものなかで消え去ってしまう。

命令と義務がある権限の範囲内で動くとしよう。
中央の軍人が捕虜を処刑せよと命令し、獄吏も命令を受け取り捕虜を処刑する。
それが拷問の命令であり、拷問を行う義務となるのでもよい。
そして立場が変わり、獄吏が捕まり、獄吏の処刑が命令され、それが義務として実行されるものとする。
もしもここで、獄吏が自分の行ったことは正しく、しかし、他国になぜ処刑されるのかまったくわからない。
と言ったとすると、彼は、獄吏はいままで自分が行ってきたこと、
その正しいことが懐疑にさらされはしないだろうか?

 捕虜は宣戦布告を通して交戦したのであるが、
捕虜となった戦場以外において、なにか自分に関係ない命令によって処刑されたり、
拷問の実行の義務に関係があるだろうか? 戦争のなかの一連の取り扱いとはいっても、
彼はそういった命令や義務に関係は一切ないはずである。
しかしそれなのに、なぜ命令は出され、獄吏は捕虜を拷問したり処刑するのだろうか?
それは一方通行の手続きである。捕虜自身とは関係ない正しさである。

すると彼が、獄吏が、犯罪者と一方的にされたとき、
なぜこんなことになるのか全くわからない、
という獄吏の言葉は、相手の行為の拠り所のなさを一面突いたとしても、
同時に獄吏自身が全面的に自身の義務とその命令の正しさを放棄したのである。

それとも彼は戦争犯罪者なるものがよく分からなかったのだろうか?
そうだとしても、それは、その急造の戦争犯罪者という運用の誤りを指摘できても、
自分がなぜこんな仕打ちを受けるのか? という疑問をひとつも助けはしなかった。

 彼は命令の正しさの如何を放棄して、義務の正しさのみに全面的によりかかったとき、
すでに別の陣営からの同様の仕打ちを退けることはもうできなかったのだ。
国家的道徳の正しさが個人的な道徳を無視するのならば、それらの整合性は手続きにしかない。
また国家命令の正しさを一個人が考えるに及ばぬのなら、
命令を実行しながら内実は命令のうちに発見できる自己の道徳的観念を無視してしまえば、
単に義務はただ義務自身にしか正しさを見出せない。
すでにいったようにそれはそのうえに一方通行となりうる。

しかしなにかを遂行するための、主体と客体の関わりにおいての義務が、
主体のみで完結できるならば、それは不毛に近い。
たとえば、あなたが主体で完結できるというのなら、こう考えればよい、
あなたの意識が主体として客体である肉体に関係できないのなら、
いくら意識が食事をしようと思っても、肉体を使えば主体のみではいられまい。
そして人間に主・客が同一であろうとスプーンや箸を持つこと、
あるいはスープを直接啜ることすら客体との関係である。
また現象としてそこにあるとしても主体が客体に関係できねば、それは夢・まぼろしではないか。

それがもしも本当の義務ならば命令を確かめるはずである。
なぜなら命令が正しくそこにあるか関係せねば分かろうはずがないからだ。
観念の判断が、それが国家的であろうと個人的であろうと、
観念が義務や命令を疑いもしないような状態は、義務は本当に命令を確かめていたのだろうか。
また命令は本当に義務のあることを知っていたのか。
そして国家的道徳の観念だとか個人的道徳の観念だとか、本当に正しく存していたといえるのか。

「そうしなければ彼が囚人になり拷問されていただろう」という声があれば、
僕はそういったことではないのだ、と言いたい。
それは戦略であって道徳の正しさではない。
それが戦略の問題なら人はいかに殺されようと構わないところがある。
しかし、自分が獄吏として正しく捕虜を拷問し痛めつけ、到来した瞬間に、立場は逆転してしまい、
囚人となった獄吏の「正しい自分がなぜ死ぬのか」という言葉へ、
「あなたは非道な戦略によって死ぬのです」といえば、彼を少しも納得させられないでしょう。

これは僕による彼への稚拙な追悼文なのです。誰かを責めるために書いているわけではないし、
そもそも本人が死者となってしまったのに責めることはもうできない。
結局、お互いの陣営ともに自分のルールを適用しあって殺しあった。
したがって、そこに完全な正しさが見出せないだけで十分だ、という気がする。

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