ある者の非人道的行為を国家的義務とし、
また別人がそのような国家的義務がまさに存在してしかるべきだと考えるとき、
両者がお互いに行うであるだろう行為に人間の道徳なる価値は極小化してしまい、
お互いともにそれを裁くいかなる掟がありうるだろうか? と考えてしまう。
戦争犯罪についての問答がこれにあたる。
ある彼が敵国の捕虜を義務として過酷に扱ってなにが悪いのか?
また私も虐待や拷問を受けても彼を責めることはできない。
ここは簡単に彼が私に拷問を行い、私が彼の拷問を受けたとする。
さらに、道徳が個人の規範を捨てて、国家という概念におさまった国家的道徳に変貌した、
と認めうるのならば、そして一般人と一般人の拷問が純然たる犯罪行為となるなら、
国家的道徳を背負ったという人間の拷問が、つまり官吏がそれ故に、
特別な拷問権限を持ちうるのならば、原理として、
我々は一般人同士の拷問犯罪というものが最初から存在しなかったのではないか?
と疑うことになる。
実はここで本来の人間精神を主体とした道徳は、
書類と任命手続きによりも低い扱いを受けてしまっている。
なるほど、彼が国家と契約した、というならばまだ考えようもあるが、
しかし実際は彼は、自分が不当な自由の制限や拷問などを受けぬようになるために、
それと、つまり国家と契約したのだ。
手続きがある権限を拡大することはあっても、
元の権利を別の拡大した権利がそれそのものを変容させるなら、矛盾を含んでいるように思える。
個人の生存権が認められながら、
極限状態で死んだ仲間の死体から人肉を食して生き残ったときに、
いかに根本的な権利から拡大してきたような延長線上の監督権などといえども、
生存権を無視して極しまい、限状態を生き残るために人肉を食した人間を、
刑事罰に問うたのでは、
もちろんそこにはつまるところ個人の生存する意志や権利は認められないことになる。
そしてこれを判断するのは名称と権限を帯びようとも個人の道徳的観念である。
誰も不当に扱われないが、不当に扱える誰かが居る。
それでは困るというわけで、そこで一般人から犯罪者に、人間は名前換えをされる。
今回のケースでは、兵士と獄吏である。
さて、もしも義務の正しさが人間の道徳的観念で決定されるのであれば、
命令の正しさは、義務の正しさとはまったく別の正しさを求めるだろう。
獄吏の拷問遂行の義務が命令とは乖離して、
ただ単に自分はそれを実行するだけであるという任務の正しさだけであるなら、
どこまでもそれがなんであろうと義務の遂行を目的とするなら、
命令というものは遂行するべき正しさをそれ自身と義務として実行するものなかで消え去ってしまう。
命令と義務がある権限の範囲内で動くとしよう。
中央の軍人が捕虜を処刑せよと命令し、獄吏も命令を受け取り捕虜を処刑する。
それが拷問の命令であり、拷問を行う義務となるのでもよい。
そして立場が変わり、獄吏が捕まり、獄吏の処刑が命令され、それが義務として実行されるものとする。
もしもここで、獄吏が自分の行ったことは正しく、しかし、他国になぜ処刑されるのかまったくわからない。
と言ったとすると、彼は、獄吏はいままで自分が行ってきたこと、
その正しいことが懐疑にさらされはしないだろうか?
捕虜は宣戦布告を通して交戦したのであるが、
捕虜となった戦場以外において、なにか自分に関係ない命令によって処刑されたり、
拷問の実行の義務に関係があるだろうか? 戦争のなかの一連の取り扱いとはいっても、
彼はそういった命令や義務に関係は一切ないはずである。
しかしそれなのに、なぜ命令は出され、獄吏は捕虜を拷問したり処刑するのだろうか?
それは一方通行の手続きである。捕虜自身とは関係ない正しさである。
すると彼が、獄吏が、犯罪者と一方的にされたとき、
なぜこんなことになるのか全くわからない、
という獄吏の言葉は、相手の行為の拠り所のなさを一面突いたとしても、
同時に獄吏自身が全面的に自身の義務とその命令の正しさを放棄したのである。
それとも彼は戦争犯罪者なるものがよく分からなかったのだろうか?
そうだとしても、それは、その急造の戦争犯罪者という運用の誤りを指摘できても、
自分がなぜこんな仕打ちを受けるのか? という疑問をひとつも助けはしなかった。
彼は命令の正しさの如何を放棄して、義務の正しさのみに全面的によりかかったとき、
すでに別の陣営からの同様の仕打ちを退けることはもうできなかったのだ。
国家的道徳の正しさが個人的な道徳を無視するのならば、それらの整合性は手続きにしかない。
また国家命令の正しさを一個人が考えるに及ばぬのなら、
命令を実行しながら内実は命令のうちに発見できる自己の道徳的観念を無視してしまえば、
単に義務はただ義務自身にしか正しさを見出せない。
すでにいったようにそれはそのうえに一方通行となりうる。
しかしなにかを遂行するための、主体と客体の関わりにおいての義務が、
主体のみで完結できるならば、それは不毛に近い。
たとえば、あなたが主体で完結できるというのなら、こう考えればよい、
あなたの意識が主体として客体である肉体に関係できないのなら、
いくら意識が食事をしようと思っても、肉体を使えば主体のみではいられまい。
そして人間に主・客が同一であろうとスプーンや箸を持つこと、
あるいはスープを直接啜ることすら客体との関係である。
また現象としてそこにあるとしても主体が客体に関係できねば、それは夢・まぼろしではないか。
それがもしも本当の義務ならば命令を確かめるはずである。
なぜなら命令が正しくそこにあるか関係せねば分かろうはずがないからだ。
観念の判断が、それが国家的であろうと個人的であろうと、
観念が義務や命令を疑いもしないような状態は、義務は本当に命令を確かめていたのだろうか。
また命令は本当に義務のあることを知っていたのか。
そして国家的道徳の観念だとか個人的道徳の観念だとか、本当に正しく存していたといえるのか。
「そうしなければ彼が囚人になり拷問されていただろう」という声があれば、
僕はそういったことではないのだ、と言いたい。
それは戦略であって道徳の正しさではない。
それが戦略の問題なら人はいかに殺されようと構わないところがある。
しかし、自分が獄吏として正しく捕虜を拷問し痛めつけ、到来した瞬間に、立場は逆転してしまい、
囚人となった獄吏の「正しい自分がなぜ死ぬのか」という言葉へ、
「あなたは非道な戦略によって死ぬのです」といえば、彼を少しも納得させられないでしょう。
これは僕による彼への稚拙な追悼文なのです。誰かを責めるために書いているわけではないし、
そもそも本人が死者となってしまったのに責めることはもうできない。
結局、お互いの陣営ともに自分のルールを適用しあって殺しあった。
したがって、そこに完全な正しさが見出せないだけで十分だ、という気がする。
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