派遣業の人間を自己責任があるとして批判する人達を、
ひとつ、彼らの横腹を突いてみようかと思います。
つまり私は、自己責任だ、などという、そもそも、
その語についても曖昧な語義しか与えられていないような、
そういった自己責任を用いた自己責任論の考えに、賛同できぬところがあるのです。
自己責任というからにはその対となる言葉があるはずでしょう。
それは社会責任と、ここでは対応しやすい言葉で使います。
ここで、まず事件を導入する、妊婦がたらい回しにされた事件を考える。
この妊婦の身にふりかかった災難をどう還元するか、自己責任または社会責任か?
自己責任派の論を別ケース当てはめて考えると、
妊娠・出産の機会と選択についてしっかり考えなかったからだ、
だから偶発的な出来事にすら対応できなかったのだ。
そこにおいて自己責任があるのだ、となる。
もちろん、社会責任はある。対応できる病院がないのが悪いのだ。
偶発的なことにも対応できる体制、医療に関わる人間としての誇りを持て、というくらいだろう。
違うだろうか?
しかし、これらはなんでも批判できる機械理想論的な考えだ。
機械理想論なんていう用語はないだろうけれども、
単に、理想を信奉して他者達が自動的に最善をつくさなかったから悪いのだ、
と独断するのが自己責任派の考えだろう。
だが上記の事件で一方的に、
妊婦や対応した病院のどちらが悪いとどうして明確に判断できるのか。
そこで、ちょっと、足を止めて、悲劇のことについて、
自己と社会の責任という二分法を中断しないといけない。
たいていは、選択という言葉を持ち出して、
自分で選択したことだから自分で責任をとれ、となる。
しかし、この社会において本当に自由な職業選択なるもの求職者に許されているのか、疑問だ。
その選択と機会は本当にあるのか?
予め予想されるだろう偶発的な事態についてまで責任を取る必要があるのか。
それがあるかどうか、こう自分に問えばいいでしょう。
自分はなぜ宇宙飛行士ではないのか?
自分はなぜ数学者ではないのか?
なぜ銀行マンじゃないのか?
なぜ・・・・・・。
求人活動をしてももちろん雇われるわけでもない。
で、こういう問いはナンセンスに思える。しかし、人はいうでしょう。
あなたに努力が足りなかったのだ、と。
つまり、自己責任論を振りかざす人間にとって、努力と選択というものが重要らしい。
ここで、我々は生まれつき平等ではない、という言葉を思い出しても損はないでしょう。
主体・客体として自己と社会を考えて、客体である社会の総体に向けて、
予想されうる偶発的な事態についてまで対応せよ、と要求はできるでしょう。
実現のほどは難しくて知らなくとも。
それにしたがって、その客体としての社会に向けた機械理想論的な思考を、
誰かが別の人間に適用させだしたときに、難儀なことが起こりそうだ。
私は、予想されうる偶発的な事態について事前に対応できたはずだし、
そういった状態になかったあなたが悪いのだ、という、そして努力すら足りぬのだ。
でも、予想されうる偶発的な事態への、選択と努力とはいったい何をどうするべきなのだろうか。
ここで自己責任論者にそれを問いただしても、出てくるのは精神論がほとんどであろう。
備えをしろ、回避しろ、などその典型例だ。
一回、一回の確率は同じである。累積していくと、
なるほど、起こることが確率としてまったく低い現象が浮き出てくる。
しかし、こういった確率、予想されうる偶発的な事態を回避するための、
ある個人への選択と努力の要求は、もはや、その要求自体でほとんど破綻している。
それはジャンボ旅客機が墜落したときに、
事故に遭遇した個人に事故へ遭ったことに自己責任があると、もしもいえば多くの人は驚くだろう。
しかし、これが派遣業の人々や派遣村がどうだとかニュースになると、
自己責任論で遠慮なく人々を叩き出すような自己責任論者は自分にこう問えばよい。
誰かへの一度の批判でその誰かが自殺したら、
あなたはその責任をなんらかの形で自己責任としてとるのか。これはなんという極論だろうか!
けれども自己責任論者のいっていることは、このような極論でしかない。
予想されうる偶発的な事態への自己責任、選択と努力、その要求、これらの中身の具体策のなさ。
その事態に向けてうまく選択すればよかった、たっぷり努力すればよかった。
ここまで書くと、派遣の仲間の負け組みの恨み言である、と散々に嘲笑が飛んでくるかもしれない。
しかし、もはや罵詈雑言しか返せない人間の論など、取るにも足らないのは明らかだ。
もしも、俺は苦労したから成功し裕福なんだ。
こういった心もとない本人の自覚は、客体となる社会を動かすようなものではない。
つまり、社会をどうにかできぬから、自己と他者をどうにかせよ、
という彼らの有難い究極的発想法なのだろう。
これは問題の解決ではないでしょう。なるほど彼らは自覚した人間をつくれるかもしれない。
だがつくりあげた自覚した人間が出会った地獄の場所で落ちていくのは、
最後に残った自分への破壊的酷使と過大要求でしかない。
地獄で永劫に自殺を試み続けるというわけだ。
そこでいつ地獄という客体の環境を主体的に改めていく主体となる自己・人間が現れるのか?
社会というのは最初から改めるべき客体の環境であるからには、
ある主体の改良という発想が意味を成さないのなら、客体を改めるしかない。
主体の指導により主体がいかようにでもその導きで改まるというのは、
ばかげた理想論の特徴として考えられる。
それは客体を改めるよりもさらに困難なことだ。
生半可な放言で実現できるようなことではないでしょう。
自己責任論というのは、朝四暮三のやり方なのだ。
努力をやらせて失敗したら、選択を変えさせて失敗したら、
頭が悪いのだろう勉強せよとして失敗すると、生まれつきどうしようもないのだから失敗するとする。
彼らがこういった変遷により誰かを突き放してバカにして終わるのならば、
どれ、己の批判によって、指導と教育をしてやろう、などという考えを起こさねばよかったのだ。
東洋思想の聖人ですら立派な思想をもっていても、言うだけで理解させるは難しく、
行動による客体である社会環境の操作により、それを衆人に知らしめる、という。
この行動とは自分が裕福だとか成功したという個人的な修身だけではなくて、いまや、
古代よりはさらなる客体として成長した現代社会へ向けて行われなければならない、
修身だけでは応じることができぬ巨大化した社会を改める方法が求められている。
これはまったく難しいが、少なくとも、自己責任論や機械理想論の出る幕はひとつもないでしょう。
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