日本の古典文学に対して西洋の理論を適用して読むことは学問的に正当か?
という問いに対して、その遭遇により、創造的な議論が可能になるのなら、
こうした出会いは肯定されるべきだろう。と論じる。
しかし、著者の立場があらかじめに、西洋の理論を適用していく前に、
そもそもの始まりからしてポスト構造主義の立場であるならば
(少なくとも私にはそう思える)、テクストを読んでいく前に、
つまりこういった問いと答えをわざとらしく著者に提出されるまでもなく、
ほぼ、遭遇による出会いの肯定、
については著者のやろうとすることを考えれば、
事前に答えが出ていたようなものだ。
それはわざわざ遭遇せずともポスト構造主義の立場を取れば可能だったのだ。
そこで、その可能から、テクストを探る、出会いの肯定はすっきり出てくる。
となると、文中に挟まれて残った、創造的な議論の可能?
なるものの中身は曖昧で疑わしく、ただ顔を覗かせてみせただけに思える。
はっきりいえば、創造的な議論が可能か? などは、出てきて当たり前である。
ここには予想され得る多くの議論を背景に据えてある。その議論の背景に、
まあ創造的なものがあるだろうし、創造的なそれを個人が発見できるかできないかは、
ここでは問題ではなく、可能か、が問題としてあり、可能であり、そして、まずまずあるから、よいわけだ。
学問的に正当か? は実にこの、創造的な議論の可能、にかかっているわけだ。
議論の一般的性格として前提されている創造性とポスト構造主義の立場の二つにより、
上記の問いと答えが支えられていることが分かった。
しかし、いま見てきたように、前もって、創造的な議論は可能であったのであるとすれば、
西洋理論と日本古典文学の遭遇によって、
初めて、創造的な議論が可能になるのなら、という仮定を待たずして、
すでにそれは可能であったのであり、
西洋と日本古典文学の遭遇によって創造的な議論が可能になるのなら、
という条件と仮定はつながっていない。
つまり条件の如何を無視してすでに仮定は可能であったわけだし、
条件にある出会いは著者の立場によりもともと肯定されていたわけだ。
もっといえば、「遭遇によって、創造的な議論が可能になるのなら、」
と述べられているが別にそういったことでもないのだ。
遭遇によらずに、それらは別々に可能なのだし、肯定もされているのだから。
遭遇という条件から仮定は可能として引きだされないうえに肯定も引きだされていない。
つまりは、遭遇などは、単に野球の見せ球程度の言及であって、その正当性は、
西洋の理論と日本の古典文学を遭遇させること自体にはなく、
あらかじめ、問いに離れた場所ですでに先取りされていた正当性の主張なのだ。
そうすると、
日本の古典文学に対して西洋の理論を適用して読むことは学問的に正当か?
という著者の問いは、実はうまく答えられていなかったのではないか?
あるいは問いとして、うまくいってないのではないか?という疑問が読者に生じる。
遭遇をさせて、正当か、などと問い答える必要はなかったのではないか。
この本けっこうおもしろい。
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