朝起きると頭に浮かぶのはただひとりのことで。
あと30分もすれば会えるんだと思うと、じっとなどしていられず、必要以上にバタバタと朝の仕度を終えた。
今までよりずっと念入りな身支度が終わり家を出ようとすると、僕を呼ぶお母さんの声が聞こえた。
「健太郎!」
「なん?」
「えらい早く行こうとしよるけど、今日なんかあると?」
履きかけていた靴をぬいで居間に戻り、テレビに目をやる。
芸能人の結婚を笑顔で伝えているキャスターの右上の時計は、まだ家を出る時間より10分以上前だった。
結局、いつもどおりに占いを見てから家を出た。
愛恵ちゃんの家の塀にもたれかかって、今日の話題を考える。
さっきテレビでやってた芸能人の結婚の話でもしようかな、なんて考えていると、ドアが開いて愛恵ちゃんが出てきた。
「おはよう」
「おはよう」
言えば返ってくるその言葉に幸せをかみしめながら、2人並んで歩いていく。
結局、他に思いついた話題はなかったから朝テレビで見た話をしたが、話しはじめた後にそれは失敗だったと気づいた。
結婚という言葉を口にするのが、どうしようもなく恥ずかしかったから。
結婚したふたりの名前だけを言い、うつむいてしまった僕に、愛恵ちゃんは「結婚したんでしょ?お似合いよね」と笑顔で言った。
そんな話をしながら歩き、俊くんが待っているはずの場所に着く。
そこには今日も誰もいなかった。
待っていると遅刻しかねない、とそのまま通り過ぎて歩いていると、後ろからランドセルのたてるガチャガチャという音が聞こえてきた。
全力で走ってきているのだろうその人を振り返って確認することもせず、愛恵ちゃんと顔を見あわせて笑い、僕らは走り出した。
「俺を置いてくなって言いよるやろー!止まれー!」
「俊くん、いっつも遅すぎるとよー!」
後ろを振り向いて叫ぶと、あっという間に縮まっていた俊くんとの距離にびっくりしてつまずいた。
一瞬のうちに地面が近づいてくる恐怖に目をつぶり、膝のすりむける痛みを覚悟したが、それはいつまでたってもこなかった。
「…あれ?」
ゆっくりと目をあけると、そこにはあきれた顔で僕を支える俊くんと、心配そうな顔をしている愛恵ちゃんがいた。
「どんくさいとに走るけん、こがんことになるっさね」
「健太郎くん、大丈夫?怪我とかしてへん?」
不器用な俊くんとまっすぐな愛恵ちゃん。
2人の対照的な優しさがおかしくて、少しだけ笑いながら、しっかりと2人の目を見て言った。
「俊くんが助けてくれたけん大丈夫。ありがとう」
すぐに目をそらした俊くんのそのそれは照れている証。
こんな風に、愛恵ちゃんのこともいろいろわかれたらいいのにな。
そんなことを思いながら、はやく行かんと遅刻するばい、と歩き出す俊くんの背中を愛恵ちゃんと一緒に追いかけた。
「俊くーん!」
遠くからでの一目瞭然な、他の人より頭ひとつ分とびぬけたその姿に声をかける。
「なんね?水曜日はドッジボールの日けん一緒に帰れんって言いよったやろ?」
投げようとしたボールを持ちなおし、早口でまくしたてる。
不機嫌なときの、俊くんの癖。
「そうじゃなくて、僕もまぜてくれん?」
広すぎるグラウンドのはじっこにいる俊くんたちのもとへたどりついて、はあ、とひとつ大きく息をつく。
そうして呼吸を整えてから、言い慣れない言葉をゆっくりと口にした。
「は?健太郎…今なんて?」
俊くんが聞きかえしたのは、聞きとれなかったわけでも意味がわからなかったわけでもなく、信じられなかったからだろう。
でも、それもあたりまえだ。
今まで、どんなに強く誘われても嫌だ、と固拒否をし続けていた僕が、自分からしたいと言っているのだから。
「僕もしたいって言いよると!」
慣れないことをしているせいかなんとなく気恥ずかしくて、それを隠すかのように語気を強める。
そんな僕の頭の上に手を置いた俊くんは、困ったような笑顔を浮かべた。
意味ありげに向けられる視線に、自分の心が、愛恵ちゃんへの気持ちが読まれているような気がして、それを避けるようにうつむく。
「じゃあお前あっちのチーム」
置かれていた手に頭を軽くおされ、少しよろけながらコートに入り空を仰ぐと、ボールが外野へと飛んでいくのが見えた。
結局、左手で投げるというハンデを負っているにもかかわらず、鬼のように強い俊くんにすぐにあてられてしまった。
そのままなにもできずに外野でぼーっと立っていると、下校のチャイムがグラウンドにまで鳴り響いた。
授業以外で初めてしたドッジボールは、やっぱり授業中と同じように、あまりおもしろいとは思えなかった。
新入りだからという理由でボールを任されたた僕は、素直にそれに従い返しにいく。
先生に驚かれながらボールを返し、職員室から下駄箱までは、待つのが嫌いな俊くんのことを考えて、先生に見つからないように注意しながら走った。
「遅かっさね」
案の定不機嫌そうにしている俊くんに謝り、急いで靴をはく。
なんだかんだ言いながらも先に帰ることはない俊くんの優しさが嬉しい。
いつものようにくだらない話をしながら、ふたりで家路をたどった。
途中で偶然愛恵ちゃんと会ったりしないかな、などと抱いたあわい期待は現実になることなく、オレンジ色の空へと溶けて消えていった――。
ドッジボールをしに外へ出て行くもの、教室に残っておしゃべりするもの、早く家に帰ろうとランドセルを背負い足早に教室を出て行くもの…。
あっという間に静かになる教室に俊くんの姿も見えないことに気づき、毎週水曜日はドッジボールの日やから一緒に帰れんけんと言っていたことを思い出す。
僕も帰ろうと席を立った瞬間、教室に残った女子たちが愛恵ちゃんに話かける姿が見えた。
「かなえちゃん、今日暇?」
「うん」
「じゃあうちらと一緒に遊ばん?」
「ええの?」
「うん、むしろ大歓迎ばい。…誰か一緒に帰る人とかおると?」
ちら、とこちらを向いた愛恵ちゃんと目があい、途端にはねる心臓に、本当に病気にでもかかったっちゃろうかと不安になる。
ただ目があうだけで、言葉を交わすだけで、壊れたように激しく鳴りだす心臓。
今だってほら、ちょっと目があっただけでどうしようもなくドキドキして、心臓がはりさけそうで。
「ドッジボールまざってこよ!」
逃げるように、教室を飛び出した。