大平・ダイダラ・タタラ 2 太平山神社 2 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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太平山弁財天(窟神社)

  

 

 太平山域には、その他に、もう一ヶ所、アジサイ坂の中腹にも、穴が開いている。こちらは、その名も窟神社として、よく知られたところであるが、わたしは、ここもかつては、鉄を産出する鉱窟だったのではないかと怪しんでいる。

 その理由をいくつか述べてみると、まずは、ここに弁財天が祀られていることである。弁財天は伏蔵――すなわち、財宝が隠された場所――を守る神だからである。

 

 

 

窟神社下の鳥居


窟神社上の鳥居


 そういえば、この神社の上の鳥居には、「銭洗弁財天」と記されている。銭洗弁財天といえば、鎌倉市佐助にある銭洗弁財天がその本家だろう。その東北東3300mに位置する、同市十二所の、いわゆる鎌倉アルプス最高峰が大平山だというのは偶然だろうか。ちなみに、鎌倉一帯にダイダラボッチ伝説があるかどうかは、詳しく調べていないので、定かではない。もちろん、あっても不思議はなく、むしろ、あって当然といえる。なぜなら、大平山の南1.5㎞、十二所の小字鑪ヶ谷(たたらがやつ)から製鉄遺跡が出ているからである。原料となった砂鉄は稲村ケ崎のものらしい。鎌倉の浜砂鉄は、品位は劣るものの、その存在はよく知られていて、例えば、南方熊楠は、『江島紀行』に、《化石二つおよび鉄砂を得たり。江島にて介細工中、往々この沙もて黒色をなせり。七里浜辺にあり、取り来て水に晒し用ゆとぞ》と記している。それに、江の島といえば、なんのことはない、弁財天の島ではないか。

 つぎに、この「窟」から絶えず水が湧き出ていることである。「窟」の奥に弁財天の小さな祠があるが、その左に坑道の入口らしきが見える。大小山の大岩にあるマンガンを掘った穴の開口部とよく似ている。明らかに人工的に掘られたものだろう。

 

 



 鉱脈を追って、坑道を地中深く掘り下げていくと、水脈に当たり、水が湧出することがある。ポンプの使用は17世紀後半だというから、それ以前は、人一人が四つん這いになってやっと動ける、狭い坑道のなかで、桶を使って、水を汲み出すしか方法はなかった。しかし、そんなシジフォスみたいなことをいつまでも続けられるわけもなく、結局は放棄するしかなかった。

 《徳川時代の末に、日本の鉱業はいちじるしく衰微したが、その理由は、湧水などの障害によって、それ以上の採鉱が不可能な鉱山が多くなったからである。》(『金属と日本の歴史』桶谷繁雄 講談社学術文庫)

 つまり、この時、すでに、日本のほとんどの鉱山では、地表近くにあった有用な鉱石はすべて取りつくされ、より深く掘り進む以外に鉱石を得ることはできなくなっていたわけである。

 この窟神社の「窟」も、湧水によって放棄された鉱窟の一つなのではなかろうか。

 最後の理由は――実は、これが怪しみの端緒なのであるが、この窟の前の小広場に、なぜか割れた石臼の半分だけが、飛び石風に置かれていることである。

 



 鉱石はそのままでは還元できないので、これを細かく砕いた後、タタラ炉に投入した。その際に使ったのが石臼である。日本武尊が幼名を小碓命といったのは、これと関係があるにちがいない。